届けられた小道具
二月十八日の夜。
佐藤から仕事終わりに電話があった。
「織田が昼飯に誘ってきた」
「行ったのか」
「断れなかった。二人きりで定食屋に行った」
「何を話した」
「仕事の話がほとんどだったんだが、途中で急に変なことを聞かれた」
「変なこと?」
「最近よく眠れてるかって。唐突に。話の脈絡もなく」
俺は電話を握る手に力を入れた。
「お前、何と答えた」
「普通に寝てるって答えた。まあ嘘だけどな、昨日から全然寝てないし」
「織田の反応は」
「そうか、ならいいけど、って言って、また仕事の話に戻った。何事もなかったみたいに」
よく眠れているか。
練炭による一酸化炭素中毒で死亡した場合、外見上は安らかに眠っているように見える。そのことを知っている人間が、「よく眠れているか」と聞いたのだとしたら。
それは皮肉だ。あるいは、犯人特有のブラックユーモアだ。自分の計画を匂わせて、相手の反応を楽しんでいる。
考えすぎかもしれない。だが、状況を考えると無視できない。
「他に変わったことはなかったか。織田の態度で気になったこととか」
「そうだな……食事の後、事務所に戻る途中で織田が俺の肩を叩いたんだ。お疲れさまです、って。別に普通のことなんだけど、手の力が妙に強かった。握るような感じで。すぐ離したけど」
「それはいつもの織田か」
「いつもはそんなことしない。基本的にはボディタッチの少ない奴だ」
距離感がおかしくなっている。犯行が近づくにつれて、抑えていた衝動が表面に出始めているのかもしれない。あるいは、最後の別れのつもりで、佐藤に触れたかっただけかもしれない。
どちらにしても、不気味だ。
「佐藤、明日から織田と二人きりになるな。何があっても」
「わかった」
「それと、今日の帰り道、後ろを気にしてみてくれ。視線を感じるかどうか」
「ああ。感じた」
「今日も?」
「駅から家までの道で。振り返ったら、遠くに人影が見えた気がしたけど、すぐ消えた。暗かったから顔はわからない」
「距離はどのくらいだった」
「五十メートルくらいかな。街灯の下に一瞬だけ影が見えて、俺が振り返ったら建物の陰に入った」
五十メートル。尾行としては近い。相手に気づかれるリスクがある距離だ。だが、犯人がわざと気づかせている可能性もある。心理的圧力の一環として。
やはり尾行されている。
電話を切った後、俺は練炭の処分について考えていた。
今日、佐藤の部屋から練炭を回収して処分した。だが犯人にとって練炭の入手は容易だ。ホームセンターに行けば買える。通販でも手に入る。
つまり、練炭の処分は応急処置であって根本的な対策ではない。練炭を何度処分しても、犯人は何度でも補充できる。
大事なのは練炭ではなく、密室を作る方法だ。密室さえ作れなければ、犯行は自殺に見せかけられない。単なる殺人未遂として証拠が残る。
犯人はそれを理解しているはずだ。だからこそ、遺書には密室の構築方法が克明に書かれている。
そして、その構築方法のカギとなるのが、赤い糸だ。
俺は自分の部屋のサムターンの前に立った。
安アパートの玄関ドア。内側にあるサムターンは、真鍮色の小さなつまみだ。横にすると解錠、縦にすると施錠。指でつまんで九十度回すだけの単純な機構。
このつまみを、外側から回す方法。
ドアの隙間から道具を差し込む方法は、防犯サイトにいくつか紹介されていた。ピッキングツールや特殊な工具を使う手口だ。だが、それらは証拠が残りやすい。ドアや枠に傷がつく。
遺書で描かれている密室は、自殺に見せかけるためのものだ。証拠が残っては意味がない。
証拠の残らない方法。
糸を使う。
具体的には、サムターンに糸を巻きつけておき、ドアの下の隙間から糸を外に出す。外側から糸を引っ張ると、サムターンが回って施錠される。施錠後、糸を引き抜けば、室内には糸の痕跡が残らない。
理論上は可能だ。だが、実際にやってみると問題が出てくる。
まず、サムターンに糸をどう巻きつけるか。滑り止めが必要だ。普通の糸では滑ってしまう。
次に、糸の太さ。細すぎると切れる。太すぎるとドアの隙間を通らない。
そして、回転の角度。九十度きっちり回す必要がある。糸を引く方向と力加減で角度が変わる。
俺は部屋にあった凧糸を持ってきて、自分のサムターンで試してみた。
つまみに糸をぐるぐると巻き、端をドアの下の隙間から外に出す。ドアを閉めて、外側でしゃがみ込み、糸を引いた。
サムターンが少し動いた。だが、途中で糸が滑って空回りした。
何度か試すうちに、いくつかのことがわかった。
糸を直接サムターンに巻くのでは不安定すぎる。何か引っかかりを作る必要がある。輪ゴムをサムターンにかけて滑り止めにするか、テープを巻くか。だが、どちらも痕跡が残る。
痕跡を残さずにサムターンを回す方法。しかも糸で。
封筒に入っていた赤い紐のことを思い出した。
あの紐は両端が結ばれて輪になっていた。長さは三十センチほど。
輪になった紐をサムターンにかければ、引っかかりができる。紐をサムターンに一回巻きつけるのではなく、輪を引っかけて左右に引く。すると、摩擦係数が上がり、滑りにくくなる。
紐の素材も重要だ。封筒に入っていた赤い紐は、表面がざらざらした繊維質の素材だった。摩擦が大きい。普通の綿糸や凧糸とは違う。犯人がわざわざこの素材を選んだのだとすれば、サムターンとの摩擦力を計算した上での選択だ。
試してみた。凧糸を三十センチほどに切って輪にし、サムターンにかける。片方の端をドアの下の隙間から出す。引っ張る。
カチリ。
サムターンが九十度回って、施錠された。
成功した。
つまり、赤い紐はサムターンを外から回すための道具だった。
だが待て。施錠後、紐をどうやって回収する?
紐をそのまま引き抜けば、サムターンから紐は外れる。施錠後に紐を引けば、輪が解けてドアの隙間から回収できる。
だが、紐がサムターンに引っかかったまま取れなくなる可能性もある。
ここがトリックの核心だ。
そして、遺書の最後にあった一文が頭に浮かぶ。
赤い糸で縁を結び、永遠の眠りにつく。
紐を使い終わったら、どうする?
燃やす。
練炭に火をつける際、紐も一緒に燃やしてしまえば証拠は消える。あるいは、紐自体が燃えやすい素材であれば、練炭の炎で自然に消失する。
遺書には「思い出を燃やして、煙と共に消える」という記述もあった。思い出を燃やす。つまり、証拠を燃やす。
台本は犯行の手順書であると同時に、トリックの種明かしでもあった。
犯人は自分のトリックを遺書の中に織り込んでいる。それも、詩的な表現に偽装して。
読み解けるものなら読み解いてみろ、と言わんばかりに。
俺はメモ帳を開き、わかったことを整理した。
一つ。犯人は赤い紐をサムターンにかけて外部から施錠する計画を持っている。
二つ。施錠後、紐は練炭の火で燃やして証拠を消す。
三つ。遺書はあらかじめ用意された偽物であり、犯人の筆跡と佐藤の筆跡の類似性を利用している。
四つ。遺書の中にトリックのヒントが隠されているのは、犯人の自己顕示欲の表れだ。
トリックの輪郭が見えてきた。
次は犯人の確定だ。
俺は佐藤にLINEを送った。
明日、織田圭吾の住所を調べてくれ。
返信は三十秒で来た。
わかった。だが何をする気だ。
お前の命を守る。
それだけ送って、スマートフォンを伏せた。
窓の外は暗かった。カーテンの隙間から、向かいのアパートの窓の光が小さく見えている。どこかで犬が吠えている。二月の夜は長い。
Xデーまであと一日。




