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台本の中身

 遺書を持ったまま、俺は新宿の西口で佐藤を待っていた。


 二月の夜風は骨まで染みる。コートのポケットに手を突っ込み、背中を丸めて人混みの端に立っている。茶封筒はトートバッグの中に入れてきた。コピーを取ろうかとも思ったが、コンビニのコピー機に遺書を置く気にはなれなかった。


 七時五分。佐藤は遅刻する男ではない。


 案の定、ちょうど七時に駅の改札から出てきた。


 グレーのチェスターコートに黒いマフラー。IT企業の社員にしては身なりが良い。昔からそうだった。大学時代もバイト代の大半を服に使っていたのを思い出す。


「河瀬。久しぶりだな」


 佐藤(さとう)大輝(だいき)は笑いながら手を上げた。


 半年ぶりに見る顔だった。相変わらず肌の色艶がよく、目に力がある。少なくとも、自殺を考えている人間の顔ではなかった。


「飯食いながら話すか?」


「いや、先にこれを見てくれ」


 俺は佐藤を駅ビルの脇にある喫煙所の近くの人気のない場所に引っ張り、バッグから茶封筒を取り出した。


「これが今日、俺んちに届いた」


 佐藤が封筒を受け取り、裏面を見る。自分の名前が書いてあるのを見て、怪訝そうに眉をひそめた。


「俺の字だな、これ。でも書いた覚えがない」


「中を見ろ」


 佐藤が封筒から便箋を引き抜いた。


 一枚目の「遺書」という文字を見て、佐藤の動きが止まった。数秒、その文字を見つめてから、ゆっくりと次のページをめくる。三枚目、四枚目。読み進めるうちに、佐藤の目つきが変わっていった。


「何だこれ」


 低い声だった。佐藤がこういう声を出すのは珍しい。


「お前の筆跡に見えるんだが」


「俺の字だ。間違いない。でも、こんなもの書いていない」


 佐藤は便箋を最初からもう一度読み返した。周囲を行き交うサラリーマンたちの誰も、俺たちのやりとりに気づいていない。


「練炭自殺の手順書だ。自分の部屋で。日付は三日後」


「ああ。読めばわかる」


「悪質なイタズラだな」


 佐藤はそう言って、便箋を封筒に戻した。封筒を俺に返そうとする。


「捨てとけよ、こんなもん」


「待て。お前、最近何か変わったことはないか」


「変わったこと?」


「例えば、誰かにつきまとわれてるとか。職場でトラブルがあるとか」


 佐藤は少し考えるような顔をした。それから、首を横に振る。


「特にないな。仕事は忙しいけど、いつも通りだ」


 だが、電話で佐藤が言っていたことが引っかかっていた。


「電話のとき、誰かの視線を感じるって言ってなかったか」


「ああ、あれか」


 佐藤はコートのポケットに手を入れた。


「ここ二週間くらいかな。駅から家までの帰り道で、後ろから誰かに見られてる気がするんだよ。振り返っても誰もいないんだけど」


「気のせいだと思うか」


「たぶんな。残業続きで疲れてるだけだろ」


 佐藤は肩をすくめた。


 俺には、そうは思えなかった。


 遺書が届き、視線を感じている。この二つが無関係だとは思えない。


「とりあえず飯にしよう。話はその間にする」


 佐藤に促されて、駅近くの居酒屋に入った。


 カウンター席に並んで座り、生ビールを注文する。乾杯はしなかった。そんな気分ではなかった。


 俺は改めて遺書の内容を佐藤に説明した。自分がカロンの郵便受けの記事を書こうとしていたこと。遺書が届いたタイミングの不自然さ。遺書の内容が「感情」ではなく「手順」であること。


「つまり、お前はこれがイタズラじゃなくて、本物の犯行予告だと言いたいのか」


「本物かどうかはわからない。だが、少なくともイタズラにしては手が込みすぎている」


「お前の字を真似るのは難しくない。ゼミの仲間なら佐藤の字を見たことがある奴はいるだろう。だが、練炭自殺の手順を克明に書き上げて、三日後の日付を入れて、俺の元に届ける。そこまでやる動機がある人間が、お前の周りにいるか」


 佐藤はビールのジョッキを手に取ったまま、しばらく黙っていた。


「いない、と思う」


「思う、か」


「少なくとも、心当たりはない」


 枝豆を一つ口に放り込む。佐藤の表情は平静を装っているが、目線が落ち着かない。気づいていないふりをした。


「遺書の中身について、もう少し話させてくれ」


「ああ」


「手順書の部分は理解できる。部屋の窓を閉める、目張りする、練炭を設置する。自殺を偽装するなら、そういう段取りを書いておくのは理にかなっている。だが、最後の一行だけ浮いてるんだ」


「最後の一行?」


「赤い糸で縁を結び、永遠の眠りにつく」


 佐藤が顔をしかめた。


「何だそれ。俺、そんなポエムみたいなこと書かないぞ」


「だろうな。だからこそ気になる」


 俺は封筒の中に入っていた赤い紐を見せた。テーブルの上に置くと、紐は緩やかな弧を描いて横たわった。


「これも同封されていた」


 佐藤が紐を手に取る。指で弾くように質感を確かめている。


「お守りの紐みたいだな」


「そう思った。だが、遺書と一緒に入れる意味がわからない」


「嫌がらせじゃないか。気味悪がらせるための小道具だろ」


 佐藤の解釈はある意味で正しいかもしれない。だが、俺の中では別の仮説が芽生え始めていた。


 遺書は手順書だ。自殺に見せかけた殺人を実行するための。


 だとしたら、この赤い紐にも何か役割があるのではないか。


 まだ確証はない。だが、遺書の最後の一行と、この紐は関連している。俺にはそう思えた。


「佐藤。念のため聞くが、お前の部屋の鍵はどういう構造だ」


「構造? 普通だよ。サムターンの錠前が一つと、チェーンロックが一つ」


「オートロックは?」


「ない。築年数を考えろ。俺の部屋は安アパートだぞ」


「サムターンは内側から回すタイプだよな」


「当たり前だろ。外からは鍵で開ける。内側からはつまみを回す。どこの賃貸もそうだ」


 サムターン。内側のつまみを回して施錠するタイプの鍵。


 遺書には「部屋の鍵を閉める」と書いてあった。自殺ならば、内側からサムターンを回して施錠するのは当然だ。だが、もしこれが殺人なら、犯人は外から鍵をかけなければならない。


 外からサムターンを回す方法。


 それが、現時点の俺の最大の疑問だった。


「なあ河瀬」


 佐藤が俺を見た。いつもの陽気な顔に戻っている。


「お前、本気で心配してるのか?」


「当たり前だ」


「ありがとな。でも大丈夫だよ。俺は死なない」


 佐藤は笑った。いつもの笑い方だった。くしゃっと目を細めて、口角を上げる。


「死ぬ理由がないしな」


 そうだ。佐藤には死ぬ理由がない。


 だからこそ、この遺書は本人が書いたものではない。


 誰かが佐藤の筆跡を完璧に模倣し、佐藤の名前で遺書を作成し、三日後に佐藤が死ぬ状況を描写した。


 そして、それを俺に届けた。


 これは遺書ではない。


 殺人計画の台本だ。


「佐藤。三日後まで、少し用心してくれ」


「用心って何をするんだ」


「知らない人間を部屋に入れるな。宅配は受け取らなくていい。夜道は気をつけろ」


「大げさだな」


「大げさじゃない。俺を信じろ」


 佐藤はしばらく俺の顔を見つめてから、小さく頷いた。


「わかった。お前がそこまで言うなら、気をつけるよ」


 居酒屋を出たのは九時を過ぎた頃だった。


 駅の改札で佐藤と別れる。佐藤は中央線で三鷹方面へ。俺は丸ノ内線で荻窪方面へ。


 電車の中で、もう一度遺書を読み返した。


 手順が異常に具体的だった。部屋のどの窓から目張りするか、ガムテープの色まで指定されている。練炭の量、設置場所、火のつけ方。まるで実際に佐藤の部屋を見た人間が書いたかのような詳細さだ。


 つまり、この台本を書いた人間は、佐藤の部屋に入ったことがある。


 友人か、同僚か、恋人か。


 佐藤の周辺に、殺意を抱く人間がいる。


 そして、その人間はわざわざ俺に台本を届けた。


 なぜだ。


 殺人を計画しているなら、黙って実行すればいい。事前に手の内を明かす理由がない。


 それとも、これは俺への挑戦状なのか。


 三日以内にこの台本を読み解いてみろ、という。


 電車が荻窪駅に着く。改札を出て、冬の夜道を歩く。


 アパートに帰ると、部屋は出ていった時と変わらなかった。ノートパソコンの画面は暗くなっている。コーヒーカップが冷えたまま放置されている。


 デスクに座り、便箋を広げた。


 赤い糸で縁を結び、永遠の眠りにつく。


 この一行の意味を、何としてでも解読しなければならない。


 三日後。佐藤が死ぬ前に。



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