86 水辺の戯れ
あ~あ、せっかくの夏休みがデルフィのせいで台無しだ。残りあとたった三日になっちゃったよ。もうっ!
散々愚痴ってたらアリエスが湖に誘ってくれた。
「それこそデルフィヌス様が教えて下さったのです。王都のはずれの外壁近くには王室専用の牧場がありその近くには放牧時に水場にする小さな湖があるのですって。殿下ならきっとご許可をくださいますよ。ね、アルやタウルスも誘って気分転換に行きましょう?この何か月本当に色々あったのですから」
「湖…行きたいかも。お兄様は?お兄様は良いって言うかな?」
「ふふ、今ならきっと大丈夫ですよ」
こうしてレグルスのご厚意にあずかり(この世界に)生まれて初めての湖へとやってきたのだ。
王室の管理するこの湖には凶悪な魔物や魔獣は一匹たりとも出てこない。だけど前世で言うところの人魚に似た無害な魔物はほんとうにごくまれに姿を現すことがあるらしい。
騒がなければ危害を加えてこないとても大人しい魔物だから心配いらないよってレグルスは言ったけど…会えるかな?
レグルス…婚約の事はどさくさに紛れてうやむやのまま。
僕の誕生日はくしくも前世と同じ四月四日。
あと八か月…それまでに僕は進路を決めなくてはならない。
まったくなんだってこの世界は結婚とか婚約とかが馬鹿みたいに早いんだろう!貴族の子はほとんどが二十歳までに結婚するんだっていうんだから。
ゲームの時には気にならなかったことが、自分の身に降りかかったとたんに厄介で理不尽な事に思えてくる。
「お兄様どうかなさいましたか?」
「ううん別に」
ブルブル、今日はそんな事忘れていっぱい遊ばなくっちゃ!
「わ!すごくきれい!キラキラしてる!わぁ~い」
「おっ、お兄様お待ちをー!」
「ぐえ」
引っ張られたサスペンダーがパチンってなった!パチンって!
この世界の水着はひざ丈のハーフパンツ。だけど当然お兄様NGが出て、ワンピーススタイルの水着でさえどんなに言ってもダメだった。
だから濡れてもいいように、一番薄いシャツに一番軽いパンツを合わせて、邪魔にならないようベルトじゃなくてサスペンダーで留めてきたのだ。
「何するのアリエス!せっかく飛び込む気マンマンだったのに!」
「飛び込むんじゃないかと思ったからですよ。よしてください。この湖はお兄様が思うよりも深いのです」
「そうだよテオ、浅瀬からいきなりドボンと行くからね。気を付けて。もし溺れたら…」
「溺れたら?」
「助け出して人工呼吸までがワンセットだ」
「…」
全員ドン引きだよレグルス…
さて、湖岸につくとレグルスの従者がお茶や軽食の用意をしてくれる。
そして学院を卒業したケフィウスさんは侍従としてこれからは常にお傍に仕えるんだって。
変な感じ。この間まで会長だったのに。
出来上がったタープの中でレグルスは優雅に書類をめくる。…興覚めだよ。
レグルスに呼ばれたけれどなんだか少し気まずくって…僕は知らん顔して湖を覗き込んだ。
あれ?なんかキラキラしたものがある…あっ、これさっき光ってたやつ。魚のうろこ?
やった!ジローのお土産にしよう!
「…っしょ!」
「テオドール、危ないからやめるんだ」
「危なくないよこれくらい」
「テオそこは駄目だ、って、テオ!」
「ひぁ!」
いきなりドボンね…よく分かった…だけど大丈夫!僕は年中さんから四年生までスイミングスクール通ってたから…って思ったら靴が重くて足が自由に動かせない。
立ち泳ぎみたいな状態でアップアップしてたら両脇から腕が生えてきた。
「こら、慌てたよ。それにしてもテオは湖は初めてだろう?すんなり浮くから少し驚いた」
「えぇー、でも靴が重くて泳げない。レグルス僕を離さないでね」
「離さないとも…決してね」
湖岸では先に上がったレグルスが上から手を引っ張ってくれるけど、ぬかるみで足が滑ってなかなか上がれない…ぬぬ…
「ねぇレグルス、そっちじゃなくて下からお尻押し上げてよ」
「えっ、分か…った。お尻ね…。君がそう言うのなら喜んで…」
なんでそんな神妙な顔?僕はそんなに重たくないから大した労力じゃないってば!
-------------
ずぶ濡れのテオドールは四つん這いになって湖岸に上がる。…参ったな。反則だろうそのポーズは…
テオは自分の容姿にひどく無関心だが、素肌に張り付いた薄いシャツ…彼は自分が今どうなっているのか果たして分かっているのだろうか。
ほら見た事か…全員が息をのんで凝視している。
今この瞬間の光景をただの一秒も見逃さない、そんな気迫さえ感じるほどに。
「…みんな何ジロジロ見てるの?僕の運動神経が悪いって言いたいの?」
「そうじゃな…まぁいい。その前にこれを羽織って。全く君は…なんの自覚も無いのだから質が悪い」
「羽織はいいよ濡れちゃうし。靴脱いだらもう一回入るから」
「お、お兄様…それなら僕がご一緒して…」
「いや、アリエスは泳げないだろう?俺が付いていく…」
「いや、何かあっても俺ならテオを持ち上げられる…」
「いや、どうせすでに濡れた身だ。私が行くのが一番いい。みな下がれ!」
「…醜いですよ、皆さん…」
「まったく…テオドール、ボートに乗せてやるから泳ぐのは諦めるんだ。風邪をひくから着替えておいで」
ケフィウスが動じないのは当然として、デルフィヌス…よくも彼は平気でいられるものだ。ああ、だから彼は『お兄ちゃん』なのか…
それにしても…誰からも煙たがれるあのくどいデルフィヌスの説教を、テオドール、彼は実に律儀に最後まで聞くものだ。
知れば知るほど彼の器はもしや大きいのではないかと思えてきた。
思えば彼はドラブ侯爵による一連の悪しき企みも「へぇー」の一言で片づけたのだ。
あの時ばかりはさすがの私も、嘘だろう⁉と驚愕したものだ。あれほどひどい目にあっておきながら…
だがそんなテオドールでも許せぬことはあるらしい。
ノイラート伯…オピオンの罪を着せかけられたノイラート伯のことだけは「絶対許せない」そう言った。
人々との繋がりを生んだ生薬生成はテオドールの自己証明。
それがあったからこそすべてに耐えてこられたのだし、それを貶められることにテオドールはひどく傷つけられた。
ゾンビウルフに狙われた時より薬を疑われたあの時のほうがテオドールは泣いたのだ。
そんなことを考えていた私の口に甘い干菓子が押し入れられる。
2隻に分かれたボートの中。気がついたら隣にいたテオが私に自作菓子の味見をせがんだのだ。
「これは…?」
「卵ボーロ。いつもみんなが僕のクッキー硬い硬いっていうから柔らかいもの作ってみたの。使役獣の餌用ジャガイモが余っていっぱい捨てられそうでね、もったいないなぁって思ったけどさすがに僕も全部ポテチには出来なかったからすりおろして粘土にしたの。そうしたらなんか片栗粉が出来たから…これでボーロが作れるなって。ねぇどう?どう?美味しい?」
「じゃが…美味しいが…それは奴隷芋のことだろう?テオは奴隷芋の使い方が分かるのかい?」
「奴隷芋って…響きが悪いっ!え?なんで?なんでこの国ではみんなお芋を食べないの?こんなに美味しいのに!」
「奴隷芋の名の由来はね、健康を害しても構わないよう奴隷に与えられた食糧だったからだよ。もっとも昔々のことだけどね。だが今でも芋は時に吐き気をもよおし腹を壊す食材だ。運が悪いと死ぬことさえある。だから食べたりしない。食うに困った人たち以外はね」
「保存と下ごしらえの問題だよ?もったいない…。こんな便利で美味しいお野菜ってばないのに。じゃぁ僕が孤児院の庭で作っても良い?孤児院の子たちなら美味しいって食べてくれるよ?」
「考えておこう。それより芋で『粘土』とは?『片栗粉』って何なんだい?保存と下ごしらえって?ああ、聞きたいことがいっぱいだ」
レッドフォードの神童テオドール。
ふふ、やはりテオはこういう平和な知識を披露しているほうが似合ってる。




