スミレの枯れる緯度
パリの春は、いつも濡れた石畳の隙間から匂い立つスミレの紫とともにやってきた。
一八一五年の三月、エルバ島を脱出したあのお方がチュイルリー宮殿へと帰り着いた夜、階段を埋め尽くした婦人たちのドレスも、兵士たちが銃身に挿した花束も、すべてが燃えるようなスミレ色だった。
「ペール・ラ・ヴィオレット」——王党派の密偵たちが目を光らせる酒場で、人々はあのお方の名を直接口にする代わりに、その小さな紫の花の名を暗号のように囁き合ったものだ。
春が来れば、スミレとともにあの人が帰ってくる、と。
だが、ここ南緯十六度の孤島には、スミレが芽吹くべき春そのものが存在しなかった。
窓の外では、南東貿易風が運んでくる鉛色の濃霧が、今日も音もなく高原を這いずり回っている。
ロングウッド・ハウス。
かつて東インド会社の牛小屋であり、のちに副総督の夏の別荘として急造されたこの平屋建ての屋敷では、あらゆる色彩が湿気に犯され、ゆっくりと腐敗していた。
私は銀の燭台を手に、薄暗い客間の廊下を歩いた。
足元の羽目板が湿気でぶよぶよと沈み、その床下から、幾百というネズミが爪を鳴らして走り回る音が聞こえる。
今朝も私は、あのお方が履くはずだった黒革の乗馬靴の中から、灰色の毛玉のようなネズミを二匹、火掻き棒で追い出したばかりだった。
客間の壁を覆っているのは、かつてあのお方が自らの帝国の象徴として最も愛した
「ヴェール・アンペリアル」の壁紙だった。
黄金の星形の縁取りが施されたその誇り高き緑は、しかし今では南大西洋の塩を含んだ濃霧をたっぷりと吸い込み、まるで溺死体の皮膚のようにいたるところで水膨れとなって浮き上がっていた。
剥がれかけた紙の継ぎ目からは、亜ヒ酸銅の顔料が青白いカビの胞子と混じり合い、甘く饐えたような毒の匂いを部屋の空気へと絶えず吐き出している。
このロングウッドの屋敷そのものが、緑色の粘膜を持ったひとつの巨大な胃袋であり、その中に閉じ込められたあのお方を、五年という歳月をかけてゆっくりと消化しているかのようだった。
「マルシャン。またあの赤い服の男が、垣根の向こうに立っているか」
奥の浴室から、白い湯気とともにくぐもった声が響いた。
「いいえ、陛下。霧が深く、歩哨の影も見えません」
大英帝国の歩哨たちがまとう、鮮血のように鮮やかな「スカーレット」の軍服。
その一点の赤が窓の外を横切るたび、あのお方はまるで自らの古い傷口を塩で擦られたかのように眉をひそめた。
私は扉を開け、銅製の深い浴槽へと歩み寄った。
あのお方は一日の中で何時間も、茹だるほど熱い湯の中に身を沈めることを好んだ。
このじめついた島の冷気と、屋敷に染みついたカビの匂いから逃れる唯一の方法であるかのように。
湯船の縁に投げ出されたあのお方の腕は、かつてアルプスを越え、ヨーロッパ中の国境線を書き換えた頃の張りつめた筋肉を失い、今では陽の当たらぬ地下室で育った植物のような、黄色みを帯びた「白」い脂肪に覆われていた。
二十四歳でこの島にお供してから、すでに五年の歳月が流れていた。
大元帥ベルトランも、モントロン伯爵も、昼間のサロンでは威儀を正して「陛下」と頭を下げるが、夜中にこの湯気のこもる密室で、あのお方のたるんだ皮膚を洗い、抜け落ちた薄い髪を拭い、重くなった腹を支えて寝間着を着せるのは、第一執事である私ひとりの役目だった。
私は海綿に熱い湯を含ませ、その丸くたるんだ背中へと静かに滑らせた。
湯の中で足を伸ばした左の太腿には、若き日のトゥーロン包囲戦でイギリスの銃剣に貫かれた深い傷跡が、今も白く引きつれて残っている。
かつては赤い血を噴き上げ、英雄の誕生を告げたその栄光の刻印も、今では老いて浮腫んだ肉の中に埋もれ、ただの古い縫い目のように見えた。
「ロウの奴め。今日も封筒の表書きは『ボナパルト将軍』だったな」
あのお方は湯の表面を指先で叩きながら、誰に言うともなく呟いた。
イギリス人総督ハドソン・ロウは、あのお方を「皇帝」と呼ぶことを頑なに拒絶していた。
もし一度でもその称号を口にすれば、大英帝国がかつてのフランス帝国の正統性を認めたことになるからだ。「ボナパルト将軍」と記された書簡が届くたび、私たちはそれを開封することなく暖炉の赤い熾火の中へと投げ込んだ。
そして、屋敷の周囲に張り巡らされた緋色の軍服の見張り兵たちの視線に晒されることを嫌い、あのお方は大好きだった乗馬をぷっつりとやめた。
馬に乗れば、自分が檻の中の獣であることを認めざるを得ない。
その矜持が、あのお方をこの青カビと砒素の緑に塗られた薄暗い部屋へと閉じ込め、その内臓を少しずつ蝕んでいったのだ。
*
最後の輝きが訪れたのは、一八二〇年の乾季の始まりだった。
新たに島へやってきたコルシカ人医師アントマルキの勧めもあり、あのお方はある朝、突如として「庭を造る」と言い出したのである。
その朝、あのお方が身にまとったのは、近衛猟騎兵連隊の深緑の軍服でもなければ、胸に燃えるような紅のレジオンドヌール勲章でもなかった。
ゆったりとした「白」い綿の部屋着に、農夫がかぶるような巨大な麦わら帽子、そして足元には赤いモロッコ革のスリッパといういでたちだった。
皮肉なことに、その部屋着の白は、あのお方をこの絶海へと追放した宿敵ブルボン王朝の百合の色と同じだった。
だが、あのお方はそんなことには頓着せず、白い綿布の裾を島の赤土でどろどろに染め上げながら、ツルハシを杖のように突いて庭の真ん中に立った。
「マルシャン、ここを見ろ。ここに高さ六フィートの土塁を築くのだ。そうすれば、あの忌々しい緋色の歩哨どもの双眼鏡から、私の姿は完全に消える」
あのお方の灰青色の瞳が、久しぶりにアウステルリッツの朝のような黄金色の光を帯びた。
それは園芸などではなかった。
あのお方にとって、生涯最後の「陣地構築」であり、最後の「作戦行動」だったのだ。
早朝の六時、まだ霧が晴れぬうちに、あのお方はベルを鳴らして私や側近たち、さらには東インド会社から雇い入れた中国人労働者たちを庭へと招集した。
かつて数十万の軍勢を動かし、大砲の黒い硝煙でヨーロッパの空を焦がしたその人差し指が、今はわずか数十坪の湿った地面を指し示す。
「モントロン、お前の師団はあちらの溝を掘れ。マルシャン、そこの鉛管を繋いで、あの窪地まで水を引くのだ」
砲弾が大地を穿つ代わりにシャベルが赤土を掘り起こし、兵士の赤い血が流れる代わりに、鉛管から引かれた茶色い泥水が「私の運河」と名付けられた小さな溝を満たしていく。
あのお方はその箱庭の陣地の中で、白い寝間着に泥の飛沫を浴びながら、自ら小さな鍬を振るい、子どものように声を上げて笑った。
額から汗が滴り落ち、白い頬にわずかな血の気が差す。
そして、その水辺に柳の若木と桃の苗木を植えさせ、自らの手でひと握りの種子を黒い土へと蒔いた。
「スミレの種ですか、陛下」
水辺の土に小さな種を蒔くその手元を覗き込み、私が尋ねると、あのお方は泥の詰まった爪先を見つめたまま、かすかに唇を歪めた。
「パリの庭師が送ってきた種だ。だが、見ろ、マルシャン。この島の土は乾いた血のように赤く、風は塩辛い。北半球の春を記憶している種にとって、南緯十六度の逆転した太陽はあまりに眩しすぎる。この緯度では、スミレは紫の花弁を開く前に、土の中で窒息してしまうだろうよ」
その言葉通り、数週間が経っても、土から紫の花が顔を覗かせることはなかった。
そして、庭の土塁が完成した十月のある午後、それは前触れもなくやってきた。
柳の木陰に置かれた緑色のベンチで、あのお方は突然、白い部屋着の胸元を鷲掴みにした。手から小さな鍬が滑り落ち、乾いた赤土の上に鈍い音を立てる。
「陛下!」
駆け寄った私の腕の中で、あのお方の身体は氷のように冷たくなっていた。
脂汗が額に滲み、唇からすべての血の気が失せていく。
「ここだ、マルシャン……。みぞおちの奥を、焼けたナイフで抉られているようだ……」
それが、あのお方の肉体の内側に潜んでいた「最後の敵」が、ついに牙を剥いた瞬間だった。
*
一八二一年の春が近づく頃には、あのお方は二度と自分の足でその庭を歩くことができなくなった。
かつてスペインの荒野からモスクワの雪原まで広がっていたあのお方の「帝国」は、まずエルバ島へと縮まり、次にこのセントヘレナの岩山へと縮まり、ロングウッドの数十坪の泥の庭へと縮まり、そして今や、雨戸を閉め切った薄暗い一室にある、幅わずか三フィートの鉄製野戦ベッドの上へと収束していた。
夜になると、閉ざされた部屋からはあらゆる色彩が失われ、ただ「黒」と「白」だけが残された。
アウステルリッツの戦場から常に持ち歩いてきた折り畳み式ベッドの、白い麻の天蓋。
その白い繭の中で、あのお方が激しいしゃっくりと悪寒に震えながら身をよじって咳き込むたび、私が差し出す銀の洗面器には、挽きたてのコーヒーの出がらしのような、どす黒い液体が吐き出された。
戦場を彩った鮮血の紅ではない。
ピロール——ギリシャ語で「門番」を意味する胃の出口を硬い腫瘍に塞がれ、一匙のスープすら通すことを許されなくなった胃袋の底で、行き場を失った血が自らの胃液で黒く焦げた、絶望の色だった。
ヨーロッパ中のあらゆる城門を大砲で粉砕してきた男が、今は自らの腹の底にある小さな「門番」によって内側から完全に封鎖されていた。
それに対してイギリス軍医のアーノットが執拗に差し出すのは、水銀を含む「白」い粉末の下剤、カロメルと吐酒石だった。
内側から湧き上がる死の黒と、外側から強いられる毒の白。その白い毒薬はあのお方の爛れた胃壁をさらに焼き爛れさせるだけだった。
「下げろ……マルシャン。イギリスの医者が盛る白い粉など、私は飲まん」
あのお方は紫がかった唇を固く結び、私が作った琥珀色のリコリスの水と、アーモンドをすり潰した白いオルツァータだけを、乾いた舌の上で転がすようにして舐めた。
四月のある嵐の夜、控えの間からモントロン伯爵と医師たちのひそひそ声が漏れてきた。
« Il empire... »
フランス語のその短い呟きが、私の耳の奥に冷たい棘のように刺さった。
「彼は悪化している(イル・アンピール)」。
だが、私の耳の奥で、その響きは「彼こそが帝国である」という名詞の綴りと残酷に重なり合った。
ランプの乏しい灯りの下で、あのお方の肉体は日ごとに削げ落ちていた。
かつての黄色い脂肪は消え失せ、高く突き出た頬骨と、深く窪んだ眼窩、そして鋭い鼻梁だけが、蝋のように薄い皮膚の下に浮き上がっている。
その横顔を見下ろしたとき、私は息を呑んだ。肉を削ぎ落とされたあのお方の頭蓋骨の起伏は、かつてあのお方が馬を駆って踏み越えたアルプスの険しい稜線や、ピレネーの渓谷——すなわち、あのお方が愛し、征服したヨーロッパの地図そのものの形をしていたからだ。
帝国が崩壊していくのではない。
あのお方の痩せ細った骨格そのものが、最後の帝国になっていたのだ。
四月十五日、あのお方は私とモントロンを枕元に呼び、震える手で羊皮紙の上に遺言を書き記し、また口述筆記をさせた。
ランプの黄金色の灯りが、白いシーツの上に落ちるあのお方の痩せた影を揺らしている。
あのお方はすでに自分が所有していないフランスの莫大な遺産を、かつての戦友や兵士たちに気前よく分け与えたあと、ふと視線を上げて私の目を見た。
かつて射抜くような灰青色だったその瞳は、今は白濁した霧に覆われたように穏やかだった。
「書いておけ。——私はマルシャンに四十万フランを遺贈する。彼が私に尽くしてくれた世話は、単なる召使いのものではなく、友人のそれであった、と」
羽根ペンを握る私の指が震え、インクの黒い染みが紙の上に広がった。
皇帝と召使い。かつてチュイルリー宮殿の金の玉座に座っていた神のごとき人と、その足元で燭台を持っていた名もなき青年。
しかし、この緑の毒の壁紙に囲まれた密室で、黒い血を吐くあのお方の背中をさすり、汗に濡れた白い寝間着を日に何度も取り替えてきた歳月の果てに、私たちは王冠も階級も持たない、ただの「二人の人間」になっていたのだ。
*
五月四日、島をかつてないほどの激しい暴風雨が襲った。
海から吹き上げる烈風がロングウッドの屋根を軋ませ、鉛色の豪雨が窓ガラスを叩きつける。
昼過ぎ、庭の方角で乾いた巨大な破裂音が響いた。
私が窓の鎧戸をわずかに開けて外を覗くと、あのお方が昨年あれほど慈しみ、その木陰に緑のベンチを置いて休んでいた大きな柳の木が、根こそぎ引き抜かれて赤い泥水の中に倒れ伏していた。
あのお方が掘らせた「運河」は濁流に呑まれ、築き上げた土塁は崩れ落ちて、ただの赤茶けた泥の塊へと還っていた。
その夜から、あのお方は深い昏睡とせん妄の淵へと沈んだ。
日付が五月五日に変わった未明、午前二時を過ぎた頃だった。
部屋の中には、蝋燭の火が揺れる音と、窓を打つ風の音しか聞こえない。
不意に、白い天蓋の下で、あのお方の乾ききった唇がわずかに動いた。
私は耳をその口元へと近づけた。
シーツの上に置かれたその手の爪は、かつてパリの春を彩ったあの花びらと同じ、冷たい「チアノーゼ」に染まりきっていた。
血の巡りを失った指先だけが、ひと足先にスミレの色へと還っていたのだ。
「……フランス……」
かすれた、風の隙間から漏れるような声だった。
「……陸軍……テート・ダルメ……」
そして、長い沈黙のあと、最後に絞り出すような吐息とともに、ひとつの名前がこぼれ落ちた。
「……ジョゼフィーヌ……」
かつて最初にその髪にスミレの花を飾り、あのお方が生涯愛した女性の名だった。
それが、かつて世界を震え上がらせた唇が紡いだ、最後の言葉となった。
夜が明け、嵐が去ったあとの島には、嘘のように澄み切った南大西洋の空が広がっていた。
午前中から午後にかけて、あのお方は二度と目を開けることも、指先ひとつ動かすこともなかった。
ただ、喉の奥でゴロゴロと鳴る死前喘鳴の規則正しい音だけが、時計の振り子のように静かな部屋を満たしていた。
ベッドの周囲には、ベルトラン夫人と子どもたち、モントロン、医師たち、そしてイギリス側の立ち会いとして派遣されたアーノット軍医が、黒い影のように黙って立ち尽くしていた。
午後五時を過ぎると、嵐一過の澄み切った西の窓から、南大西洋の水平線へと沈みゆく太陽の光が真っ直ぐに部屋へと差し込んできた。
それは、この陰鬱な霧の島で私が見た、最も鮮烈で、ほとんど暴力的なまでの「紅」と「黄金」の光だった。
斜陽は剥がれかけた緑の壁紙を貫き、白い天蓋を染め上げ、まるでかつてノートルダム大聖堂の戴冠式であのお方の肩にかけられた、金糸の蜜蜂が刺繍された深紅のビロードのマントのように、横たわる痩せた肉体を包み込んだ。
太陽が水平線に触れた、午後五時四十九分。
あのお方の胸が、かすかに一度だけ持ち上がった。
喉の奥で規則正しく鳴っていた音が、時計のゼンマイが切れたように、ふっと途切れた。
大砲の轟音も、軍楽隊のラッパも、歓呼する群衆の声もない、完全な静寂の中で、あのお方は息を引き取った。
アーノット軍医が歩み寄り、懐中時計を見てから、その胸に手を当てて小さく頷いた。
側近たちの間から、押し殺した嗚咽が漏れる。
私は一歩前に出て、震える手で「白」い麻のハンカチを取り出した。
口が開いてしまわぬよう、まだわずかに温もりの残るあのお方の顎の下にその布を当て、頭頂部へと回して静かに結んだ。
その瞬間、部屋から紅と黄金の斜陽がすうっと引き潮のように退いていった。
光が去ったあとのあのお方の顔を見下ろしたとき、私は不思議な安堵に包まれている自分に気づいた。
死があのお方から最後の苦痛を奪い去った瞬間、その顔からは、晩年の醜いむくみも、ハドソン・ロウへの憎悪の皺も、失われた帝国への執着も、すべてが嘘のように消え失せていた。
白い麻布に縁取られたその横顔は、かつてイタリアの戦場を駆け抜けた二十代の青年将校の頃のような、大理石の彫刻めいた静謐さだけを湛えていた。
「皇帝」という黄金の重荷も、「ボナパルト将軍」という緋色の鎖も、もはやこの静かな肉体を縛ることはできない。
大帝国という巨大な幻影がすべて剥がれ落ち、最後の泥の庭すら嵐に洗い流された果てに、あのお方はようやく、誰の支配も受けない、そして誰も支配する必要のない、ただの自由な魂へと還ったのだ。
私はベッドの傍らを離れ、西向きの窓辺へと歩み寄った。
窓の外では、太陽がまさに大西洋の波間へと沈みきり、空と海の境界線が、深く澄んだ「スミレ色」の夕闇へと溶け合っていくところだった。
この冷たい緯度の赤土に、スミレの花が咲くことはついになかった。
だが、あらゆる栄光の色が燃え尽きたあとの水平線を染める、あの限りない紫の残照の中に、私は確かに、あのお方がついに帰り着いたパリの春の匂いを嗅いでいた。




