姫鶴白刃 伍
天地がひっくり返った。
咄嗟に脳裏に過ぎったその言葉に刀哉は閉口し、渦巻く視界に映り込んだちっぽけな人里を見て叫びそうになった。いきなり天空へ飛び上がったものの、今となってはただ落ちているだけ。
これでは気を練ることなど出来ようが無かった。
みるみる迫ってくる寺子屋の地べたに覚悟を決めたが、すぐに飛び上がってきた妖夢と白刃が刀哉の両腕を掴んで支える。
「殿! ご無事ですか?」
「……生きた心地がしなかった。お前たちは、すごいな」
「もう、少しずつと言ったじゃないですか。お兄様の神気は物凄く強いんですから、気を付けないと」
「むぅ。少し鍛錬がいるな。もう一度やってみるから、悪いが支えていてくれ」
再び気を高めて四肢から少しずつ放つと、急に体が軽くなって、まるで風船にでもなったような気分になった。
「成る程、だんだんと分かってきたぞ」
「そのまま静かに気を放って下さい」
全身から静かな気をゆっくりと開放し、二人が支えていた両腕から離れても刀哉は落なかった。少しぎこちないが、確かに空に留まっている。だが今はそれで精一杯だった。とてもではないが舞うように翔ぶことは出来そうになく、そのまま二人に引っ張られる形で幽界へ続く黒い門を通った。
「二人共、かたじけない」
白玉楼まで延々と伸びる石段を上がりながら、刀哉は二人に頭を下げた。
「拙者は殿の家来故、お助けするのは当然のこと」
「私もお兄様の案内役を命じられていたので、白刃さんと同じ意見です。それにあれだけ短い時間で滞空できるようになったのですから、すぐに出来るようになりますよ」
二人の言葉がなんとも有り難く、何やら顔が熱くなって誤魔化すように二人の前を歩いた。
「殿? お顔が赤いように見えますが、もしや熱でも?」
「うるさいっ! ほっとけ」
騒々しい生者たちのやり取りに周囲に生い茂る桜木の間に浮遊する霊魂たちも、段々と刀哉たちの周りに集まり始め、気づけば百以上の彷徨える魂たちが三人の後を追っていた。
やがて白玉楼の正門が三人を出迎えた。
主である西行寺幽々子の姿は無く、妖夢曰く、今は屋敷の茶室にて閻魔の相手をしているとのこと。やはり幽界というだけあって黄泉の人間も出入りしているらしい。履物を脱ぎ、長い廊下を抜けて客間へ通された。此処を訪れたのは一年ぶりであるが、改めてその広さに驚かされる。
庭師の妖夢が仕立てたであろう中庭は見事で、桜梅桃李を始めとした四季の彩に風情ある苔石に池、鹿威しが情緒溢れる。永年武家に仕えてきた白刃も、この庭を前に開いた口が塞がらなかった。
間もなく露地の中にひっそりと佇む茶室まで移動すると、案内人の妖夢は障子の前で膝をつき、客間の中にいる主に声をかける。
「失礼致します。幽々子様、妖夢でございます。只今戻りました」
「あら、おかえりなさい。お客人はお連れ出来たかしら?」
「はい。刀哉様と、そのご家来筋の御方を」
「ご苦労さま。お通しなさい」
妖夢が障子を開けると、刀哉は腰の物を帯から外して妖夢に預けた。
「殿、宜しいのですか?」
「茶室に刀は無粋だよ。ああ、お前は別儀だ」
すっかり丸腰になった刀哉が軽く会釈をしつつ茶室に入ると、華麗な手つきで茶を立てる幽々子と、その上座に腰掛ける小柄な少女の姿があった。新緑の髪に装飾の多い冠のような帽を被り、袖の大きい白い衣の上に青い袖なしの服を着ている。
傍らに置かれた縦長の板は、尺だろうか。
ともあれ幽々子と少女以外に人がいないところから察するに、この少女こそが地底の裁判官であるらしい。
「お呼びに応じ、罷り越した。お久しゅう御座る」
「いらっしゃぁい。ささ、楽にして頂戴。それと紹介しておくわね。こちらは――」
溌剌とした幽々子の声を遮るように、少女は凛とした声と共に名乗りをあげた。
「初めまして。私は、四季映姫ヤマザナドゥ。お察しの通り、こんなナリですが閻魔を務めています」
「経津主刀哉と申す。傍らにいるのは、まあ、同居人の――」
「家臣の姫鶴白刃で御座る」
やたらと語気を強めて座した白刃は唇を尖らせた。
早速本題に入ろうとした映姫であったが、一先ず茶を楽しもうという幽々子の緩やかな威圧に出しかけていた言葉を止めた。
「お二人もあの階段を上ってきたから喉が渇いたでしょ?」
「かたじけない。ただ茶の湯の心得が無い故、見苦しいところは平に」
「ふふ、お気遣い無く」
甘味の最中を味わっている間に幽々子は二人分の茶をたてて差し出し、受け取った刀哉と白刃は茶碗を回し、三口ほどで程よい温度の茶を飲み干していく。
ちょうど喉が渇いていたのでえらく美味かった。
「結構なお点前で」
「お粗末さまでした。紫から聞いたけれど、山篭りをしていたんですって? どんな生活だったのか凄く気になるわ」
「あまり綺麗な話ではない。それより、閻魔様の話を聞きたい。わざわざ黄泉の裁判官が俺に何用なのか?」
「ああ、ようやく本題ですか。では申し上げます。あなたに……地獄へ堕ちていただきたいのです」