雨と僕と彼女
雨の日は憂鬱だ。
それは、空がどんよりとした灰色に染められていて、なんだか妙に不安になる事が多いから。
心情的な事以外にも、足元がぐちゃぐちゃになることとか、傘を差していたって完全に雨を防げるわけじゃないこととか、嫌いになる要素は多い。それが自転車を乗っていれば尚更だ。
そんな雨の日は部屋に閉じこもるのが一番だ。
紅茶でも飲みながら、普段読まないような恋愛小説を読んだって良い。せっかく辺りが暗いんだからホラー物だっていいさ。
とにかく天から与えられた静かなこの時間は、静かに過ごすべきだと僕は思う。
なのにほら、うるさいヤツがまた。
「優希ー。優希ってば!」
店中に響く声。僕こと「村瀬優希」の名前を呼ぶ声だった。
「聞こえてるよ、志保。どうしたの?」
「ほら、どう? このワンピース。可愛いでしょ?」
そうやって実に楽しげにハンガーに掛かった洋服を指差して、嬉々としている彼女の名は「桃山志保」。僕の幼馴染だ。ショートカットのブラウンの髪に、赤いカチューシャをしていた。着ている白と黒のセーラー服は地元中学の制服だった。
「可愛い……のかな。ごめん、僕にはよくわからないや」
白を基調としたドット柄が特徴のワンピースは可愛らしいフリルが付いている。可愛いんだろう、きっと。でも、服の流行り廃りなんて僕は逐一情報を仕入れるような人間ではないし、まして女の子の服の流行を把握しているはずもない。このワンピース自体は可愛いのかもしれないけど、それが果たして彼女の言う本当の意味での『可愛い』なのかどうかは、やっぱり『わからない』と答える事しかできないのだ。
「もうっ! 可愛いか可愛くないか、って聞いてるのに、何よ"よくわからないや"って!」
「だってしょうがないじゃない。僕がそういうの苦手って知ってるだろ? 志保が着ればそりゃきっと可愛いと思うけど」
頬を膨らませて抗議する志保。僕はこうやって曖昧にお茶を濁すしかない。だって、その『可愛い』を確かめる術は無いんだから。
「ほんと? 私が着れば可愛い?」
そんな僕自身を弁護するための言い訳に、どこか嬉しそうにしている志保はワンピースを見つめたまま楽しげに笑っていた。
でも、そんな志保を尻目に僕は一刻も早くこの店から出て行きたい、と思っていた。
僕達が居るこの店は、僕達が住んでいる街にあるショッピングモールの一角。中でも若い女性向けのショップだった。男物は一切置いていないため、勿論お客さんもほとんどが女性だ。ちらほら見かける男性は、そんな女性客の彼氏だかなんだかで、連れ添いなのだと言う事が一目瞭然だ。みんな辟易としている。
とはいえ、『連れ添い』なんて免罪符を持っている彼らはまだ救いようがある。僕なんてその免罪符すら持っていない咎人みたいなもんだ。女性専用車両に間違えて飛び乗った状況に近いのかもしれない。乗ったことは無いのだが。
「優希ぃー。こっちはどう? ねーねー」
さっきのワンピースはもう良いのか。志保は続けてブーツが並ぶコーナーへと足を向けた。2月のこの時期ではまだまだブーツの需要があるのだろうが、このような店は季節を先取るモノなのだろう。セールをやってるのは春物。ブーツは特に安くはないし、量もそこまで豊富ではなかった。
「うーん、なんか微妙だったかも。それじゃ、そろそろ行こっか? 優希」
「う、うん。どうするの? 今日はもう帰る?」
念願の言葉を言ってくれた。訝しげな視線が痛かったそのショップから出ると、僕達はショッピングモールのフロアを歩く。天気予報では一日中雨だというし、さっさと家に帰ってのんびり過ごすのも悪くないはずだ。
でも志保は
「まだまだ! まだお昼じゃない!」
なんて言って、帰ろうとはしなかった。
「確かにそうだけど、僕もうお腹空いたよ。何か食べてもいいかな」
「えー、もーしょうがないなぁ」
開店と共にショッピングモールへと訪れていた僕は、朝っぱらに志保に叩き起こされたせいで朝食を食いはぐってしまっていた。
大雨だと言うのに傘を差さずに彼女は楽しげに僕の家まで誘いに来たんだ。僕の予定はお構いなしで、いつものように笑顔で僕のベッドの上に乗っかって、ずーっと話しかけていた。
もう時計の針は頂点を指している。これでも健康な高校生男児だ。僕のお腹はもう限界をとうに超えていた。
「じゃあここで何か食べる?」
僕達が辿り着いたのは、ショッピングモールには欠かせないフードコートだ。だだっ広いフロアにはいくつものテーブルと椅子、そしてその周りを様々な飲食店が軒を並べる。言うなれば馬鹿でかいファーストフード店と言った所だ。
「そうだね、じゃあすぐに済ませるからちょっと待ってて」
「こっちの窓際の席にいるね」
僕は中でも早くて安い、かの有名な牛丼を選ぶ。高校生の自分にとって金銭面は最も重要視されるファクターであるし、時間的にも志保を待たせなくても良い。そして何より志保は牛丼が嫌いだから安心して僕も食べていられる。
「それにしても混んでるね」
「休日だからね。ここら辺には他に大きなお店もないし、ここにくればだいたい揃っちゃうから」
それがこのショッピングモールの魅力でもある。僕達の街はお世辞にも都会とは言えない、なんとも中途半端な田舎だった。昔はそれなりに栄えていたであろう商店街は、そのほとんどがシャッターを下ろし、ただの民家となっている。スーパーやその他の店舗はそれなりに揃っていたけど、それぞれを回ろうと思ったら自転車では骨が折れる。車、という移動手段は必須条件だった。
しかし、このショッピングモールなら駅から少し離れているとはいえ、こここまで来てしまえば洋服を買って、映画を見て、雑貨を漁って、本を選んで、食材の買出しまで出来てしまう。駐車場も広いし、小さい子供だって楽しいはずだ。だから混む。カップルから家族連れまで様々な客がいるのだ。
そんなカップルが僕達の周りにもたくさんいる。愛し合う男女が楽しげに食事をして、楽しげに笑っている。
「……」
それをボーっと眺めている志保は、何か物思いに耽っているような、過去の出来事を思い返しているような、そんな印象を持った。
まずい、早く食べ終わらないと。
僕は牛丼並盛を急いで腹の中にかっ込むと、冷たい水を一気に飲み干した。
「げほ、げほ」
口の中を火傷したかもしれない。何を食べたかイマイチよくわからなかった。
「あれ? もう食べ終わったの?」
「う、うん……ごちそうさま」
「よし、じゃあ映画、行かない?」
空のドンブリを見て、少し驚いた表情を見せた志保は、すぐにさっきまでの明るい表情に戻り、そう言った。
「映画? なにか見たい映画あるの?」
「うーん、これと言ってないけど……もう、どうだっていいでしょ! 映画の気分なの!」
苛立つように席を離れる志保を、僕はドンブリを持ったまま追いかけた。返却口にドンブリを突っ込むと、映画館の方へ向かった志保を見失わないように歩を早める。
周りのカップル達がそんな僕の姿を怪訝な顔を浮かべて眺めていたのが印象的だったが、もう慣れっこだ。
とはいえ、映画というのは僕にとっても中々魅力的な案だった。映画は嫌いじゃないし、一人ならそこまで高くない。それになにより、人目に付きにくいんだ。これでこのまま遊園地に行こうとか、ボウリングに行こうとか言われたら困窮していただろう。中には平気な人もいるだろうけど、僕は嫌だったから。
「はやくはやくー。早くしないと上映時間になっちゃうよ!」
フロアの先で僕がやってくるのを待つ志保は大声で僕の事を呼ぶ。僕は無言で志保の元に駆け寄ると、志保は可愛らしく、にっこりと笑って僕の手に自分の手を重ねた。
僕は気恥ずかしいような、嬉しいような、なんだか複雑な気分のままエスカレーターに乗った。彼女も僕の隣に大人しく乗っていた。
エスカレーターを降り、映画館へ向かう途中、可愛らしい雑貨屋さんを見つけた。
志保は上映時間を気にしつつも、その雑貨屋に興味のある商品でもあったのか、吸い込まれるように店の中に入っていった。
まあ、僕だけチケットを買えば問題ないんだから、先に買っておこう。
「志保、チケット買ってくるから少し待ってて。あのファミリー映画でいいんでしょ?」
「あ、うん。大丈夫。……優希、すぐ戻ってきてね」
「わかってるよ。それじゃ、行って来るね」
僕は何かに見とれている彼女を残して、映画館に向かった。犬と家族が様々な困難に立ち向かい絆を深めて乗り越えていく、そんな内容のファミリー映画のチケットを1人分購入すると、小走りで志保の待つ雑貨屋へ取って返した。
「お待たせ、志保……?」
そこには何か悲しげに、寂しげに佇む志保がいた。何かに見とれている。
それは赤い雨傘だった。
「その傘がどうかした?」
「あ、お帰り優希。ううん、なんでもない」
今にも泣きそうな顔をされて、なんでもない、なんて言われても説得力がなかった。
「この傘、欲しいの?」
なんだろう、この傘が欲しくてたまらないのだろうか。悲しげなその表情は、この傘を持ちたくてしょうがない、ってことなんだろうか。
「いらないっ! こんな傘絶対にいらないよっ!」
瞬間、志保は聞いたことのないような大きな声でそう叫んだ。その眼には涙が浮かんでいた。
「ご、ごめん。深い意味で聞いたんじゃないんだ。気にしてたみたいだから。そ、それだけ」
狼狽した僕の様子に、はっと我に返った志保は目元を拭って明るく笑った。
「こ、こっちこそゴメン。ホントになんでもないよ。さ、映画館にいこっ」
「う、うん」
こうして、僕達は丸一日をショッピングモールの中で過ごした。雨風を凌げるのにこんなに広いなんて素晴らしい。そう志保は喜んでいた。
そして店を出た僕は空が赤く染め上げられている事に気づいた。綺麗な夕日だ。
「天気予報、外れたね」
志保はどこか悲しげにそう言った。
「うん。しょうがないよ、予報だもん。百発百中だったら、それはそれで怖いよ」
「あはは、そうだね。雨の日があれば晴れの日があって、雪の日があれば曇りの日もあるもんね。一年中雨なんて、そんな夢見たいな事、ないよね」
「まあ、ね」
ふいに無言になった僕達は、もう一度、手と手を重ね合わせた。気持ちだけだろう。実際はそんな事ないのに、僕の手はとても暖かくて、優しく握り返してくる温もりを感じた気がする。
「傘ね、ホントは欲しかったのかもしれない」
「さっきの赤い傘?」
「うん」
志保は、寂しげな笑顔を浮かべてそう告白した。しかしその表情はどこかすっきりしたような前をしっかりと見据えている表情だった。なんというか僕は今まで可愛らしいと思っていた彼女に対して初めて"美しい"と感じた。
「私ね。雨が好きだった。今の私が私で居られるからとか、そういう意味じゃなくてね。雨が降ると優希はいつも傘を持っていなかったから」
「……そう、だったかな。そうかもしれない」
「そうだよ。優希はおばさんがいつも用意してくれてる傘を忘れるんだもん。だからね、私は嬉しかった」
「どうして?」
「……優希と……相合傘で帰れるから」
突然風が吹いたような気がした。髪も服も微動だにはしなかったけど、何か僕の体を通り抜けていった気がした。
「志保?」
『私ね、あの日も一緒に帰ろうと思ったんだよ? でも、優希は別の女の子の傘に入って帰っちゃった。だから悲しくて切なくて寂しくて、だからいつもとは違う道を通ったの』
「え? ちょっと、志保!?」
おかしい。こんな事は今の今まで一度も無かった。雨が止んだからって、彼女はその日一日を僕と一緒に過ごしてくれていた。
『大雨だったから、トラックの人、前が見えなかったんだって。この前お母さんが話してるのを聞いちゃった。だから、その人だって悪くないんだよって』
「志保! やめてよ、冗談でしょ!?」
振り向いても誰もいない。辺りを見回しても赤い夕日に照らされているのは僕だけしかいない。
『別に私はその人を恨んで成仏できなかったわけじゃないんだよ。一つだけ。たった一つだけやり残した事があったから』
そんなバカな。彼女は3年前亡くなって、僕の所へ幽霊として現れてから雨の日だけはいつも傍に居てくれたじゃないか。なのに、なんでこんな事が起きているんだ。
『でも、それは間違ってた。そんな事しなくても優希はいつも傍に居てくれたし、私はそこで心地よさを感じてた』
やめなよ、そんな悟りきったような口調で話すの。なんだか志保らしくないよ。
『私は相合傘をすれば成仏しちゃうって思い込んでた。だから傘だけは触れたくなかった。でも違ったんだ。そんな事関係なかった』
やめろやめろやめろ! そんな事聞きたくない。
『だから相合傘なんてしなくたって、私は―――』
「そんな事言うなっ! 何言ってんだよ志保? ほら、早く出てきなよ。一緒に帰ろう。そして眠るまで今日の映画の感想を語り合うんだ。あのワンピースだって買ってあげるよ! 幽霊だから着れないかもしれないけど、ずっと飾っておこう? 春だってまだこれからだ、去年行けなかった花見に行こう? 大丈夫、きっと4月は雨続きさ。海だって温泉だってスキーだって遊園地だって水族館だってクリスマスのイルミネーションだってなんだって! いつだって雨が降るよ! 降らせて見せるよ! だから一緒にいよう! 志保!!」
前が見えなかった。晴れているのに僕の顔は濡れていて、目なんて開けていられない。でも一生懸命周りを見渡して、ようやく見つけた。
「志保……!」
それは一瞬の出来事だった。やっと見つけた志保は慈愛に満ちた笑顔を浮かべて僕に寄り添って、耳元で囁いた。
『――』
「え?」
微かに、本当に微かな声で呟き、志保は僕に優しく口付けをすると、小さく光る涙を一粒だけ浮かべて赤い光に溶け込んでいった。
僕の様子を心配半分、不安半分で見つめる買い物客たちにはわからない事だろう。僕は膝から崩れ落ちた。
「志保……愛してたのは僕だってそうさ。……3年間幸せだったのは僕だってそうさ! これからも忘れないのは僕だってそうさ!!」
空に向かって一生懸命叫んだ。
雨の日にだけ現れる不思議な幽霊。物には触れられず、誰にも見られず聞かれず、それでも最高に可愛くて我侭で時に世話焼きになる、そんな彼女を僕は一生忘れる事はないだろう。
そうだ、明日お墓参りに行こう。彼女が亡くなってから一度も訪れる事のなかった、あの場所へ。
「ワンピース。きっとじゃない、絶対に可愛いよ」
もう一度空へ向けて投げかけた言葉は彼女に届いただろうか。
その時、真っ赤な夕日が輝く晴れ空に、ひとつの雨粒が僕の頬に落ちた。
雨は好きだ。憂鬱なんて嘘さ。
いろいろ思い出すけど、その思い出が僕を元気にしてくれる。
確かに静かな時間を過ごすのは素敵だけれど、傘を差して街中を歩くのも風情があっていいもんさ。
僕は雨になるとこうして、いつも外に出かけるようにしている。相変わらず足元はぐちゃぐちゃ、体も結構濡れるけど、僕は外に出たくてしょうがない。
この、雑貨屋で買った赤い雨傘を差して。
この作品は以前投稿した作品を再度投稿したものです。
当方のブログ等、他サイトにもアップしております。
人の幸せの定義とは何か。
そんなものは恐らく答えが出ないものでしょうが、学生の頃から考えている自分なりの答えとして、自分が亡くなった時に悲しんでくれる人がいれば幸せな人生だったんじゃないかなぁ、と思います。
自意識過剰なのかもしれませんが、自分が亡くなったらどうなるんだろうなぁ、と漠然と考えたとき、悲しんでくれるであろう、家族や友人が自分にはいると思っています。
そう考えると今の人生も捨てたもんじゃない、と思います。
さて、この作品ですが本来は長編の作品にするためにプロットを作成しておりましたが、急遽短編作品に変換致しました。
オチの部分を考え過ぎて、それまでのフリがちょっと弱いのかな、描写があっさりしすぎてるかな、とも思いますが如何だったでしょうか。
この二人は悲しい出来事によって、遠く離れ離れになってしまいましたが、どちらも幸せ者だな、と思っております。