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午後の魔法茶

作者: 山太郎

午後の魔法茶


ユリアは午後三時の魔法喫茶で、いつも同じものを注文する。魔法茶、ホット、砂糖なし。窓際の席に座って、魔導書を開く。文字は頭に入ってこない。ページをめくる手が震えている。


彼が来るまで、あと五分。


外では魔法都市の午後が流れている。石畳の通りを竜車が走り、商人たちが魔法道具を並べ、冒険者たちが酒場へと消えていく。活気に満ちた風景。でもガラス越しに見るそれは、ユリアには別世界の出来事のように思えた。


ユリアは契約結婚して五年目の専業魔法使いだった。夫は王都の大商会で魔法道具の貿易を扱う。立派な石造りの家。使用人が二人。魔法具の揃ったキッチン。傍から見れば、何不自由ない生活。


子どもはまだいない。


最初の二年は、夫もユリアも「もう少し二人の時間を楽しもう」と言っていた。三年目からその話題は消えた。夫が家にいないからだ。朝は六時に出勤し、帰宅は深夜。休日も商談で家を空ける。


会話は週に数回。それも「今夜は遅くなる」「洗濯の魔法、頼む」といった連絡事項だけ。


四年目から、二人は別々の寝室で寝るようになった。夫が「遅く帰るから、君を起こしたくない」と言い出したのがきっかけだった。ユリアは反対しなかった。むしろ安心した。夫と同じベッドで寝ることが、いつからか重荷になっていたから。


ユリアは転生者だった。


元の世界では三十歳の専業主婦で、夫の浮気が原因で離婚を考えていた矢先、交通事故で死んだ。気づいたらこの異世界で、十五歳の貴族の娘として生まれ変わっていた。


最初は戸惑った。魔法が使える世界。竜が空を飛び、魔獣が森に潜む世界。でも十年が経ち、ユリアはこの世界に順応した。魔法学院を卒業し、商会の御曹司と見合いをし、契約結婚をした。


前世の記憶があるからこそ、ユリアは慎重だった。見合いの席で相手に聞いた。「私を愛していますか」と。


男性は正直に答えた。「愛ではなく、尊敬と信頼の結婚にしたい」と。


それでいいと思った。前世の夫は「愛してる」と言いながら別の女性と寝ていた。なら最初から愛のない契約結婚の方が、裏切られることもない。


でもユリアは気づいていなかった。愛のない結婚には、裏切りがないかわりに、温もりもないということに。


結婚して四年目、ユリアは毎日家で一人だった。使用人と交わす言葉以外、人と会話することがない日もあった。魔法学院時代の友人たちは、それぞれ子育てや仕事に忙しく、連絡を取り合うこともなくなった。


壁が迫ってくるような息苦しさ。


ユリアは週に三回、この魔法喫茶に通うようになった。喫茶店の雑踏の中で、一人で魔法茶を飲む。それが唯一の外出だった。


三ヶ月前、この魔法喫茶でユリアは偶然、魔法学院時代の同級生に会った。


ケイン・アルトリウス。


当時、ユリアが密かに想いを寄せていた相手。学院一の秀才で、卒業後は王立魔法研究所に勤めていた。背が高く、知的な雰囲気を持つ男性。でもユリアは前世の記憶があるせいで、この世界の十代の男子に恋心を抱くことに躊躇いがあった。精神年齢は三十過ぎなのに、十代の少年を好きになるのは後ろめたかった。


だから告白できないまま卒業し、それから十年、連絡を取っていなかった。


「ユリア? 久しぶりだな」


ケインの声は昔と変わっていなかった。少し低く、落ち着いた声。


十年の歳月がケインを大人の男性に変えていた。学院時代の面影は残っているが、表情には深みがあり、目には疲れが見えた。


「ケイン……本当に久しぶり」


二人は同じテーブルに座った。天気のこと、魔法学院時代の思い出、お互いの近況。


「結婚したんだ」とケインが言った。左手に契約の指輪が光っている。


「私も」


「幸せ?」


ユリアは答えに詰まった。幸せという言葉の意味がわからなくなっていた。


「わからない。あなたは?」


ケインは苦笑した。


「わからない。妻は魔導書の編集者で、いつも忙しくしている。家にいても仕事のことばかり考えてる。俺も研究で忙しくて、二人でまともに話すことが減った」


ユリアは頷いた。


「妻とは契約結婚なんだ」とケインが続けた。「お互い仕事を優先したかったから、恋愛結婚じゃなく、パートナーシップとしての結婚を選んだ。でも最近、これでよかったのかって思う」


「どういうこと?」


「孤独なんだ。妻の隣にいても、一人でいる気がする。普段は本当に忙しくて、俺も気にならない。でもふと、夜中に目が覚めた時とか、耐えられなくなる」


その言葉がユリアの胸に刺さった。


「私も同じ。夫は優しいけど、私に興味がない。私が何をしていても気にしない」


ケインはじっとユリアを見つめた。


「ユリアも、転生者?」


ユリアは息を呑んだ。


「なんで……」


「今の言い方。それに、学院時代から思ってた。ユリアは他の生徒と違う雰囲気があった。俺と同じ、この世界の住人じゃない感じが」


沈黙。


「俺も転生者なんだ」とケインが言った。「元の世界では三十五歳のシステムエンジニアだった。過労で死んで、気づいたらこの世界にいた」


「私も。元の世界では主婦で、事故で死んだ」


二人は顔を見合わせて、笑った。やっと同じ言葉を話せる相手に出会えた安堵の笑い。


それから二人は三時間も話し込んだ。元の世界のこと。転生した時の戸惑い。この世界での生活。誰にも言えなかった孤独。


「また会える?」


ケインがそう言ったとき、ユリアの心臓は激しく鳴った。


「毎週火曜日、ここに来てる。午後三時に」


「じゃあ、俺も来る」


それから二人は毎週火曜日の午後三時にこの魔法喫茶で会うようになった。最初は本当に魔法茶を飲んで、話をするだけだった。元の世界の記憶。スマートフォン、インターネット、電車、コンビニ。この世界の誰にも通じない話題を、二人は懐かしそうに語り合った。


「ラーメンが食べたい」とケインが言った。


「わかる。この世界の麺料理も美味しいけど、違うんだよね」


他愛のない会話。でもユリアにとって、それは何年ぶりかの心からの笑いだった。


五回目の火曜日、ケインが言った。


「ユリア、俺、学院時代から君のこと好きだったんだ」


ユリアは息を止めた。


「でも、君には近寄りがたい雰囲気があった。今思えば、それが転生者特有の、精神年齢の高さだったんだろうな」


「ケイン……」


「今さらこんなこと言うのは卑怯だと思う。でも、もう隠せない」


ユリアの目に涙が浮かんだ。


「私も。学院時代、あなたのことが好きだった」


ケインは手を伸ばし、ユリアの手を握った。


「宿屋、行かないか」


その瞬間、ユリアの中で何かが壊れた。自分が守ろうとしていた最後の一線。でも同時に、それはユリアが待っていた言葉でもあった。


「……うん」


宿屋の部屋は質素だが清潔だった。ベッド、テーブル、椅子。


ケインがユリアを抱きしめた。十年越しの想い。


服を脱ぐ手が震える。ケインも、ユリアも。


「本当にいい?」


「うん」


ケインに抱かれながら、ユリアは涙が出そうになった。それは罪悪感からではなく、自分がまだ女性として求められることへの安堵だった。夫はもう何ヶ月もユリアに触れていない。別々の寝室になってから、夫婦としての営みも自然消滅していた。


「ユリア……」


ケインが名前を呼ぶ。その声には愛情が込められていた。


でもユリアの心は、完全には満たされなかった。快楽はあった。温もりもあった。でもその奥に、どうしようもない空虚感が残っていた。


これは愛なのか。それとも、孤独を埋めるための行為なのか。


事が終わった後、二人は並んでベッドに横たわった。


「私たち、これからどうなるの」


ケインは天井を見つめたまま答えた。


「わからない。でも、俺は君と会い続けたい。それが不倫だとしても」


「妻と別れる気は?」


「……ない。妻とは、仕事仲間みたいなものだから。でも、関係を壊す理由もない」


正直な答えだった。ケインは妻を愛していないが、別れる理由もない。


「私も、夫と別れる気はない」


「じゃあ、俺たちは……」


「毎週火曜日だけ、会う。それでいい」


それから毎週、二人は午後三時に魔法喫茶で会い、四時には宿屋にいた。六時には解散。ユリアは市場で夕飯の材料を買い、家に帰る。夫が帰宅するのは十時過ぎ。その頃にはユリアはすでに浄化魔法の風呂に入って、ケインの匂いを洗い流している。


浄化魔法は便利だった。身体を清め、匂いを消し、疲れを取る。


でも、心の汚れまでは消せなかった。


火曜日だけが、ユリアの生きる理由になった。月曜日は、明日ケインに会えると思って過ごす。水曜日から日曜日は、次の火曜日を待つ。


ユリアの生活は、火曜日を中心に回り始めていた。


三ヶ月目のある火曜日。


ユリアは午後三時、いつもの席で待っていた。窓際のテーブル。目の前には砂糖なしの魔法茶。湯気が立ち上り、消えていく。


三時五分。ケインは来ない。


三時十分。まだ来ない。


ユリアは魔法通信石を取り出した。画面には何も表示されていない。メッセージを送ろうかと迷ったが、やめた。焦っているように見えたくなかった。


三時十五分。


魔法通信石が光った。


「ごめん、今日は行けなくなった。妻が急に休みになって、一緒に出かけることになった。妻も普段忙しいから、たまの休みは大事にしたい」


ユリアは魔法通信石を握りしめた。画面の文字がぼやけて見えた。


指が震える。返信を打とうとして、何度も文字を消した。


「わかりました。また来週」


そう返信して、ユリアは魔法通信石をテーブルに置いた。


目の前の魔法茶を見つめる。湯気はもう出ていない。冷めかけている。


ユリアはカップを手に取り、一口飲んだ。


砂糖なしの魔法茶は、今日は特に苦く感じた。


喉を通る液体が、まるで毒薬のように思えた。


窓の外を見た。魔法都市の午後。人々が行き交い、竜車が走り、魔法の光が街を彩る。


若いカップルが笑いながら飛行魔法で空を飛んでいる。男性が女性の手を取り、二人で宙を舞う。女性の笑い声が、ガラス越しに微かに聞こえた。


ユリアは、自分と夫もあんな時期があったかと記憶を辿った。


いや、なかった。最初から、契約だけの関係だった。


隣のテーブルでは、老夫婦が静かにお茶を飲んでいる。会話はほとんどないが、時折目を合わせて微笑み合う。長年連れ添った者同士の、言葉のいらない親密さ。


ユリアは目を逸らした。


別のテーブルでは、母親が幼い娘に魔法の絵本を読み聞かせている。娘が嬉しそうに笑い、母親が髪を撫でる。


ユリアはまた目を逸らした。


喫茶店の中は、幸せな人々で溢れていた。いや、幸せそうに見える人々で。


ユリアだけが、一人で、冷めた魔法茶を飲んでいた。


もう一口飲む。苦い。


もう一口。さらに苦い。


カップが空になった。


ユリアはもう一杯注文した。今日は、ケインが来ないから、時間がたっぷりある。


ウェイトレスが新しい魔法茶を持ってきた。


「お客様、お一人ですか?」


「ええ」


「お待ち合わせでしたか?」


「いいえ」


嘘をついた。ウェイトレスは微笑んで去っていった。


二杯目の魔法茶を飲む。やはり苦い。


ユリアは考えた。ケインは今、妻と一緒にいる。どこに出かけたのだろう。市場か。劇場か。それとも郊外の景勝地か。


二人は手を繋いでいるだろうか。笑い合っているだろうか。


ケインは妻に優しくしているだろうか。ユリアにするように、名前を呼んで、髪を撫でて、抱きしめているだろうか。


嫉妬が込み上げてきた。


でも、その嫉妬は妻に向けられたものではなかった。ユリアが嫉妬しているのは、「妻」という立場そのものだった。


ユリアも夫の「妻」だ。でも、夫はユリアを妻として扱っていない。ただの同居人。ただの家政婦。


ケインの妻は、忙しくても、ケインと一緒に出かける時間を作れる。ユリアの夫は、ユリアとの時間を作ろうとしない。


ユリアはケインの愛人だ。でも、愛人としても中途半端だ。ケインは妻を選んだ。ユリアは二番目だ。


妻としても愛人としても、ユリアはどちらでもない。


どこにも居場所がない。


三杯目の魔法茶を注文した。ウェイトレスが心配そうに聞いた。


「お客様、大丈夫ですか? お顔色が……」


「ええ、大丈夫です」


ユリアは微笑んだ。完璧な、社交的な微笑み。前世でも今世でも身につけた仮面。


三杯目を飲み干す。もう味すら感じなかった。


時計を見ると、午後五時。二時間、一人で魔法茶を飲んでいた。


ユリアは代金を払い、魔法喫茶を出た。


外はまだ明るかった。夕暮れ前の、一日で一番美しい時間。魔法の街灯が灯り始め、オレンジ色の光が石畳を照らす。


ユリアは市場に寄った。夕飯の材料を買う。今夜は夫の好物を作ろう。理由はない。ただ、そうしたかった。


魔法肉、野菜、香辛料。いつもより高級な食材を選んだ。


家に帰ると、案の定、夫はまだ帰っていなかった。


ユリアはキッチンに立ち、料理を始めた。魔法で火を起こし、食材を刻み、鍋で煮込む。単調な作業。でも手を動かしていると、少しだけ心が落ち着いた。


包丁で野菜を刻む音。鍋が煮立つ音。それだけが、静かな家に響く。


八時に料理が完成した。テーブルに並べる。魔法で保温の結界を張る。これで何時間でも温かいままだ。


でも夫は帰ってこない。


ユリアはリビングのソファに座り、魔法水晶で映像を見た。内容は頭に入ってこない。ただ時間を潰すためだけに、画面を眺めていた。


九時。十時。


十一時、ユリアは一人で夕飯を食べ始めた。


保温の結界を張っていても、料理は冷めていた。気持ちの問題だった。


一口食べて、箸を置いた。味がしない。


食べ終わった頃、魔法通信石が光った。夫からのメッセージ。


「今夜は商会に泊まる。明日の早朝に重要な会議があるから。悪いな」


ユリアは返信しなかった。


テーブルの上には、夫の好物が並んでいる。誰も食べない料理。誰にも必要とされない料理。


ユリアは立ち上がり、料理を片付け始めた。一皿、また一皿。魔法の冷蔵庫に仕舞う。明日も一人で食べるのだろう。


片付けが終わった後、ユリアは浄化魔法の風呂に入った。


今日はケインと会っていないのに、なぜか身体を清めたくなった。心の汚れを、少しでも洗い流したくて。


湯船に浸かり、浄化魔法を唱える。身体から光が放たれ、汚れが消えていく。


でも、どれだけ魔法をかけても、心は綺麗にならなかった。


風呂から上がり、自分の寝室に向かう廊下を歩く。


足音だけが響く。静かな家。広い家。でも、温もりのない家。


隣の部屋、夫の寝室からは物音一つしない。夫はまだ帰っていない。


自分の寝室のドアを開けようとしたとき、ユリアは魔法通信石を持っていないことに気づいた。


リビングに置き忘れたのか。いや、違う。


浄化魔法の風呂に入る前、いつもは肌身離さず持ち歩いている魔法通信石を、今日に限って寝室のサイドテーブルに置いたままにしていた。ケインからのメッセージに傷ついて、疲れ果てて、つい忘れてしまったのだ。


ドアを開ける。


そして、凍りついた。


夫が、ベッドの脇に立っていた。


手には、ユリアの魔法通信石。


「おかえり」


夫の声は、いつもと変わらなかった。穏やかで、感情の起伏がない声。


「……ただいま。今日は、早かったのね」


ユリアは平静を装った。心臓が激しく鳴っている。


「ああ。会議が中止になってね。珍しく早く帰れた」


夫はサイドテーブルを見た。


「充電しようと思って、手に取ったんだ。魔力が切れかけてたから。そうしたら、メッセージの通知が見えた」


沈黙。


「『また来週』って。誰から?」


ユリアは何も言えなかった。


「答えなくてもいい」夫は魔法通信石をテーブルに置いた。「わかってたから」


「……いつから」


「三ヶ月くらい前からかな。火曜日だけ、君の様子が違った。帰ってくる時間も遅くなった。浄化魔法を使う時間も長くなった」


夫はユリアの横を通り過ぎ、ドアに向かった。


「なんで……何も言わなかったの」


夫は振り返らずに答えた。


「言う権利がなかったから」


「どういうこと?」


「俺も、浮気してたんだ」


ユリアは息を呑んだ。


「商会の同僚と。二年前から。君が気づいてないと思ってた」


「私……」


「でも、君も気づいてなかったんだな。俺のことは」


夫は静かに笑った。自嘲的な笑い。


「俺たち、何してたんだろうな。同じ家に住んで、隣同士の部屋で寝て、でもお互い、別の誰かのことを考えてた」


ユリアは言葉を失った。


「離婚する気はない」と夫が言った。「君もないだろ?」


ユリアは頷いた。


「じゃあ、このままでいいじゃないか。お互い、見て見ぬふりをして。それが、俺たちの契約結婚だ」


夫はドアを開けた。


「ああ、それと」


夫は振り返った。その顔には、何の感情も浮かんでいなかった。


「火曜日、気をつけて。俺は水曜日に気をつけるから」


ドアが閉まった。


ユリアはその場に立ち尽くした。


夫も。夫も、同じだった。


二人とも、孤独を埋めるために、別の誰かを求めていた。二人とも、罪悪感を抱えながら、それでも止められなかった。


ユリアはベッドに倒れ込んだ。


泣けなかった。怒れなかった。ただ、空虚だった。


これが、契約結婚の終着点なのだろうか。お互いが不倫をして、それを認め合って、それでも一緒にいる。


それは、ある種の誠実さなのかもしれない。嘘をつかない。隠さない。ただ、愛もない。


ユリアは天井を見つめた。


魔法茶の苦味が、まだ口の中に残っていた。


翌週の火曜日、午後三時。


ユリアはいつもの席にいた。窓際のテーブル。目の前には砂糖なしの魔法茶。


ケインは来た。


「待たせてごめん」


「ううん、大丈夫」


二人は宿屋に行った。いつものように。


ベッドの上で、ケインがユリアを抱く。


「先週は本当にごめん。妻が急に休みになって」


「いいの。気にしてない」


嘘だった。ユリアは一週間、そのことばかり考えていた。


「ユリア、愛してる」


ケインが囁いた。


ユリアは答えなかった。答えられなかった。


これは愛なのだろうか。


夫に不倫がバレた。でも、何も変わらなかった。夫も不倫をしていた。二人は、お互いの不倫を認め合った。


それなのに、ユリアの心は軽くならなかった。


むしろ、重くなった。


罪悪感があるうちは、まだ良かった。罪悪感は、この関係に意味を与えてくれた。「いけないこと」だからこそ、特別だった。


でも今は違う。


夫に許された不倫。いや、許されたのではない。無視された不倫。


ユリアは、夫にとってどうでもいい存在になった。


「ユリア? どうかした?」


ケインが心配そうに聞いた。


「ううん、なんでもない」


ユリアは微笑んだ。完璧な、仮面の微笑み。


その夜、家に帰ると、夫はすでに帰宅していた。


リビングで、夫は魔法水晶で映像を見ている。


「おかえり」


「ただいま」


二人は、何事もなかったかのように挨拶を交わした。


ユリアはキッチンで夕飯を作った。夫はリビングで映像を見続けた。


夕飯は、二人で食べた。


会話はなかった。


食器が触れ合う音だけが響いた。


食後、夫は書斎に行った。ユリアは皿を洗った。


そして、それぞれの寝室に向かった。


ユリアは自分の寝室のベッドに横たわった。


隣の部屋から、物音は聞こえない。夫が何をしているのか、わからない。


もう、知りたいとも思わなかった。


そんな日々が、二ヶ月続いた。


火曜日にはケインと会う。宿屋に行く。身体を重ねる。


でも、心は満たされない。


ケインが「愛してる」と言っても、ユリアは答えられない。


家に帰れば、夫と無言の夕飯。そして、それぞれの寝室へ。


水曜日の夜、夫は遅く帰ってくる。浄化魔法を長く使っている音が、壁越しに聞こえる。


夫も、誰かと会っているのだ。


でも、ユリアは何も感じなかった。嫉妬も、怒りも、悲しみも。


ただ、虚無だけがあった。


ある日、ユリアは気づいた。


前世で、ユリアは夫の浮気に傷ついた。離婚を決意するほどに。


でも今世では、夫の浮気を知っても、何も感じない。


それは、ユリアも同じことをしているから。


それは、ユリアが夫を愛していないから。


いや、違う。


それは、ユリアが自分自身を愛していないから。


ユリアは、前世でも今世でも、自分を愛していなかった。だから、誰かに愛されることで、自分の価値を確かめようとした。


でも、それは幻想だった。


夫も、ケインも、ユリアを愛していない。


ユリアも、彼らを愛していない。


みんな、孤独を埋めるために、一緒にいるだけ。


それは愛ではない。


依存だ。


浄化魔法の風呂に浸かりながら、ユリアは考えた。


この生活を、あと何年続けるのだろう。十年? 二十年? それとも、死ぬまで?


お互いの不倫を認め合い、それでも一緒に暮らす。会話もなく、温もりもなく、ただ契約だけで繋がっている。


それは、地獄なのか。それとも、これが大人の結婚なのか。


わからなかった。


ただ、魔法茶の苦味だけが、口の中に残り続けていた。


二ヶ月が過ぎた、ある火曜日。


ユリアは午後三時、魔法喫茶にいた。


いつもの席。窓際のテーブル。


でも今日、ユリアは魔法茶を注文しなかった。


テーブルの上には、一枚の羊皮紙が置かれていた。


それは、冒険者ギルドの依頼書だった。


「辺境の村、治癒魔法使い募集。期間:半年以上。報酬:応相談」


ユリアは魔法学院で治癒魔法を専攻していた。卒業後は使っていなかったが、今でも十分に使える。


昨日、市場の帰り道、冒険者ギルドの前を通りかかった。掲示板に貼られた依頼書が、目に留まった。


なぜか、足が止まった。


ギルドに入り、依頼書を受け取った。


一晩、考えた。


そして今日、ユリアはこの依頼書を持って、魔法喫茶に来た。


三時五分。ケインは来ない。


三時十分。まだ来ない。


三時十五分。


魔法通信石が光った。


「ごめん、今日は行けない。妻が体調を崩して、看病しなきゃいけない。本当にごめん」


ユリアは返信しなかった。


代わりに、依頼書を手に取った。


辺境の村。この王都から、飛行魔法で三日かかる場所。


そこには、ケインもいない。夫もいない。この息苦しい生活もない。


ユリアは立ち上がった。


魔法喫茶を出て、そのまま冒険者ギルドに向かった。


「この依頼、受けます」


ギルドの受付嬢が驚いた顔をした。


「貴族の奥様が、辺境の村に? 危険ですよ。魔獣も出ますし、生活も不便で……」


「構いません。いつ出発できますか」


「一週間後に、物資を運ぶ竜車隊が出ます。それに同行していただければ」


「わかりました。では、一週間後に」


家に帰り、ユリアは夫に告げた。


「辺境の村に、治癒魔法使いとして行くことにした。半年くらい」


夫は魔法通信石から顔を上げて、ユリアを見た。


「そうか」


それだけだった。引き止めもしない。理由も聞かない。


「契約は解消しない。ただ、少し離れたい」


「わかった。気をつけて」


夫はまた魔法通信石に視線を戻した。


ユリアはケインにもメッセージを送った。


「しばらく、会えなくなります。辺境に行くことにしました。ごめんなさい」


ケインからの返信は、すぐに来た。


「そうか。寂しくなるけど、ユリアの決断を尊重する。元気でね」


あっさりとした返信だった。


ユリアは少しだけ、拍子抜けした。


でも同時に、安心もした。


自分は、誰にとっても、それほど重要ではなかったのだ。


夫にとっても、ケインにとっても、ユリアは「いてもいなくてもいい存在」だった。


それは悲しいことなのか。それとも、自由ということなのか。


ユリアにはわからなかった。


一週間、ユリアは出発の準備をした。


荷物をまとめる。治癒魔法の魔導書を読み返す。辺境での生活に必要なものを買い揃える。


夫は、何も言わなかった。手伝おうともしなかった。ただ、いつものように仕事に行き、遅く帰ってきて、自分の寝室に消えた。


最後の夜、ユリアは浄化魔法の風呂に長く浸かった。


身体を清める。心を清める。


でも、完全に綺麗になることはなかった。


それでいい、とユリアは思った。


完璧に清い人間なんて、いない。みんな、何かしらの汚れを抱えて生きている。


大切なのは、その汚れをどう受け入れるか。そして、どう生きていくか。


出発の日。


ユリアは竜車駅に立っていた。大きな荷物を一つだけ持って。


夫は見送りに来なかった。ケインも。


誰も、ユリアの出発を見送らなかった。


でも、それでよかった。


竜車に乗り込む。座席に座り、窓の外を見る。


王都の街並みが、遠ざかっていく。


高層の塔。魔法の街灯。賑やかな市場。


そして、あの魔法喫茶。


窓際の席が、小さく見える。


あの席で、ユリアは何ヶ月も、砂糖なしの魔法茶を飲んでいた。


苦い、苦い、魔法茶を。


でも、もうあの席に座ることはない。


すべてが、小さくなっていく。


そして、消えていく。


ユリアは深呼吸をした。


胸の奥に、何かが詰まっていた。それが少しずつ、溶けていくような気がした。


辺境の村で、何が待っているのかわからない。


でも、少なくとも、そこには火曜日の午後三時がない。


砂糖なしの魔法茶もない。


ケインも、夫も、あの息苦しい家もない。


竜車は空を飛んでいく。


ユリアは目を閉じた。


口の中に、わずかに甘みを感じた。


それは、魔法茶の苦味が消えた後の、舌に残る微かな甘さだった。


もしかしたら、それは希望というものかもしれない。


小さな、小さな希望。


ユリアはそれを、大切に口の中で転がした。


そして、窓の外に広がる青い空を見つめた。


前方には、見たこともない景色が広がっている。


山々。森。そして、地平線。


ユリアは、これから自分がどうなるのかわからなかった。


辺境の村で半年過ごした後、王都に戻るのか。


それとも、もっと遠くへ行くのか。


夫との契約結婚を続けるのか。


それとも、いつか解消するのか。


すべてが、わからなかった。


でも、それでいい。


わからないことは、怖くない。


わからないことは、可能性だ。


ユリアは、初めて自分の意志で、何かを選んだ。


前世では、夫に選ばれた。今世では、見合い相手に選ばれた。ケインには、求められた。


でも今回は違う。


ユリアが、自分で選んだ。


この旅を。この未来を。


それは、小さな一歩かもしれない。


でも、確かな一歩だった。


竜車は、空を飛び続ける。


ユリアは、窓に映る自分の顔を見た。


そこには、疲れた顔をした女性がいた。


でも、その目には、微かな光が宿っていた。


それは、何年ぶりかの、希望の光だった。


魔法茶の苦味は、まだ完全には消えていない。


でも、その奥に、甘みがある。


ユリアは、その甘みを信じることにした。


たとえそれが、幻想だったとしても。


たとえそれが、いつか消えてしまうものだったとしても。


今、この瞬間、ユリアは生きている。


自分の意志で、未来に向かって飛んでいる。


それだけで、十分だった。


竜車は、青い空の中を進んでいく。


そして、ユリアの新しい物語が、始まろうとしていた。

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