ホルスの獣 (5)
短刀を逆手に握り直すと、エリオは村医者の心臓めがけて勢いよく振り下ろした。
「やめんか、この馬鹿者!!」
「我、冥界の軛を破りてその門を開かん!! 原初の生命の源を糧として、喪われた魂魄に再びの生を与えよ!!」
「エリオォーーッ!!」
二人の制止も虚しく、エリオは儀式の詠唱を高らかに完遂した。魔法陣から激しい光が放たれ、捧げられた生け贄がみるみるうちに干涸びていく。
遺体から吸い上げられた血液は魔法陣の中を循環し、赤い竜巻となって地下室の天井を突き破った。竜巻はやがて収束し、中央の骨壺の中へと吸い込まれる。
「は、はははは……やった、やったぞッッ!! 儀式は成功だ!! 俺はついに、ソフィーを甦らせたんだ!! あーッはッはッはーーッッ!!」
荒れ狂う暴風に晒されながら、エリオは歓喜の哄笑をあげた。
生命の源流を注がれた骨壺は赤熱化して、まばゆい光を放ちだす。膨張する光はやがて繭を形作り、その内側に人型の輪郭を浮かび上がらせた。
「ああ、ソフィー……この瞬間を、俺はどれだけ待ち侘びたか……」
光の繭が徐々に解け、中から一人の女性が姿を現わした。
雪花石のように白い肌。白金を溶かし込んで作られたような美しい髪と、長いまつ毛。一糸纏わぬその姿を、エリオは感極まった様子で抱きしめる。
「ソフィー、俺だ。エリオだよ。ずっと、会いたかった……ずっと、謝りたかったんだ。守れなくてごめん。助けられなくて、ごめん。今度こそ俺は、ソフィーを……」
閉ざされていた瞼がゆっくりと開かれた。琥珀を思わせる澄んだ瞳。
結ばれた唇が少年の名を紡ごうとする。しかし、その言葉は白い吐息となり――ついぞ音を発することはなかった。
「……え?」
突如として、ソフィーの身体が内側から裂けた。影のようなものが音もなく這い出し、ぞぶりとエリオの右腕を食いちぎる。
「あ、ぎ……ぎゃあああァァァッッ!!」
「エリオ!!」
「ロット、あれに近付いてはいかん!!」
咄嗟に駆け寄ろうとするロットを、ルタは羽交い締めにした。
そうしている間にも、エリオは驚愕と激痛に顔を歪めながら床をのたうち回っている。断面から止めどなく噴き出す血潮が、石畳を真っ赤に染めていく。
ソフィーの全身が裏返りながら、瞬く間に影と同化、変化していく。四足歩行となった異形の姿は、獣のようでありながら左右非対称の歪な形をしていた。
体表は臭水のように黒くぬめり、柘榴の実を思わせる赤い瞳を爛々と輝かせている。
「あ……あれは、何なんだ。儀式は、失敗してしまったのか……?」
「いや、成功したのじゃ。……成功してしまったからこそ、あれがこの世に呼び出されてしまった」
「どういう、ことだよ……?」
「あれはホルスの獣。冥府の王の忠実な僕であり、死を弄んだ者を粛清する存在じゃ」
「ソフィーを……ソフィーを、返せぇぇぇッッ!!」
床に転がった短刀を左手に持ち替え、エリオは影の獣へ敢然と向かっていく。しかし、獣の表皮に突き立った刃は、水面に沈むように易々と飲み込まれ、砕かれてしまう。
それならと手をかざして放った風の刃も、やはり獣の前には意味をなさなかった。
「くそ、くそォッ!! なんでだよ、なんで、なんで……!!」
揺らぐ陽炎の中から、新たな獣が次々と現出する。あっという間にエリオを取り囲んだ獣の群れは、彼の息の根を止めるべく一斉に踊りかかった。
「エリオ、逃げろ!!」
「う、うわぁあぁぁあァァアッ!!」
影の獣に食い荒らされるエリオの姿を目の前にしてなお、ルタは決してロットの身体を離そうとはしなかった。
「離してくれ!! なあ、黙ってないでエリオを助けてくれよ!! 爺さんなら……ルタ様にだったら、あれをどうにかできるはずだろ!?」
「無理じゃよ。あやつには刃も魔術も通用せぬ。あれに目をつけられてしまった時点で、エリオの命運は尽きてしまったのじゃ」
「そんな……」
目の前で繰り広げられる惨劇に、ロットは力なく膝から崩れ落ちた。ルタもまた沈痛な面持ちを浮かべながら、事態をただ傍観することしかできない。
「あが……が、あアぁぁァァッッ!! ソフィー、ソフィイイィィイイィィィィッッ!!」
断末魔の叫びが地下墓地に木霊した。
やがてエリオの声が弱々しく掠れ、物言わぬ骸と化しても、肉を引き裂き骨を噛み砕く音は止まなかった。
跡形なくエリオを食い尽くした獣の群れは、ロット達にもそのぎらついた眼を向ける。
「……不味いな、これは。どうやら、儂らを見逃すつもりはないらしい」
聞いたこともない吠え声と共に、獣が二人に殺到する。
ルタは杖を正眼に構え、堅固な防護壁をその場へと展開した。しかし、次々に襲いくる爪牙の猛攻に、防壁は綻びを見せていく。
その上、獣の数はさらに増え続けていた。空間の揺らぎから際限なく這い出すそれは、この場に居合わせた者たちを等しく滅ぼすまで止まらないのだろう。
「……流石に、これはちと厳しいかもしれぬな。いざとなれば、お主一人だけでも……」
「馬鹿言うなよ!! そんなの、できるわけがないだろう!!」
絶対絶命の窮地に立たされた、その刹那。
ロットの胸元から不意にまばゆい光が放たれた。これまでどんな攻撃にも怯まなかった獣が、初めて光に狼狽して後退りを見せる。
「な、何だ……?」
「ロットよ、それを見せてみよ」
ルタから言われるままに、ロットは懐に入れたそれを取り出す。
表面に無数の幾何学模様が刻まれた、金属製のレリーフ。それは村から旅立った日に、フィアがくれたお守りの首飾りだった。
「……そうか。あの娘は、ザーンの砂漠の出身であったのか。その護符を少し借りるぞ。これならば、何とかなるかもしれぬ」
差し出された護符を手にしたルタは、高らかに詠唱を始めた。
「おお、ホルスよ!! 地竜の王よ、冥府の守護者よ!! 我らは聖律を乱す者にあらず!! 粛清の獣どもよ、元ある場所へと退去するがいい!!」
護符から放たれる光が、詠唱に呼応して輝きを増していく。影の獣たちはもがくように身をよじりながら、ついに光の中へと消滅していった。
そして、地下墓地を再び静寂が支配する。
命拾いをしたことを実感すると、ロットは思わずその場に脱力した。
安堵の次に訪れたのは、言い表しようのない喪失感。やり場のない感情が胸に渦巻き、嗚咽と共に涙となってこぼれ落ちる。
「っ、く……う、ぁあぁ……」
「……泣いておるのか、ロットよ」
「だって……こんなのは、あんまりじゃないか……」
「エリオの所業は、それだけ罪深いものであったということじゃ。あやつは自らの過ちの報いを受けただけに過ぎん」
「そんな言い方はないだろ!! あいつのやった行動は、確かに間違ってたかもしれない。だけど、こんな目に遭わされるほど罪深くもないはずだ。あいつはただ、ソフィーさんに一目会いたかっただけだったのに……」
荒れ果てたカタコンベには、もはや何も残されてはいなかった。
血で描かれた魔法陣も、ソフィーの亡骸が収められていた骨壺も、そしてエリオという少年の存在すらも。あの獣がすべての痕跡を塗り潰すように食い尽くしてしまった。
吹き抜けになった天井から、冷たい雨が静かに降り注ぐ。吹きすさぶ風の音が、まるで慟哭のようにいつまでも鳴り響いていた。