地獄の都 壱
閻魔の口から聞こえた言葉の意味を、刀哉は暫し理解出来なかった。元々彼が閻魔との邂逅を望んでいたのは、己の過去を知りたいがため。彼女とてそれは承知のことだろう。それが出会って早々に裁判も経ず、いきなり地獄に堕ちよとはどういう了見か。
白刃も驚きのあまり目を見開いたまま固まっている。
二人の困惑と怪訝を察した閻魔は、すぐに言葉を紡いだ。
「堕ちて欲しいといっても、罰を受けに行けというわけではありません。私が言うのは、旧地獄の都へ赴いて欲しい、ということ」
「地獄の都?」
「はい。近頃、旧地獄に良からぬ霊が多く流れ込み、その始末に困っているのです。そこで、先の乱を鎮めた貴方の腕を見込んで協力をお願いしたい。都には協力してくれる妖怪もいることでしょう」
「……差し当たって断る理由も無いが、ひとつ条件がある」
「分かっています。貴方の過去については既にこちらで把握しておりますが、今ここで教えることは出来ません。まずは地獄での乱れを解決して頂きたい。後は裁判所にて教えましょう」
「承知した。黄泉へ行くには? まさか死ね、なんて言うつもりではあるまいな? それならば断るが」
「三途の川を渡って頂きます。場所は妖怪の山の裏、あなたが現れた無縁塚から中有の道を越えた先にあります。そこで船を待たせておきますので。ああ、もしも船頭の死神がサボっていたり居眠りをしていたときは遠慮なく成敗していただいて結構ですので」
何故か映姫の顔は穏やかに笑っているのに、その瞳には一片の笑みも慈悲も浮かんではいなかった。余程普段の勤務態度が悪い死神なのだろう。思わず笑いが溢れた。地獄の都にも興味が沸いた。
果たして鬼が出るのか蛇が出るのか知らないが、少なくとも猛者揃いであることは容易に想像出来る。
期待のあまり拳を固めている刀哉の姿を、閻魔は少し憂いのある視線で眺めていた。
本題が終わると、茶のお代わりを味わいながら幽々子ご所望の山での生活について語っていく。面白みが何もない話かと思っていたが、幽々子は一々目を輝かせて興奮していた。箱入り娘には無縁の話だったからかもしれない。
外に控える妖夢も聞き耳を立てていた。
彼女も修行という単語には敏感で、わざわざ懐からメモ帳を取り出して刀哉が行った鍛錬の数々を書き留めていく。
「よ、妖怪を食べるだなんて……私にも出来るかなぁ。でも食べれるなら食費の助けになるかも。秋になったら幽々子様っていつもの倍食べるようになっちゃうし。おかげで家計が……くっ」
「あら、そんなに食べていたかしら?」
「ええ。そりゃもう、買い溜めた食料が溶けていくように……って幽々子サマ!?」
ブツブツと物思いに耽っていた妖夢は、一同が茶室から出たことに気づかなかった様子。差し出された刀哉の手に刀が戻され、閻魔は仕事があると言って先に黄泉へ戻った。
刀哉もそれに続こうとしたが、ついでに昼食を一緒にしたいという幽々子の誘いを受けて廊下を歩く際に、妖夢に事の次第を耳打ちした。
「えぇ? 地獄に?」
「うむ。まあ、致し方無いことだ。自分の記憶のためなら、な」
広間に野山の珍味が盛られた膳が並べられ、他愛の無い話で場を盛り上げながら箸で摘む。しかしこれから地獄へ行くという時に馳走を味わうとは、妙な気分だった。
最後の晩餐……というには日が高いが。
すっかり料理を平らげたところで刀哉は暇乞いをすることとした。
白玉楼の門まで幽々子と妖夢が見送りに出て、馳走になった礼を言うと、妖夢が進み出た。
「あの! 私も共に行かせて下さい!」
「え? しかし妖夢には、幽々子の面倒が……」
「あら、これでも女よ? 自分のお料理くらい自分で作れるわ。妖夢には妖夢のやりたいところがあるでしょうし、手間をお願い出来るかしら?」
頭を下げる妖夢を前に、刀哉は踵を返した。
「美味い飯だった。早く付いてこい」
「はい!」
幽界を発った三人は一先ず刀哉の自宅に戻って、旅立ちの支度を整えていく。
竹の水筒に水を注ぎ、道中で食うかもしれない握り飯を包んで草履の紐を締めなおす。砥石、打粉、その他諸々を風呂敷に包んで準備を終えた。
「さてと、参ろうか」
「殿、お荷物は拙者が」
「いえ! 妖夢がお持ち致します!」
またも睨み合う二人を他所に、荷物を携えた刀哉は家の戸を開けた。
「喧嘩するくらいなら留守番してろ」
「す、すみませんでした!」
旅立ちに先んじて寺子屋の慧音に挨拶をしていくことにした。
道場が独立したとはいえ土地を借りているし、住み着いている離れも寺子屋のものだったのだから。
慧音は自分の部屋で書を認めていた。
主には阿求が執筆している幻想郷縁起の資料の纏めである。
そこかしこに書物が積み上げられて足の踏み場も無いが、妙な清潔感があった。
「慧音、今いいか?」
「刀哉か。如何した? 白刃に、魂魄まで引き連れて」
「三人と少しばかり旅に出る。記憶を取り戻す目処が立った」
「そうか! よかったじゃないか! で、何処へ?」
刀哉はどう答えたものか悩んだ末に、人差し指を下へ向けた。
「……地獄、か?」
「都に行って欲しいと閻魔に頼まれた。夏の間には戻ると思う」
地獄に行くなどと言って驚かれるものと思ったが、慧音は静かに頷いて口の端を微かに釣り上げた。そこには母親のような色が濃く浮かんでいる。
「ふふふ、相変わらず律儀なものだ。別に私に断る必要も無いだろうに」
「色々と世話になっているからな。俺の道楽だ。では行ってくる」
「行ってらっしゃい」
気も晴れたところでいよいよ三人は里を出て無縁塚を目指した。
道中に広がる魔法の森に入るのも久しぶりで、幻想郷へ来たばかりの頃を思い出す。魔理沙やアリスに助けられ、一宿一飯の恩義を返すために妖怪の巣に切り込んだ。
ここのところ血の騒ぐような戦をやっていない。
地獄には己を震わせるほどの奴がいることを期待して、彼の始まりの地である無縁塚に差し掛かった。
「あ! トーヤだぁ!」
不意に可愛らしい声色が聞こえ、周囲が漆黒に染まった。
白刃は警戒して小太刀に手を掛けるが、刀哉は手で制して闇の彼方へ呼びかける。
「ルーミアか?」
「わはー」
金色の髪を揺らせて顔を覗かせた人食い幼怪ルーミアは、刀哉がこの地に来て初めて出会った人物だけに互いに親しく、道場をやっている間も時々夜の暗闇に紛れて会いに来ていた。
「飯、ちゃんと食ってるか?」
「人間以外は食べてるよ。トーヤと会ってから、人間食べたく無くなったの~。ところで、そっちの二人はだぁれ?」
「旅の伴さ。これから地獄に行く」
「そーなのかー」
「ところで三途の川へ行く道はどっちだ?」
「向こう。おっきな川があって、いっつも誰か寝てるの」
ルーミアは何処かへ続く獣道を示した。
寝ているというのは例の死神のことであろう。
「そうか。ありがとう」
「また遊びに来てね」
ふわりと森の奥へ消えていったルーミアを見送り、言われたままの獣道を歩いていく。途中で無謀な妖怪が立ち向かってきたが、今となっては同胞の腹の中に収まってしまった。
辺りに漂っている生ぬるい空気は瘴気であろうか。
歩いていて気分が悪い。
だが、気分が悪い程度で済んでいるのも宿っている神のおかげなのだろう。いずれは祠でも作って敬わねばならないか。自分自身を奉っているようではあるが。
すると木々の間から白い光が溢れ、白い靄に覆われた砂利の岸辺が目の前に広がった。耳を澄ませば流れゆく水の音が聞こえる。
三途の川……死者のみが渡ることを許された、あの世への船着場。
見たところ迎えの船の姿は無い。まだ来ていないのだろうか。
「如何します? 殿」
「待とう。少し瘴気に当てられて疲れた」
適当な場所に腰を下ろし、竹筒に入った水を飲んだ。
てっきり綺麗な花園もあるのかと思ったが、どうにも殺風景だ。
あの先に黄泉の国があるというが実感がわかないのは、おそらく生きている証なのだろう。