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第一の予言

 二月十七日。Xデーまで残り二日。


 朝八時、スマートフォンが鳴った。佐藤からのLINEだった。


 変なことがあった。


 一行だけのメッセージ。俺はすぐに電話をかけた。


「何があった」


「朝、アパートを出たら、うちの前に黒猫がいたんだ」


「黒猫」


「階段の手すりの上に座ってた。目が合ったら、横切って逃げてった」


 遺書の四枚目に書かれていた一節が蘇る。


 死の前兆として、黒き猫が道を横切る。それは渡し守の使いであり、船に乗る日が近いことを告げている。


 カロンの渡し守。ギリシャ神話で死者の魂を冥府へ運ぶ船頭だ。カロンの郵便受けという名前の元ネタでもある。


「偶然だろ」


 佐藤の声には自分に言い聞かせるような響きがあった。


「野良猫なんてどこにでもいる。黒猫だって珍しくない」


「お前のアパートの周りに、前から黒猫はいたか」


 沈黙。


「いなかった。少なくとも、俺は見たことがない」


 偶然か、作為か。


 黒猫を特定の場所に配置するのは難しくない。餌を使えばいい。前の晩にアパートの階段付近にキャットフードを撒いておけば、野良猫が集まるのは自然なことだ。黒猫が来る保証はないが、何度か試せば確率は上がる。


 あるいは、もっと単純な方法がある。近所の黒猫の行動パターンを把握しておいて、朝の時間帯にアパートの前を通るように仕向けるのだ。猫は習慣の動物だ。毎日同じ場所に餌を置けば、数日で決まった時間に来るようになる。


 問題は、犯人がそこまでする意味だ。


 遺書に書かれた予言を現実にする。それは被害者と、遺書を読んだ俺に対する心理的圧力だ。遺書の内容が的中し始めれば、佐藤は恐怖で判断力を失う。俺は焦って的外れな行動を取るかもしれない。


 犯人の狙いは、心理的な支配だ。


 台本通りに物事が進んでいるという絶望感を植え付けること。逆らえないのだ、という諦めを佐藤の中に芽生えさせること。


 だが、俺は逆のことを考えていた。予言が的中するということは、犯人が能動的に動いているということだ。動けば痕跡が残る。猫の餌を買った店、配送業者の記録、防犯カメラの映像。犯人が派手に動けば動くほど、尻尾を掴みやすくなる。


「佐藤、今日は仕事に行くのか」


「行くよ。行かない理由がない」


「なるべく人の多い場所にいろ。一人になるな」


「わかった」


「それと、今日の帰り道は注意しろ。いつもと違う道を使え。最寄り駅からの帰路を変えるだけでも、尾行者には有効だ」


「大げさだな」


「大げさくらいがちょうどいい」


 電話を切った後、俺は遺書を再び広げた。


 四枚目の予言の記述をもう一度読む。


 黒猫の次にはこう書かれていた。


 二日目には、友人から贈り物が届く。それは旅立ちに必要な荷物である。


 友人からの贈り物。旅立ちに必要な荷物。

 

 練炭のことだろう。遺書の手順書の部分で、練炭を用意すると書かれている。まだ練炭は届いていない。だが、遺書の記述に従えば、明日届くことになる。


 もし二日目の予言も的中するのなら、明日は佐藤の部屋を確認する必要がある。



 翌朝。二月十八日。Xデーまで残り一日。


 俺は佐藤の部屋に向かうことにした。


 佐藤のアパートは三鷹にある。中央線で荻窪から三駅。急がなければ昼前には着く。


 電車の中で、ノートパソコンを膝に乗せ、練炭について調べた。


 練炭による一酸化炭素中毒の致死量は、密閉された六畳の部屋で練炭三から四個を燃やした場合、二時間から三時間で致死量に達する。窓や換気口を完全に封鎖した場合はさらに早い。


 遺書の手順では、練炭を浴室に設置すると書かれていた。ユニットバスの狭い空間で練炭を燃やせば、一酸化炭素はすぐに部屋全体に行き渡る。


 恐ろしいのは、一酸化炭素が無色無臭であることだ。眠っている間に濃度が上がれば、目を覚ますことなく意識を失う。苦しみもない。ただ、二度と目を開けない。


 三鷹駅で降り、佐藤のアパートに向かう。


 アパートは駅から徒歩十分の住宅街にあった。二階建ての木造アパートで、外壁のペンキが剥げかけている。佐藤の部屋は二階の一番奥。階段を上がると、ドアの前に段ボール箱が置かれていた。


 嫌な予感がした。


 段ボールの表面にはコンビニ配送の伝票が貼られていた。宛名は佐藤大輝。差出人の欄は空白。


 箱の大きさは横四十センチ、縦三十センチ、高さ二十センチほど。持ち上げるとずしりと重い。


 開けるべきか迷った。佐藤宛の荷物だ。勝手に開けるのは褒められた行為ではない。


 だが、中身は見当がついていた。


 スマートフォンで佐藤に連絡する。


「佐藤、今お前の部屋の前にいる。段ボールが届いてるんだが、開けていいか」


「段ボール? 俺、何も注文してないぞ」


「だろうな。開ける」


「ああ、頼む」


 段ボールの封を切った。


 中には練炭が六個、整然と並べられていた。


 角型の練炭で、ビニールの個包装に入っている。ホームセンターで売っているのと同じ型だ。新品。開封された形跡はない。


 台本の通りだった。


 段ボールの底に、小さな紙片が入っていた。白い紙に黒のボールペンで、一行だけ書かれている。


 旅の支度が整いました。


 遺書の文体と同じだ。犯人が入れたメッセージ。


 佐藤に電話で報告する。


「練炭だった」


「……本当に?」


「六個。新品。差出人不明。それと、紙が一枚入ってた。旅の支度が整いました、と書いてある」


 電話の向こうで、佐藤が長い息を吐いた。


「河瀬、これ、まずいんじゃないか」


「まずい。だが、まだ対処の余地はある」


「警察に言ったほうがいいんじゃないか」


「練炭が届いただけでは警察は動けない。犯罪が起きていない段階では、精々が相談受付だ。それでも、記録を残す意味で後で相談はしておく」


 佐藤が黙った。電話越しに、オフィスのざわめきが聞こえる。同僚の笑い声が遠くで響いている。日常の音だ。この日常が脅かされている。


「佐藤。聞け。台本通りに物事が進んでいるように見えるが、それは犯人がそう仕向けているからだ。黒猫も練炭も、犯人が準備したものだ。つまり犯人はまだ準備段階にいる。本番はXデーだ。そこまでに対策を取ればいい」


「対策って何をする」


「まず、この練炭は俺が処分する。犯人の手元に道具がなければ、計画の実行は難しくなる」


「わかった。任せる」


 電話を切り、段ボールを抱えた。


 六個の練炭は重かった。これを佐藤の部屋で使うつもりだった人間がいる。その事実が腕にのしかかる。


 アパートの階段を下りながら、周囲を見回した。


 住宅街は静かだった。洗濯物を干している主婦の姿が見える。犬の散歩をしている老人がいる。自転車に乗った学生が通り過ぎていく。どこにでもある昼下がりの風景。不審な人影はない。


 だが、俺はたぶん見られている。


 台本を送り、黒猫を配置し、練炭を届けた。犯人は佐藤の周囲で活動している。俺が佐藤の部屋に来ていることも把握しているだろう。


 練炭を処分する場所を考えながら歩く。自分のアパートに持ち帰るのは嫌だった。近くのゴミ捨て場に出すわけにもいかない。練炭は燃えるゴミでも燃えないゴミでもない。粗大ゴミの扱いになるかもしれないが、手続きをしている余裕はない。


 結局、駅の近くのホームセンターに寄り、店員に「不要な練炭を引き取ってもらえないか」と相談した。怪訝な顔をされたが、引き取ってもらえた。


 これで台本の一部は無効化された。


 だが犯人が練炭を追加で入手するのは難しくない。ホームセンターに行けば誰でも買える。現金で買えば足もつかない。


 俺がやっているのは応急処置に過ぎない。


 根本的な解決策は、犯人を特定し、計画を阻止することだ。


 三鷹駅に戻り、中央線に乗った。揺れる車内で遺書を読み返す。


 予言の部分をもう一度確認する。


 一日目、黒き猫。

 二日目、友人からの贈り物。


 三日目の記述は、こうだった。


 三日目、すべてが整い、静寂の幕が上がる。赤い糸が渡し守の船を岸辺に繋ぎ止め、永遠の旅路が始まる。


 また赤い糸だ。


 遺書の中で赤い糸という言葉は二回出てくる。最後の「赤い糸で縁を結び、永遠の眠りにつく」と、三日目の予言のこの一文。


 二つの文に共通しているのは、赤い糸が何かを固定する、あるいは繋ぎ止めるという意味合いで使われていることだ。


 渡し守の船を岸辺に繋ぎ止める。


 船を岸に繋ぐのはロープだ。紐であり、糸であり、縄である。


 封筒に同封されていた赤い紐。あの紐が、遺書の中で繰り返される赤い糸と連動しているのだとすれば。


 あの紐は、トリックに使われる道具そのものなのではないか。


 仮説が一つ、形を成し始めていた。


 だがまだ、証明には程遠い。


 帰宅後、俺はノートパソコンを開いた。


 検索するのは「サムターン回し」「糸」「紐」「外部施錠」。


 一つの可能性を確かめるために。



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