ダンジョンよりも深い、魔王様のお話
ダンジョン最深部、灼熱と瘴気に満ちた玉座の間。
そこに座するは、幾千の勇者を退けてきた魔王。
その魔王が、なぜか今日は人間界にいた。
「ここが……ケイバジョウか。」
黒マントを翻し、異様な威圧感を放ちながらも、きょろきょろと辺りを見回す魔王。
隣を歩く側近のリッチが、小声で説明する。
「はい、魔王様。人間どもが己の財を賭け、走る馬の順位を予想する娯楽でございます。」
「ほう……命ではなく金を賭けるのか。随分とぬるいな。」
そう言いつつ、魔王の目はどこか輝いていた。
入口で新聞を買い、ぎこちなく広げる。
「なに?【単勝】【複勝】【三連単】…呪文の類か?」
「いえ、賭け方の種類でございます。」
「ふむ……では、このオッズとはなんだ?」
「倍率でございます。的中すれば、その倍率分の金が増えます。」
魔王の口元が、ゆっくりと歪んだ。
「面白い。つまり、我が選んだ一頭にすべてを賭け、世界をひっくり返すことも可能というわけだな?」
「そう…なんでしょうか………。(魔王面倒クセーな。)はい。そうですね。理論上は。」
「ふむ…。」
パドックに現れた馬たちを見て、魔王は腕を組む。
「うぅむ……どれも筋肉の付き方が良い。だが、この【7番】…目に覇気がある。魔族に近いものを感じる。」
「ただのサラブレッドでございます。」
「よし、決めた。7番に単勝だ!」
券売機の前で、魔王は戸惑う。
「この魔導装置はどう扱うのだ?」
「ボタンを押すだけでございます。」
「……簡単すぎぬか?」
ピッ。
数秒後、魔王は初めての馬券を手にした。
「これが……戦の証か。」
レースが始まる。
地鳴りのような歓声。
轟く蹄の音。
魔王は思わず前のめりになる。
「行け……7番……!貴様ならできるはずだ……!」
いつの間にか、拳を握りしめている。
最終コーナー、7番は3番手。
直線に入り、差を詰める。
「行けぇぇぇぇぇ!!」
玉座でも聞いたことのない大声で叫ぶ魔王。
しかし――
結果、7番は惜しくも2着。
静まり返る魔王。
手の中の馬券を見つめ、震える声で言う。
「……敗北、か。」
側近が気まずそうに口を開く。
「複勝なら当たっておりましたが……。」
「なぜそれを先に言わぬ!!」
初めての絶叫が、青空に響いた。
その日、ダンジョンに帰還した魔王は静かに宣言した。
「次は三連単で世界を取る。」
人間界に、新たな脅威が生まれた瞬間だった。
次の日、魔王は、玉座に腰を下ろすなり低く呟いた。
「……三連単で世界を取る。」
その一言で、魔族たちの空気が凍りついた。
「三連単とは、上位三頭の着順をすべて的中させる……最も難易度の高い賭けでございます。」と側近のリッチが震え声で補足する。
「ならばなお良い。困難こそ支配の証よ。」
それからというもの、ダンジョンの様子は一変した。
魔王は魔導書を閉じ、代わりに競馬新聞を開くようになった。
拷問部屋は【データ分析室】と改装され、ゴブリンたちは血走った目で過去レースを解析する日々。
オークたちは調教師のコメントを暗記させられ、ドラゴンに至ってはパドックの映像を何度も再生させられていた。
「魔王様、勇者一行がダンジョンに侵入しました!」
「今はそれどころではない。馬場状態はどうだ?」
「やや重でございます!」
「ならば差し馬が来る……ふふ、見えるぞ」
勇者は無視された。
数日後、再び人間界の競馬場。
魔王は以前よりも堂々とした足取りで現れた。
黒マントはそのままだが、なぜか首からは双眼鏡を下げている。
「今回は違う。すべてを読み切った。」
手にした新聞には、びっしりと赤い丸や矢印、謎の魔法陣のような印が書き込まれている。
「本命は3番、対抗は11番、穴は5番……この三頭で決まりだ。」
「魔王様、本当に三連単でよろしいのですか?」
「当然だ。支配者は一点に賭ける。」
券売機の前で、魔王は迷いなくボタンを押した。
ピッ。
握りしめた馬券が、わずかに震える。
レースが始まる。
3番が好スタート。11番も好位につける。5番は後方だが、魔王は不敵に笑う。
「問題ない。奴は来る。」
最終コーナー。
3番先頭、11番2番手、そして――
「来た……5番が来たぞ!」
後方から猛烈な追い込み。
観客の歓声が渦巻く中、魔王は立ち上がる。
「来たァァァッ!いよいよ我が支配する時だァァァ!!」
直線、三頭が並ぶ。
3番、11番、5番――
そして並んだままゴール。
沈黙の一瞬。
そして掲示板に映し出される着順。
1着 3番
2着 5番
3着 11番
魔王の動きが止まる。
「……着順が、違う……だと?」
側近がそっと言う。
「三連単は着順も含めて一致しないと……。」
「く……。」
魔王の手から、馬券がひらりと落ちた。
膝をつく魔王。
その背中は、かつて勇者に敗れた時よりも深く沈んでいた。
頭の中を走馬灯のように研究の日々が駆け巡る。
だが――
次の瞬間、ゆっくりと立ち上がる。
「いいだろう……ならばフォーメーションだ。」
「まだやるのですか!?」
「人間どもは言っていた。「競馬に絶対はない」と。そんなことは認められん。ならば我がその【絶対】になるまでだ。」
その目は、かつて世界を恐怖に陥れたそれよりも、ずっとギラついていた。
そして数週間後――
ダンジョンの入り口に、ひとつの看板が立てられていた。
『本日休業〔GⅠのため〕』
来ていた勇者は、そっと帰った。
そして数ヶ月後。
『本日休業〔GⅠのため〕』の看板が立ってからというもの、ダンジョンはもはや【魔の巣窟】ではなく【競馬研究施設】と化していた。
玉座の間には巨大な黒板が設置され、そこにはびっしりと数式と矢印。
「展開とは流れ……流れとは運命……だが運命はねじ曲げられる。」
魔王はチョークを握りしめ、まるで世界の法則そのものを書き換えるかのように、真剣な表情で分析している。
その背後では、ゴブリンが泣きながら叫んでいた。
「魔王様ぁ!内枠有利って昨日言ってたのに今日は外差し決着って書いてありますぅ!」
「黙れ!それが競馬だ!!」
理不尽すぎる真理が、ダンジョンに響く。
一方その頃、人間界では奇妙な噂が広まっていた。
「最近、異様に当ててる黒マントの男がいるらしいぞ。」「いや、当ててるっていうか…当たってないけど研究量だけは異常なんだよ。」 「あぁあいつ?外すたびに「次は見えた!」って言って帰るんだよな……。」
そしてついに、その日は来た。
最高の馬々が揃う大一番、競馬の醍醐味――GⅠレース。
観客で溢れかえる競馬場に、ゆっくりと現れる黒マントの影。
魔王である。
その目には、迷いがなかった。
「……長かった。本当に長かった。」
手にした新聞は、もはや原型を留めていない。折れ、破れ、書き込みに埋め尽くされ、まるで呪物のようだ。
「全てのデータ、全ての流れ……理解した。」
側近のリッチが恐る恐る聞く。
「今回は、どの買い方で……?」
魔王は静かに答えた。
「ワイドだ。」
「弱気!?」
思わず素でツッコむリッチ。
「違う。これは【確実に当てる】という魔術だ。」
券売機の前。
魔王はゆっくりとボタンを押す。
ピッ。
馬券を握りしめる手は、これまでで一番落ち着いていた。
レースが始まる。
歓声、震動、熱気。
魔王は叫ばない。ただ、じっと見つめている。
「……来る。」
直線。
選んだ二頭が並んで抜け出す。
観客がどよめく。
そのまま――
ゴール。
数秒後、確定。
的中。
静かに、しかし確かに――当たった。
その瞬間、魔王は目を閉じた。
「……これが的中……なの……か。」
膝から崩れ落ちる。
だがそれは敗北ではない。勝利である。
だが魔王にはーーー
「虚しい。」
「え?」
「虚しいぞォォォォッ!!」
「えぇぇぇぇっ!?」
「当たったのに……世界が変わらぬではないか。」
魔王は沈黙した。
側近のリッチは困惑している。
そしてしばらくして魔王は、ゆっくりと立ち上がった。
「……やはり違うな。」
その目に、再び炎が灯る。
「次は三連単一点買いだ!」
「戻った!!」
絶叫するリッチ。
その頃、ダンジョンの入り口の看板はこう書き換えられていた。
『しばらく休業〔本命が見えたため〕』
そして遠くで、勇者が仲間達に言った。
「……もう害はないし放っておこうぜ。」
そしてーーー時はさらに流れた。
『しばらく休業〔本命が見えたため〕』という看板が立ってから、ダンジョン内部は完全に異様な静寂に包まれていた。
いや、正確には……静かではない。
「違う!そのラップでは差しは届かぬと言っているだろう!!」
「すみません魔王様ァ!ペース予測を0.2秒誤りましたァ!!」
絶叫と怒号が飛び交う、地獄の研究所である。
玉座の間の中央には、巨大な水晶が浮かんでいた。
そこには未来のレース映像が……ぼんやりと、しかし確かに映し出されている。
「ついに完成したのだ……未来視競馬演算装置が」
魔王は静かに笑った。
「これで展開も、着順も、すべてが見えるぞ!」
側近のリッチが、恐る恐る尋ねる。
「魔王様……それは、もはや予想というものではないのでは?」
「愚問だな。勝ちが確定してこそ、我の支配は完成する。」
数日後。
再び競馬場に現れる魔王。
だが今回は違った。
歩くたびに、周囲の空気が歪む。
「……なんか今日のあの人、ヤバくない?」 「目が完全に当てに来てる目だぞ……。」
人間たちがざわめく。
魔王は券売機の前に立つ。
迷いはない。
「三連単、一点。」
ピッ。
握りしめた馬券には、絶対の自信が宿っていた。
レースが始まる。
すべては、見た通りに進む。
スタート、位置取り、ペース。
「予定通りだ。」
魔王の口元がわずかに緩む。
最終コーナー。
水晶で見た通りの並び。
直線。
「来るぞ……この順番で……!」
しかし観客が総立ちになる中、魔王だけが静かだった。
水晶の未来視により勝利が確定しているから。
――そのはずだった。
ゴール直前。
先頭の馬が、ほんの一瞬、躓いた。
「……は?」
順位が、入れ替わる。
掲示板に映し出された結果は――
「水晶と…違うだと?」
完全な、外れ。
魔王の目が見開かれる。
「なぜだ……未来は、見えていたはず……。」
隣で、誰かが呟いた。
「競馬に絶対はないんだよ。」
振り向くと、そこには一人の老人。
よれた帽子、くたびれた新聞。
どこにでもいるような、ただの競馬ファン。
だがその目は、不思議と澄んでいた。
「データも、才能も、運すらも裏切る。それでも人は賭ける。」
魔王は、何も言えなかった。
「なんでだと思う?」
しばらくの沈黙のあと、魔王は小さく答える。
「……わからぬ。」
老人は笑った。
「面白いからさ。」
その言葉が、深く刺さる。
魔王は、しばらく立ち尽くしたあと――
ふっと、笑った。
「……なるほどな。」
手の中の外れ馬券を見つめる。
「これは……終わらぬ戦いだ。」
老人は頷く。
「ようこそ。」
その瞬間。
ダンジョンの奥深くに君臨していた【魔王】は、
完全に【ただの競馬好きのやつ】へと進化した。
数日後。
ダンジョンの看板はこうなっていた。
『通常営業。いつでも勇者の挑戦を受ける。〔ただしレース中は静かにしてね〕』
そして玉座の間。
勇者と魔王が、並んで新聞を広げていた。
「魔王、今回はどれだ?」
「ふむ……穴は9番だな。」
「マジか、乗った。」
世界は、わりと平和になった。
かつて剣を交えていた者同士が、同じレースに一喜一憂し、同じ外れ馬券に苦笑する。
そして今日も、ダンジョンの奥からは叫び声が響く。
「次こそ当たる気がする!!」
その根拠のない希望こそが、世界を穏やかに回しているのだった。
おしまい。




