カロンの郵便受け
ネット上にはいくつもの都市伝説がある。
怪談を集めるサイト、消えた村の座標を記録するデータベース、深夜にだけアクセスできる掲示板。そのほとんどは暇を持て余した誰かの創作で、真に受ける人間はそう多くない。
けれど、ひとつだけ妙に生々しい噂があった。
『カロンの郵便受け』
それは、人が死ぬ三日前にその人間の遺書が届くという、正体不明のサイトだった。
届け先は故人の知人。届く形式は電子メールだったり、実際の郵便だったり、ときにはSNSのダイレクトメッセージだったりすると言われている。共通しているのは、届いた遺書の内容が、三日後に起きる死の状況と完全に一致するということ。そして、届いた時点ではまだ差出人は生きている。
俺がこの都市伝説を知ったのは、フリーライターとして都市伝説系のウェブ記事を書いていたからだ。
河瀬奏太。二十五歳。職業、フリーライター。と言えば聞こえはいいが、実態はウェブメディアに記事を納品して糊口を凌ぐ日雇いのようなものだ。得意ジャンルはオカルトと未解決事件。つまり、食えないジャンルの筆頭である。
二月の東京は底冷えがする。
築三十年の木造アパートは断熱材など名ばかりで、エアコンを全開にしても窓際のカーテンがわずかに揺れるのは隙間風のせいだ。六畳一間の部屋に置かれたデスクの上で、ノートパソコンの画面が白く光っている。
締め切りは明日。テーマは「実在する呪いのサイト五選」。三千字の記事に対する報酬は五千円。時給換算すると考えたくない数字になる。
四本目の記事に『カロンの郵便受け』を取り上げようとしていた。
資料として集めたスクリーンショットやまとめサイトの情報を読み返す。目撃証言、と呼べるほど具体的なものはない。あるのは匿名掲示板への書き込みと、数件のブログ記事。どれも「友人の友人が受け取った」という、伝聞の伝聞ばかりだ。
裏が取れない。記事にするには弱い。
コーヒーを淹れようと立ち上がったとき、玄関のほうで小さな音がした。
カタン、と郵便受けの蓋が閉じる音。
時計を見ると午前十一時過ぎ。郵便配達にしては中途半端な時間だ。
気にはなったが、まずはコーヒーだった。インスタントの粉をマグカップに入れ、電気ケトルで沸かした湯を注ぐ。安い粉末の匂いが鼻をつく。砂糖は切らしていたので、ブラックのまま一口すする。
苦い。
マグカップを持ったまま玄関に向かう。ドアの郵便受けから封筒が半分だけ顔を出していた。
分厚い茶封筒だった。
角形二号。A4サイズの書類がそのまま入る封筒で、パンパンに膨らんでいる。表面にはボールペンの手書きで俺の住所と名前が記されていた。
切手は貼られていない。消印もない。
誰かが直接、この郵便受けに入れていったということだ。
裏面を確認する。
差出人の欄に書かれた名前を見て、コーヒーが食道の途中で止まった。
佐藤大輝。
大学時代の親友だった。
俺と佐藤が出会ったのは、大学一年の春だった。
同じ文学部の同じゼミ。俺が暗い話ばかり読みたがる陰気な人間なら、佐藤は教室に入ってくるだけで空気が明るくなるような男だった。声が大きくて、笑顔が派手で、人懐っこい。正反対だからこそ妙に馬が合った。
卒業後、俺はフリーライターになり、佐藤は中堅のIT企業に就職した。最初のうちは月に一度くらい飲みに行っていたが、次第に間隔が開き、去年あたりからは年に数回、LINEでやりとりする程度になっていた。
疎遠、という言葉がぴったりだった。
その佐藤から封筒が届いた。しかも手渡しで。
俺の住所を知っているのだから不自然ではない。だが、わざわざ封筒を持ってくるくらいなら、チャイムを鳴らして顔を出せばいい。
嫌な予感がした。
封を切る。
中には十数枚の便箋が入っていた。万年筆のインクで、びっしりと文字が書き連ねてある。几帳面で癖のない字。間違いなく佐藤の筆跡だった。佐藤は昔からデジタルより手書きを好む男で、ゼミの発表資料すら手書きで持ってきたことがある。
便箋の一枚目に、こう書かれていた。
遺書
一瞬、冗談かと思った。佐藤が悪ふざけでこんなものを書くはずがない。あいつはそういう人間ではなかった。
だが便箋を一枚めくると、そこには日付が記されていた。
二月十九日。
今日は二月十六日だ。
三日後。
手が震えた。座り込むようにしてデスクの椅子に腰を落とし、便箋を読み始めた。
遺書の内容は、驚くほど具体的だった。
まず冒頭に、これが自分の意思による記述であること、誰にも強制されていないことが宣言されている。次に、簡潔な経緯。仕事のストレス、将来への不安、漠然とした絶望感。どれも曖昧で、佐藤という人間からは想像もつかない言葉が並んでいた。
問題はその先だった。
便箋の三枚目から、遺書の文体が一変する。
それは自殺の手順書だった。
場所は自分の部屋。方法は練炭による一酸化炭素中毒。窓を閉め、隙間をガムテープで目張りし、浴室に練炭を設置する。ドアの内鍵をかけ、チェーンを外し、携帯電話の電源を切る。
手順が一つひとつ、箇条書きではなく文章として綴られていた。まるで誰かに読ませるために、理解させるために書かれた文章だった。
おかしい。
遺書というものは、残された人間への最後の言葉であるべきだ。感謝か、謝罪か、あるいは恨みか。いずれにしても、死に方の手順書ではない。
佐藤の遺書には、感情がなかった。
あったのは、密室を作るための精密な手順だけだ。
まるで、台本だ。
俺は『カロンの郵便受け』の記事を書こうとしていた。死の三日前に遺書が届く都市伝説。そして今、俺の手元には、三日後の日付が記された親友の遺書がある。
偶然にしては出来すぎている。
だが、佐藤がこんなものを書く理由がない。あいつは自殺などする人間ではない。大学時代、合コンで空振りしても試験に落ちても、あいつは笑っていた。くよくよするのは性に合わない、が口癖だった。
遺書の最後のページに、一行だけ浮いた文章があった。
赤い糸で縁を結び、永遠の眠りにつく。
意味がわからなかった。自殺の手順を淡々と記述してきた文章の最後に、なぜこんな詩的な一文が紛れ込んでいるのか。
茶封筒の中にはもうひとつ、小さなものが入っていた。赤い細紐。お守りか何かについていたような、短い紐だった。長さは三十センチほど。紐の両端が結ばれて輪になっている。
遺書と赤い紐。
嫌な組み合わせだった。
俺はスマートフォンを手に取り、佐藤の番号を呼び出した。コール音が鳴る。一回、二回、三回。四回目で繋がった。
「もしもし」
拍子抜けするほど明るい声だった。背景に電話の着信音やキーボードのタイプ音が聞こえる。職場からだろう。
「佐藤、今大丈夫か」
「河瀬? 珍しいな、お前から電話なんて。どうした」
「お前、今日俺んちに何か届けたか」
少しの沈黙。
「届けた? 何を?」
「封筒だよ。茶封筒。お前の名前が書いてある」
「知らない。この一週間、お前の家の近くにすら行ってないぞ」
声に嘘の気配はなかった。佐藤は嘘が下手だ。顔を見なくても、声を聞けばわかる。
「中身は何だったんだ?」
「それなんだが、直接会って話したい。今日、仕事終わったら時間あるか」
「まあ、あるけど。急にどうした。怖い顔してそうだな、お前」
「笑い事じゃない。いいから、夜七時に新宿の西口で待ってろ」
「わかった。じゃあ、またな」
電話を切った。
佐藤は何も知らない。少なくとも、電話の声からはそう感じた。
だとすると、この封筒を俺の郵便受けに入れたのは誰だ。
佐藤の筆跡で、佐藤の名前で遺書を書き、佐藤本人に知らせず俺に届ける。
誰が。何のために。
視線がデスクの上に戻る。ノートパソコンの画面には、カロンの郵便受けについてのメモが表示されたままだった。
死の三日前に遺書が届くサイト。
佐藤の遺書に記された日付は三日後。
俺は都市伝説のことを記事にしようとしていた。そして、まるでそれに応えるように、現実の遺書が届いた。
これが偶然だとしたら、あまりにもタイミングが良すぎる。
そして偶然でないとしたら。
誰かが俺に、この遺書を読ませたかった。
俺に読ませて、どうさせたかったのか。
便箋をもう一度手に取る。手のひらの汗で紙の端が少し湿っていた。
遺書を、最初から読み直す。
一行も読み飛ばさないように。一文字も見逃さないように。
この台本の中に、何かが隠されている。
俺はまだ、その何かが何なのかわかっていなかった。




