36 フラグはこうして立ちました 五本目
初めて出会ったあの時…小さな体をすべて使って僕に覆いかぶさったお兄様。
少しの重みも感じないほど軽い体で、なのに精一杯鞭から僕を庇ってくださった…
顔にかかったふわふわの金糸はお兄様の髪で…あんな時なのにくすぐったかったのを今でも覚えてる。
連れていかれたのは狭い狭い地下通路の突き当り。下級使用人の寝起きするそこは、おかあさんと過ごした歓楽街の部屋より暗い惨めな部屋。
けど…僕は日の当たらないその部屋で、いつも日の光を思い出させるあの金糸の髪を思い浮かべてた。
寒くてお腹がすいて…かじかんだ指で必死に床を磨く僕を救ってくださったのもお兄様だった。
僕の手をぎゅっと握ったまま怒りながら離れへと歩いていくお兄様の足取りはひよこのようで…ふふっ、走ってたんだろうけど…ヨタヨタした足取りは歩いてるようにしか見えなかった。
僕の手を引くその手のひらも簡単に振り払えそうなほど小さくて…なのにその小さな指に握りしめられた手はいつの間にか温かくなっていた。
その後お兄様がよこしてくださったメイドはあまり良い人たちではなかったけれど、お兄様が与えてくれたこの離れよりほかに僕には行き場がなかったから、大きくなるまでは生きていく術もなかったから、だから必死になって耐えていた。いつかここを出て行こうって、それだけを考えながら。
それでも堪えきれない悲しみが押し寄せたとき、僕はメイドの目を盗み誰もこない本邸の裏庭に身を隠した。
泣いているところなんか見つかったら、めんどくさいってまた怒られる…
なのに声を殺して泣いてた僕の目の前には空からクマが降ってきたのだ。
驚いて見上げた先、そこにはビスケット色の大きな目があった。
大きな大きなお兄様の目、吸い込まれそう…
動くことも出来なくてじっと見てたら今度はドサってクッキーが降ってきた。
三階から投げ落とされても割れることなく形をとどめていたお兄様の硬いクッキー。
まるでだれになにを言われても曲げない信念を貫かれるお兄様のよう。僕はそれが大好きになった。
僕に意地悪をした沢山のメイドたちをお屋敷から追い出すとお兄様はご自分の従者を寄こしてくださった。
お兄様は「貴族のマナーを教えるようにと」信頼のおける専属従者を僕に付けてくださったのだ。
ああ…僕はお兄様に守られてる…
お兄様からの大きな愛情を感じたあの時、あれが胸が苦しくてドキドキして破裂しそうになった最初の瞬間。
それ以来僕はなんとかしてもっともっとお兄様と親しくしたいと願うようになっていた。
その願いが届いたかのようにお兄様はお母様に内緒で家庭教師の先生を寄こしてくださったのだ。
先生はお母様がお兄様へお付けになった家庭教師。
なのに僕が学院で恥をかかないようにお兄様は直接先生に交渉されて…ああっ!お兄様!お兄様のご厚意、決して無駄にはいたしません!
僕は必死に勉強した。そう、先生が舌を巻くほど。お兄様に恥をかかせるなどしてはならないのだから!
先生との授業はとても有意義だった。問題を間違えることなく正解させると先生はいつもご褒美をくださった。
そのご褒美とはお兄様のちょっとした情報。
お兄さまのおみ足のサイズ、お兄さまの頭の形、お昼寝中の寝言…、お兄さまのことを余すことなく知りたくて僕は必死に勉強した。
さらに次回の授業までに指定された範囲を完璧に覚えると、先生は僕にお兄様の私物を下さった。
要らなくなったペン、使わなくなったハンカチ、一度は飲みかけのカップをお持ちくださった。
そのどれもにお兄様が染みついているようで、僕は…僕は…はぁはぁ…
あの先生との授業が無くなったのは残念で仕方ない。学院へ入学する日がきたのだ。
…お兄様が学院へ来ないと聞いたときの僕の絶望が誰に分かるだろう…。それだけを心の支えに頑張って来たのに…
いっそお兄様を攫ってこんなところ出て行ってしまおうか。そんな感情に支配されたころ、なんと、お兄様は僕に馬車をご用意くださったのだ。
お母様からは歩いて行けと言われていた。
お母様はテオドールお兄様が学院に行かないのに僕だけが入学を決めたことが不愉快で仕方ないんだろう。
だから甘んじてその罰を受けるつもりでいたのに…あああっ!お兄様ぁ!
馬車がとびきり高価なことくらい僕にだって分かる。そしてその維持にとてもお金がかかるってことも。
お兄様…そのためにずっと節約なさっていたのですか?だから遊びにも行かず、商人も呼ばず、カフェにも寄らず、焼き菓子すら手ずからお作りになって節約を…
全て僕の為に…そうなのですね!ああああっ!!!
あの時ほど涙腺が崩壊したことは無い。
タウルス様とアルタイル様にお兄様をいわれのない噂ごときで糾弾された時、正直ひねりつぶしてやろうかと思った。
今思い返しても腹立たしい。僕のお兄様によくもっ!
…いけない。思い出すと闇に飲まれかける。闇のアリエスではお兄様に相応しくない。天使のようなお兄様には清らかなアリエスでいないと。
だけどお兄様は僕を信じてくださったし、結果論だが余計なライバルが減って良かったのだと思うことにした。
ふたりとも家格的にはお兄様の縁談相手に名前が挙がってもおかしく無い相手なのだ。お互いに嫌い合っているのならこんな都合のいいことは無い。
なのにアルタイルをあんなに簡単にお許しになるなんて…お兄様ったら地上の天使ですかぁー?
だからって何故!今こうして!お兄様が殿下の婚約者になるなんて!
仮とは言え…まったくいい気分じゃない。
僕は頭の中で天秤にかけた。殿下とハインリヒ様…どちらが容易い相手だろうか…と。
そう思っていたのに、こんなところに伏兵が…。ジローめ。
「ねぇねぇアリエス、じろーと知り合いだったなんてすごい偶然!あーもうっ!しょうがないからアリエスにも今度お弁当作ってあげる…言っとくけどついでだよ、ついで!」
ケガの功名…そんな言葉が頭の中に響き渡った…




