魔術の真価
鬱蒼と茂る森の小径を行く、二つの影があった。
一人は老爺。象牙色の長衣に身を包み、豊かな白髭を胸元にまで垂らしたその老人は、歳月による衰えを微塵も感じさせない。
足取りは緩やかながらも力強く、迷いはない。その佇まいは、例えるならば悠久の時を刻んだ大樹のごとし。風に梢を揺らしながらも、大地に根差した幹は決して揺るがない。そんな風格を見る者に与えた。
もう一人は少年。赤みがかった山吹色の髪を短く切り揃え、そばかすの浮いた顔立ちは未だ幼い。成人を迎える前の苗木のような少年ではあるが、その翠玉の瞳には強い意思の光が込められている。
簡素な衣服の上から羽織っている紺色の肩かけは、古来において見習い魔術師の証だ。先端に紅玉がはめ込まれた小杖は、同じく彼が初学者であると暗に示していた。
老爺の名はルタといい、少年の名はロットといった。
彼らは辺境の森の奥深くにある故郷の村を旅立ち、各地を巡っている魔術師の師弟だ。修行の旅の途上にある二人は、近隣の村を目指して人気のない森道を歩んでいた。
「お主は、魔術が何のためにあるか考えたことはあるかの?」
ルタの問いかけにしばし思案し、やがて少年は父親の書斎で見つけた初等の魔術教本の一節を思い出す。
「世界の理を探求し、人としての本質に至るため……確か、そう書かれていたような」
「なるほど、そのような求道者としての意義もあろう。じゃがそれは、人が後世になって見出した、いわば後付けの理屈に過ぎん」
「そうなのか、爺さん?」
予想と反する答えに、うっかり昔ながらの呼び方が口をついてしまう。
「これ、ルタ様と呼ばんか。……白銀の女神アルジェントは、かつて地上に七人の魔女を遣わした。神の力の一端を分け与えられた彼女らは、その叡智を人々へともたらす使命を担っておったのじゃ」
「そんな話、初めて聞いたぞ。教会の聖典にも書かれてなかったはずだ」
「光王教会は、この辺りの事実を頑なに認めようとせんからな。まあ、あくまでもこれは余談じゃよ」
やれやれと首を振り、指折り数えながらルタは続けた。
「治癒術、召喚術、錬金術、闘気術……後は割愛するが、我らが学ぶ魔術もまた、魔女が人々に与えたもうた力の一系統に数えられる」
「アルジェント様は、どうしてオレたちにそんな力を与えて下さったんだろう?」
「広義の魔術が人々に与えられるよりも以前、奇跡とは人が神に乞い願うものじゃった。教会が今の世に伝える法術こそが、その最たるものといえよう」
「奇跡の力を教会が独占してたってことなのか? だからこそ、女神と魔女はオレたちに魔術を授けた……?」
はっとした顔で仰ぎ見る弟子の頭を、ルタはくしゃりと撫でてみせる。
「なかなかに聡いのう、ロットよ。人々が神と教会の庇護下にある状況を、白銀の女神はよしとしなかった。例え、蒼穹の女神と意見を異にしたとしても、そこだけはどうしても譲れなんだようじゃ」
頭上を覆う樹々の枝が風に揺らめき、木漏れ日が地面にだんだら模様を描く。
緑の薄布越しに天を見上げたルタは、遥か高みに御座す双子の女神に思いを馳せた。
「そして、授けられた力は人が外なる脅威に抗うために存在しておる。己の身を守るだけではない。より弱き者、大切な誰かを守ることこそが、魔術の真価といえよう」
「魔術の、真価……」
胸に手を当て、ロットは師の言葉を噛み締めるように呟いた。
「力を追い求めるは人の性質じゃが、その力は決して己のためのみにあるものではないと心得よ。お主が儂に師事する時に誓った初心を、ゆめゆめ忘れるでないぞ」
「はい、ルタ様!!」
「そして、魔術とは戦うためだけの術にあらず。矢面に立って戦うことに関して、戦士や騎士には遠く及ばぬのじゃからな」
「多彩な魔術と豊富な知識をもって、仲間を守るのが魔術師の本質……だろ?」
鼻の頭を指で擦りながら、ロットは得意げに笑ってみせる。
「左様。これからお主は旅の中で多くの経験をするじゃろう。それらすべてを糧として、魔術師としての高みを目指すがよい」
「ああ、わかってるさ」
やがて森は途切れ、広々とした街道が二人を迎え入れた。
ロットはふと立ち止まると、自分が通ってきた道を振り返る。
故郷の村の家族や友人たち。……そして今も、修練に励んでいるであろう一人の少女の姿を想い浮かべながら。
これは、ある少年の旅物語。
遥かな旅路の果てに先にあるものを知らぬまま、ロットは一歩を踏みだした。