姫鶴白刃 参
静まり返った離れの様子を、慧音と魔理沙をはじめとした里の連中が聞き耳を立てて伺っている。刀哉が入ってすぐに大きな声が聞こえたものの、そこから何の音沙汰も無く、皆心配していた。
家の中では囲炉裏を囲んで三人とも押し黙ったまま動かない。
せっかく淹れた茶もすっかり冷め、瞼を閉じる刀哉の脳裏には一年前の異変がまざまざと思い起こされる。
外の世界……日ノ本で生まれ、歴史の激流を生きた人間たちに武の力を与えた幾多の刀剣たちが美術品と成り果て、その怨念が幻想郷に流れ着き、乱を起こした。思えば自身がこの地にやってきたのも、その怨念たちを鎮めるためだった。
病に犯された我が身の前に刀神が現れ、その神刀の刃で我が身を切り裂き、肉体を捧げてまでこの地を訪れたのだから。
そして、彼は勝利した。彼岸花が咲き乱れる無縁塚において、彼は確かに怨霊たちの首領を討ち取った。刀たちも浄化され、その魂は天に戻ったはず。
それがどういうわけか、八雲紫によって肉体を与えられ、あろうことか己の家臣だと言い張っている。頭痛すら覚えた。
「で、どうするの?」
紫の淡々とした声が沈黙を破る。
「彼女は刀剣たちの魂の化身。人間に仕えることが宿命であり、彼女はあなたを主君と定めた。剣客としては本望ではなくて?」
「いきなりそんなことを言われても困る。第一、俺は確かにあのとき魂を浄化したはず。何故、今になって現れる? 大体なぜ女子の姿をしているんだ。俺と刃を交えたのは雄々しい武者だったはず」
「あら、あなたもいい加減良い年頃だから喜ぶかと思ったのに。それに彼女の意見も聞いてあげなさいな」
部屋の隅で畏まっている白刃に視線を向けると、彼女はもじもじと体を揺らし、微かに頬を赤らめながらボソッと答えた。
「その……殿のことが忘れられなくて……拙者は、刀で御座います。主に仕えることこそが使命。とくに殿は、我ら刀剣の頂点に立つ御方でございます! それとも殿は、拙者みたいなナマクラは、お嫌いなのですか?」
色恋に興味の無い刀哉でさえ、その涙混じりの上目遣いは卑怯だと胸が高鳴った。何とか誤魔化そうと瞼を閉じ、腕を組んで考え込むフリをする。紫は終始おかしげに微笑していた。
それにしても困った。いきなり家来にしてくれと言われても、自分の糧を得るだけで精一杯なのだから、家禄を与える余裕はない。
しかし先ほどのセリフを聞かされては頭ごなしに出て行けとも言えず、紫は是が非でも白刃をここにおいていくだろう。
幻想郷の管理人として半分、暇つぶしに半分、といった具合に。
板挟みになった刀哉は口から出かけたため息を飲み込み、白刃の傍らに置かれている小太刀に手を伸ばした。
「これがお前の刃か?」
「はい……それが、拙者そのもので御座います。この肉体は、我々の魂に紫様が器を与えて下さったもの。拙者は所詮、刀で御座いますので、どうぞ物として扱って下さい」
「馬鹿。物が喋ったり頭を下げたりするか」
言いながら白刃の小太刀を鞘から抜くと、刃紋に桜の花弁が彫り込まれている。まるで桜花の鍔からひらりと舞っているようだ。
素直に見事だと舌を巻いた。切れ味も相当あるようだ。
刀を扱う者からすれば、是非とも手に入れたい逸品――。
白刃も紫も小太刀をジッと見つめる彼の返答を黙って待ち、やがて刀哉は小太刀を鞘に収めて軽く息を吐いた。
「……この小太刀は実に見事だ。是非とも手元に置いておきたい」
「と、殿! それでは!」
足元に擦り寄ってくる白刃の額に指を突き立てて制する。
「ただし、家来になっても払う家禄が無い…………同居人、ということで良しとしてくれ。俺に恥をかかせないでくれよ?」
「は、はい! ありがたき幸せに御座います!」
何度も額を床に打ち付けて礼を尽くす白刃の黒い髪を、刀哉は穏やかな手つきで優しく撫でた。まさか先の戦で刃を交えた相手が同居人になるとは夢想だにしていなかったが、これはこれで、また人生に面白みが増しそうだ。
稽古の良い相手にもなるだろう。
成る程冷静になって考えてみれば、紫の言う通り、刀の精から主と認められたというのは光栄なことではなかろうか。
あるいは己の奥底に眠る刀神の導きなのかもしれない。
かくして世にも奇妙な主従が誕生し、役目を果たして満足げに頷いた紫は物腰柔らかく立ち上がると、スキマを開いて入りかけ、ふと思い出したように彼らへ振り返った。
「ああ、そうそう。近いうちに黄泉の国の使者がここを訪ねてくると思うから、山には返らない方がいいと思うわ」
「まて、それはどういう――」
呼び止める彼の言葉を全て聞かぬまま、彼女はスキマの彼方へ消え去った。相変わらず歯がゆい物言いをする。一体黄泉の国の使者とはどういうことだろう。それはそれとして、とりあえず家の前に屯している群衆に引き払って貰わねばならない。
本音を言えばあまり白刃について公表したくない。
噂好きの里のこと、すぐに広まって大きな尾ひれがついていくことだろう。射命丸も黙っているはずがないが、彼女に関してはいつぞやの事件があるのでそこまで酷いものは書かないとは思うが。
ともあれ、やむを得ず白刃を皆に紹介することに決めた。
家の戸を開けて外を伺うと、慧音や魔理沙をはじめとした大勢の人妖がひしめき合っている。いつの間にか騒ぎを聞きつけた霊夢やアリスまでもがそこにいた。益々言いたく無いが、こうなったら自棄になったつもりになるしかない。
まず刀哉が先に皆の前に出て、続いて白刃を横に並ばせた。
固唾を飲む彼らに刀哉の口が開く。
「あ~、単刀直入に言うとだな、今日から同居することになった」
「お初にお目にかかる! 拙者、姫鶴白刃と申す! 此度、晴れて刀哉様の家臣となったので、その旨よろしくお願い致しまする」
同居という言葉に慧音が目を丸くし、家臣という言葉にその他全員が目を丸くした。その後に二人を襲ったのは、歓声と笑声と噂を広めんと散りゆく足音だった。中には刀哉が嫁を迎えたという勘違いまで現れ、結納の宴まで話が持ち上がったために刀哉は必死で火消しに奔走する羽目になり、ヘトヘトになって帰ってくれば、今度は慧音や魔理沙の質問攻めが待ち受けていた。
寺子屋の縁側に腰を下ろし、落ち着くために茶を淹れたのに、肝心の慧音が落ち着いていない。彼女は血眼になり、刀哉の陣羽織に掴みかかって問いただしてきた。
「ど、どういうことだ! 同居とは何だ? 家臣とは!?」
「落ち着いてくれ、慧音。魔理沙も目を輝かせて笑うな」
「くくく……だってさぁ、今時になって家臣だぜぇ? 大体刀哉だって殿様ってナリじゃないぜ」
腹を抱えて笑い転げる魔理沙の頭に、白刃の小さな拳が振り下ろされた。ゲンコツといっても軽く小突く程度で、どちらかといえば白刃の怒号と共に抜き払った小太刀の方が迫力があった。
「この無礼者ぉ! 拙者の殿を愚弄するな!」
「うわぁ! や、やめろ! 刀哉ぁ、助けてくれよぉ!」
澄まし顔で茶を啜っていた刀哉の口からため息が漏れる。
「自業自得……と、言いたいところだが流血沙汰は勘弁願いたい。白刃、小太刀を収めてくれ」
「むむむ……殿の命とあらば」
唇を尖らせ、小太刀を納刀した白刃はさも不満げに座り直し、魔理沙は魔理沙でニヤニヤと笑いながら茶請けの羊羹を頬張った。
一先ず場が落ち着いたので紫から聞いた内容をそっくりそのまま説明し、喋れば喋る程どうしてこうなったのかわからなくなった。
白刃は白刃で胸を張って幾度も頷いており、それが刀哉の苛立ちをさらに募らせていく。できれば夢であって欲しかった。
静かに瞼を閉じて瞑想に耽る慧音に声をかけてみるも、
「すまない、今現実と戦っているのだ」
とのこと。あまり半人半獣に言われたくはない。
そもそも幻想郷などという面妖極まりない世界の連中そのものが現実離れしているのだから、そう考えると、何やらあれこれ悩むこと自体がバカらしくなってしまった。随分と己もこの世界に慣れてしまったものだと自嘲し、羊羹を茶で流し込んだ。
日は西方へ傾き、里の家々から真っ白な炊煙が昇り始めた頃。
離れの小屋に一旦戻った刀哉と白刃は、互いに空腹を覚えて夕餉を味わうこととした。己が作ると言い張る白刃に多大なる不安を抱いた刀哉は、我が家の飯を教えると言って土間の厨房に立たせ、自らが腕を振るっていく。
「さあ、出来上がったぞ」
居間に置かれた膳を前に、白刃は何度も瞬きを繰り返す。
「あの……殿? これが夕飯で御座いまするか?」
「うむ。遠慮なく食ってくれ。いつもよりも多めに三合炊いたからな」
木製の膳に並べられた夕餉は、炊きたての銀シャリと菜っ葉の汁物に大根の漬物のみという、いわゆる一汁一菜の様相を呈していた。
白刃からすればせめて魚の一尾でも出るものかと思っていたのだろう。呆気にとられている間にも、刀哉は茶碗を掴んで咀嚼を始めている。
「あ、あのぅ、殿……差し出がましいようですが、些かこれは質素にすぎるのでは? せめて魚の一尾くらいはあってもバチは当たらないと思うのですが……」
「贅沢は敵だ。腹が膨れればそれで十分。先日まで山に篭っていたが、そこでの食事に比べれば遥かに上等だ。これでもな」
「一体何を食べていたのですか?」
「何でもだ。食えるものは何でも。獣に魚に妖怪」
それを聞いた白刃は閉口してしまい、おずおずと椀に手を伸ばして食べ始めた。奇妙な空気があたりに漂っている。
お互いに何か話題は無いものかと考えているのだが、どうにも食事時に相応しい内容が思い浮かばなかった。
「……よかったのか? この世に留まって。安らかに眠る道もあっただろうに」
「昼間も申し上げた通り、拙者は刀。主人に仕えてこそ幸せを感じることが出来るのです。殿は、理想の主君であると確信しております故」
「買いかぶりすぎだ。俺はお前に与えるべき家禄も無いし、天下を狙う野望もない。ただ己の腕を鍛え上げたいだけだ。できれば己に宿った神の領域まで、な」
「それが殿の志であるならば、拙者はどこまでもお供致します。拙者にとって、殿の喜びこそが……百万石の褒章で御座いますから」
何と穏やかな微笑だろうか。そしてそんな顔を真正面から向けられ、小っ恥ずかしいことを言われた刀哉は言葉に窮して飯をひたすらにかき込んだ。やはり、ズルい。何がと言われれば困るが、とにかくズルいのだ。まるで道場に通う子供たちのような純真さが白刃に備わっており、刀哉に尽くすことに全く迷いがない。
そういう意味では似たもの同士だと彼は内心笑った。
どいつもこいつも頑固者ばかり。あるいは幻想に囲まれたこの世界では、自我を強く保てない者は自然と淘汰されていくのかもしれない。
ともあれ、食事を済ませた後は井戸から水を汲み上げ、火を焚いて風呂を沸かしていく。
「殿、どうぞ一番風呂に。そして不躾ながら――」
「背中は流さなくてもいいからな」
「何故お分かりになったのですか!」
「猿でも分かるわっ!」
カラスの行水の如き早さで身を清め、風呂に飛び込んだ刀哉は肺に貯まった空気を全部吐き出してしまうようなため息を吐いた。
疲れた。ある意味で山ごもりよりも遥かに辛い。
決して白刃のことを嫌っているわけではないのだ。
しかし落ち着きが無い。物言わぬ刀が物を言えるようになったので嬉しいのかもしれないが、ああ騒がれては参る。
あまり待たせては気の毒なので早々に湯船から出て寝間着に着替え、居間に戻ってみれば、あれほど騒いでいた白刃が背筋をピンと伸ばして瞑想しているではないか。
思わず「ほぅ」と声が漏れた。
「見事な姿勢だ。不覚にも魅入ったぞ」
「あ、殿。随分とお早い湯浴みなのですね」
「まあな。早く入ってこい。ああ、それから……お前、飲めるか? 今宵の月は格別に輝いている。少し付き合って欲しい」
「むむ、未だ酒を飲んだことはありませぬが、殿のご要望とあらば謹んでお酌させて頂きまする。いま暫くお待ちを」
恭しく一礼した白刃は風呂場へ駆け込むと、身にまとっていた具足や着物を脱ぎ捨てて湯に浸かった。
瞼を閉じ、紫から教わったヒトの生き方を改めて思い起こす。
かつて刀で在りし頃は何度人間の生き方を不思議に感じたことだろう。時に笑い、時に争い、平穏を望む者もいれば、天下を志す者もいた。忠節、謀反、下克上を幾度と無く繰り返し、ついに手に入れた天下もすぐに他の誰かに取って代わられていく。
その激流の中で常に血を浴び続けてきたのが、他ならぬ彼女だった。無論、武具である以上は名誉なことだと信じた。
外の世界のように、美術品としてジロジロと見られるなど真っ平ごめんであるし、主君となったあの人間も期待出来そうだと頬が緩んだ。
風呂から上がり、下ろした黒い髪を拭きながら主君の姿を探してみれば、刀哉は縁側に胡座をかいて白刃を待ちかねていた。
傍らには徳利と湯のみが用意されており、成る程今宵の月は煌々と白く輝いている。ふと彼の腕を見ると一匹の蚊が血を吸って赤く膨れていたが、彼は意に介さず白刃へ視線を向けた。
そういう男なのだと改めて白刃はこの青年に心が弾んだ。
「お待たせしました。ささ、一献」
「かたじけない。では返盃しよう」
「恐れいります」
乾杯し、グッと飲み干すと腹の奥底が火照った。
「くぅ! 酒というのはかくも熱いものだったのですね。前々から気になっておりました故、驚きました」
「くくく、刀は酒を飲めないからな。だが、悪くは無いだろう?」
「はい。もう一杯、頂けますか?」
「そうこなくっちゃ。俺も今日はとことん飲みたい」
なみなみと湯のみに注がれた酒を一息に飲み干した刀哉は、酔いに乗せて感慨深く唇を開いた。
「あの一騎打ちを覚えているか? 無縁塚の花園でのことだ」
「無論です。あれほど心地よい剣戟は何時以来だったか。何よりも殿の温かさが身にしみました」
白刃も酔いが回り始めたのか、頬を微かに朱に染めて月を眺めた。
「あの時、拙者は刀神様の御力によって怨念を浄化され、我が刃で我が身を貫きました。痛みも苦しみもありませんでしたが、何故かそうしたかったのです。殿に介錯をお願いして応じてくれたとき、本当に嬉しかった。その時から決めたのです。次に生まれ変わったときは、殿の刀となりたい、と。その願いが叶った今、拙者はこの上なく幸せなのです。殿にとっては、ご迷惑かもしれませぬが」
段々と口調も湿っぽくなり、言い終わる頃にはシュンと顔を俯かせてしまった白刃の黒髪を、刀哉は少し雑に撫で回した。
「刀が要らんことであれこれ悩むな。言ったろう? 俺はあの小太刀がいたく気に入った。それだけだ。それに、俺もあの一騎打ちは忘れられない。胸が高鳴った。血が沸騰するくらい愉快だった」
さらに一杯飲み下し、続ける。
「故に、俺はお前に対して何の申し分も無い。まだまだ疑問は数多あるが、少なくとも、稽古の相手には十分過ぎる。お前のことが気に入った……それ以上の理由は、要るか?」
少しぶっきらぼうに、しかし確かに優しい微笑を交えた彼の言葉に白刃は静かに首を横に振った。
「理由など要りません。元より、拙者は殿の物で御座いますから」
「……小っ恥ずかしいことを言うな」
夜の闇は深まり、天に煌く月輪が中天へ差し掛かった頃には、ふたりともすっかり酔い潰れて寝息を立てていた。