80 レッドフォード家②
「それはたわいもない戯言でした。あり得ないからこそ言える戯言。彼の悲しくも儚い夢に、わたくしとウォルフはただうなずくことしか出来ませんでした」
悲しい夢。自分ではもう何も叶えられなくなったデイヴィッドさんが最後に夢に見たありもしない未来。
「そして回復の兆しが見えぬまま月日が過ぎ、じきに体の自由が利かなくなると悟った彼がある日誰に聞かせるともなくぽつりとつぶやいたのです。『僕は生きた証すら残せなかったな』と。それを聞いたドルフはその夜わたくしに涙ながらに懇願なさいました。「彼の望みを叶えてやりたい。どうか彼の子、生きた証を産んでくれ」と。それでも渋るわたくしに「君は私の味方ではないのか。私には彼の本当の願いを叶えてやれはしなかった。せめてこの最後の願いだけはなんとしてでも叶えてやりたい」そう言って…筆頭侯爵家の領主さまが…わたくしごときに何度も頭を下げられたのです…」
お父様は愛する人の、お母様は消えゆく友の、大事な人の悲しい想いにどうしても耳をふさぐことは出来なかった。
でもでもそれって…
「わたくしはドルフに一つの条件を出しました。もしもディビットが亡くなれば実家は夫を亡くした未亡人など利用価値のある家へといずれ嫁がせることでしょう。だから言ったのです。「デイビッドは大好きな友人でそれ以上でも以下でもない。わたくしが愛するのは子供のころからただ一人、あなただけ」だと。そして「その時がきたらわたくしと結婚してほしい」とも。…ドルフは約束をしてくださいました」
悲しいお願い。お母様はどんな気持ちでその言葉を口にしたのだろう…
「その当時私は見込みのないデイビッドの病状に自棄酒をあおる日々が続いていた。そして自分から望んでおきながら彼がヴィクトリアと同衾することに強い憤りを感じていた。その時だ。アリエス、お前の母と共寝をしたのは。今思えば馬鹿な真似だ。自暴自棄だったのだよ」
目を見開いてアリエスが息を詰める。目の前でこんな告白を聞くアリエスはきっと複雑な気持ちだろう…。だけどその自暴自棄がなかったら今ここにアリエスは居ないんだ。
「わたくしはディビットと形ばかりの婚姻を結びテオドールを無事孕みました。ですが、デイビッドは…テオドールの顔を見ることは叶わず…亡くなりました」
儚く悲しいテオドールのお父さん。せめて一目息子に会えたらよかったのに…
「不幸とはかくも続くものか…。その後領地では落馬で母が亡くなり、相次いで大切な者を亡くし私はついに生きる希望を失っていた。領地には当時まだ健勝だった父が居た。跡継ぎならばサディはハインリヒを残してくれた。私を現世に引き留めるものは何も無い。そう心を決めたまさにその時…デイビッド亡きあと実家で静養していたヴィクトリアがテオドールを抱いてやってきたのだ」
「ドルフが何をしようとしていたか、それはその目をみれば一目瞭然でした。光を失いうつろな目をしたドルフにわたくしは言いました。「約束を果たしてもらわねば困る」と。そして「わたくしが貴方の代わりに彼の望みを叶えたように、貴方も彼の代わりに、テオドールとハインリヒ…彼の夢の続きを見届けなくてはならない」と申しました。滅茶苦茶な話でしたがわたくしの言葉はドルフにとって新たな生きる理由になり…そうしてわたくしたちは婚姻を結んだのです」
「まだ幼子のテオドールはそれでもデイビッドの面影を宿しておった。だが…次第に似てくるテオドールを…私は見るのが耐え難くなり…王都の屋敷を彼女に任せ早々に領地へと引き籠ったのだ」
ああだから…。全てのことがストンと胸に下りた。
お父様が王都邸に不在なことも、僕が領地に呼ばれないことも、会いにも来ない僕の健康だけ妙に気にかけていたことも、目を細めたあの視線の意味も。
「あの屋敷は辛い気持ちばかりを思い出させる。私は領地に戻り、まだ元気だった彼と過ごした若き日々、それだけをよすがにこれまで過ごしてきた。だがテオドールとハインリヒが結ばれるその時を私は見届けねばならない。ハインリヒがテオドールにひかれていったのは実に幸いだった。…これも血のなせる業か…」
お父様から投げられた視線をお兄様は苦々しく逸らす。
なんてことだ。今この場で一番平常心なのが僕だなんて。
だってしょうがない…僕にとってはこんなのほとんどサウンドノベルみたいなもの。
僕にとっての父子の絆は前世の家に置いてある。
これはテオドールの背負った物語だ。
「わたくしはドルフから王都の屋敷、そしてハインリヒの教育を任されました。ハインリヒにはサディ様の記憶が無い。おかげでとても慕ってくれました。わたくしは旦那様と亡くなられた奥様の為、ハインリヒとこの家門を必ず守ると固く心に誓ったのです」
「だから何を犠牲にしてもレッドフォードを、ハインリヒを優先したのだね」
「ええ殿下。そしてアリエス、無体な真似をごめんなさいね。ですがわたくし例え身体だけでもドルフと結ばれたあなたの母が憎かった。わたくしとドルフの間に横たわるのは清い友情。わたくしはあなたの母を嫉んだのです…」
お母様がアリエスを憎む理由がやっとわかった。
それはアリエスのせいじゃないけど…行き場のない怒りをぶつけるその先がアリエスという存在だったんだ。
じっと話を聞いていたアリエスは震える手で鞄から小さな箱を取り出すとそのリボンを解いて中身を出した。
「…あのお父様、これを。これは庭のサネカズラの木の根元で見つけたのです。彼のものではありませんか?」
「これは…これは私がデイビッドにあげた虹水晶…!虹水晶は希望という名の別名を持つ。彼を元気づけようと工房で作り…手渡したのだ。その指は既に恐ろしいほど細く指輪は簡単に抜けてしまったが…幸せそうに微笑んだあの日の彼を私はまだ…まだ鮮明に覚えている…」
お父様の頬を伝う一筋の涙。アリエスまで一緒に涙を流している。
「サネカズラの赤い実は滋養に良いって言われてる。…もしかしてお父さんの為に?」
離れの雑木林、パウサントの木々の中に一本だけある赤い実を持つサネカズラ。その赤い実は万能薬とされている。
「いいやテオ、パウサント、この木は男子の誕生を祝って植えられるのだよ。おそらくハインリヒの誕生の記念に植えられたものだ。そしてサネカズラの木言葉を知っているかい?」
「ううん知らない」
「……再会…また逢いましょうというんだよ」
「殿下のおっしゃる通り、あのサネカズラはハインリヒの誕生を祝って元は領地に植えられておりました。おあつらえ向きに赤い実が薬になるからと、王都邸に入る際、離れに近いパウサントの群生林に移したのです。そしてわたくしの妊娠を知ったデイビッドは力の入らぬその足でそれでも自ら歩いて行って…その木の根元に自分の手でわずかばかりの土をかけたのよ。…テオドール、貴方の誕生をそれはそれは心待ちにしながら…」
「そして指輪を埋めたのですね…。愛する人に…また逢いましょうと…そんな願いをあの木に込めて…うっ…ぅぅ…」
みんながすすり泣く中、僕だけが怒りでいっぱいだった。




