第11話「氷解の朝と断ち切られた鎖」
分厚いカーテンの隙間から差し込む朝の光が、寝室の床に落ちた影の形をゆっくりと変えていく。
外から聞こえていた猛烈な風の音はすっかりと鳴りを潜め、代わりに雪の表面が崩れ落ちる微かな音が静寂を縫うように響いていた。
シエルが重たい瞼を押し上げると、視界は昨夜までの歪みを失い、澄み切った透明な空気を取り戻していた。
身体の奥底から湧き上がっていた異常な熱も、甘く重たい香りも、嘘のように消え去っている。
残っているのは、長い熱病から抜け出した後のような深い疲労感と、心地よい微睡みの余韻だけだった。
ゆっくりと首を巡らせると、ベッドのすぐ横に置かれた木製の椅子で、ルシアンが深く身を沈めて眠っている姿があった。
分厚い黒の外套はそのままに、腕組みをして目を閉じている。
彼の目元には色濃い疲労の影が落ちており、昨夜の彼がどれほどの精神力を消耗してシエルを守り抜いたのかが痛いほどに伝わってきた。
ルシアンの大きな右手が、ベッドの縁に置かれたシエルの左手を、逃がさないようにそっと包み込んでいる。
その温かく力強い感触に、シエルの胸の奥が甘く締め付けられた。
『本当に、一晩中ずっとそばにいてくれたんだ……』
シエルはルシアンを起こさないように注意しながら、繋がれた手をそのままにしてゆっくりと上体を起こす。
そのわずかな衣擦れの音に反応し、ルシアンの長い睫毛が微かに震え、琥珀色の瞳が静かに開かれた。
眠りから覚めたばかりだというのに、彼の視線はすぐにシエルの顔へと向けられ、熱がないかを確かめるように鋭く細められる。
「……目は覚めたか。気分はどうだ」
低く落ち着いた声が、朝の静かな空気を震わせる。
シエルはルシアンの顔を真っ直ぐに見つめ返し、安心させるように小さく微笑んだ。
「はい。もう、熱は完全に下がりました。身体も、とても軽いです」
その言葉を聞いて、ルシアンの強張っていた肩の力がふっと抜けたのがわかった。
彼は深く息を吐き出し、繋いでいたシエルの手をゆっくりと離して立ち上がる。
そして、部屋の隅にある机へ向かうと、昨日の昼下がりにシエルを恐怖のどん底へ突き落とした、あの忌まわしい手紙が乗せられた銀の盆を手に取った。
封蝋の割れた羊皮紙を見るなり、シエルの身体は条件反射のように微かに震えた。
実家からの卑劣な要求と、王都へ連れ戻されることへの恐怖が、再び冷たい刃となって心臓の表面をなぞる。
しかしルシアンは、その手紙をシエルの目の前で無造作に二つに折りたたみ、暖炉の中で細々と燃え続けている残り火の中へと放り投げた。
乾いた羊皮紙は瞬く間に炎に包まれ、黒い灰となって崩れ落ちていく。
「あ……」
シエルの口から、驚きの声が漏れる。
ルシアンは暖炉の中で手紙が完全に燃え尽きるのを見届けると、再びシエルのベッドの傍らへと戻ってきた。
「昨夜のうちに、王都のリュミエール伯爵家へ向けて早馬を出した」
ルシアンの声は、氷のように冷たく、そして鋼のように硬かった。
それは領地を脅かす敵に向ける時と同じ、公爵としての絶対的な威厳を持った声だ。
「内容は簡単なものだ。オズワルド公爵家に対する一切の干渉を禁ずること。そして、今後二度と君に対して書状を送ることも、接触を図ることも許さないと伝えた。もしこの警告を無視すれば、私の持つ全ての権力と武力をもって、リュミエール伯爵家を社会的に完全に抹殺すると書き添えてある」
あまりにも過激で、一切の容赦がない通告。
しかし、その言葉が意味するものを理解した瞬間、シエルの両目から大粒の涙がとめどなく溢れ出した。
実家の呪縛から逃れることなど、一生できないと諦めていた。
自分の人生は、強者の都合で使い捨てられるだけの薄暗い道なのだと信じ込んでいた。
だがルシアンは、その太く重たい鉄の鎖を、自らの力で根元から断ち切ってくれたのだ。
「もう、君があの者たちに怯える必要は一切ない。君はリュミエール家の道具ではなく、オズワルドの人間であり、私の大切な妻だ」
不器用な男が紡いだ、飾らない真実の言葉。
シエルは両手で顔を覆い、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
恐怖の涙ではない。
これまでの人生で溜まりに溜まっていた泥のような悲しみが、ルシアンの温かい言葉によって洗い流されていく、浄化の涙だった。
ルシアンは泣き続けるシエルの背中に大きな手を添え、赤子をあやすように一定のリズムでゆっくりと撫で続ける。
しばらくして、シエルの嗚咽が静かなしゃくり上げへと変わった頃、部屋の扉が控えめにノックされた。
ルシアンが入室を許可すると、使用人が湯気を立てる温かいスープと柔らかいパンを乗せた盆を運んでくる。
それは、シエルが厨房で作っていた素朴な料理とは違う、城の料理人が腕によりをかけた滋養豊かな朝食だった。
「ひどく体力を消耗しているはずだ。まずは温かいものを胃に入れなさい」
ルシアンは自ら木製のスプーンを手に取り、スープをすくってシエルの口元へと運ぶ。
シエルは照れくささに頬を染めながらも、素直に口を開いてその温かい液体を飲み込んだ。
丁寧に裏ごしされた野菜の甘みが、空っぽだった胃の腑にじんわりと染み渡っていく。
「美味しい、です」
涙で濡れた顔に満面の笑みを浮かべるシエルを見て、ルシアンの口元にも微かな、しかし確かな柔らかな笑みが浮かんでいた。
長く冷たい冬の夜が終わり、二人を隔てていた分厚い氷の壁が完全に溶け落ちた、新しい朝の始まりだった。




