ホルスの獣 (4)
雨足は徐々に強くなり、やがては篠突く雨へと変わっていく。冬の凍えるような寒さの中でも、黒々と降り注ぐ雨は雪へ変わることなく外套を濡らし続ける。
泥濘に足を取られぬように細心の注意を払いつつ、二人は森奥にあるソフィーの家まで辿り着いた。
ソフィーの家はこじんまりとした木造の小屋だった。屋根は束ねた茅で葺かれており、質素ではあるが手入れが行き届いている。
「エリオ、そこにいるのか!?」
呼びかけに応じる声はない。把手に手をかけると、扉はあっさりと押し開かれた。
二人の身体から滴る雨粒が、床板をしとどに濡らす。薄暗い室内は外装と同じように、慎ましくもまめに整えられている。
壁にかかっている、ドライフラワーのリースやガーランド。小物入れに並んだ食器と、作業台の上に置かれた陶器製のポット。
閑散としつつも、生前のソフィーの面影を窺わせるような佇まい。彼女が死してもなお保たれ続けるその部屋は、整然としながら歪で空恐ろしいものを感じさせた。
ギぁあァァァァアァァァァアァ……ッ!!
静寂の支配する室内に木霊したのは、耳をつんざくような金切り声だった。
おおよそ尋常な生物が発したと思えない、身の毛もよだつような咆哮。以後も継続的に続くそれは決して幻聴などではなく、確かに家の何処からか聞こえてきた。
「今のは、一体……」
「地下からじゃ。恐らく、どこからか降りられるようになっておるに違いない」
入口はあっさりと見つかった。奥の納戸の床板が外れるようになっており、大人一人が辛うじて通れる程度の下り階段が伸びている。
角燈に魔術の明かりを灯し、二人は慎重に階段を降りていった。地下を降りるにつれ、あの叫び声がより鮮明に聞こえてくる。
階段を降りた先にあったのは、所狭しと並ぶ書棚の群れだった。その莫大な蔵書量は、都市部にある図書館と比したとしても遜色がない。
「家の地下に、こんな場所があるなんて……」
「どうやら、ソフィー殿の家に代々受け継がれてきたもののようじゃ。没落する以前は、高明な魔術師であったのかもしれんな」
しばらく進んだ先に、閲覧用と思われる木製の机が置かれていた。
乱雑に積み上げられた無数の本と、それを上回るおびただしい量の覚え書き。ロットが拾い上げた紙片には、難解な術式や考察がびっしりと書き込まれていた。
「生け贄からの生命力の抽出と他者への転化……そして、失われた魂の復元と定着……。何だよ、これ。全部、エリオが書いたものなのか……!?」
「……どうやら、悪い予感が的中してしまったらしいな」
「それじゃ、ルタ様。儀式の正体って……」
「死者の蘇生。亡くなったソフィー殿を、この世に甦らせようとしておるのじゃろう」
書庫の突き当たりには、さらに地下へと降りるための縦穴と梯子が設置されていた。ルタは穴の手前で立ち止まったまま、何事かを逡巡するかのように押し黙ってしまう。
「どうしたんだ、ルタ様」
「……ロットよ、お主はここで引き返すんじゃ」
唐突に放たれた言葉に、ロットは我が耳を疑った。
「な、何でだよ!? ここまで来ておいて、今さら後に引けるわけなんて……」
「ここから先で待ち受けておるのは、紛れもなく人の道から外れた所業じゃ。後の始末はこの老いぼれに任せるがいい」
「それじゃ、理由になってないだろう!! この期に及んで、ルタ様はオレを子供扱いするつもりなのか!?」
「つもりも何も、事実としてお主はまだまだ子供じゃよ」
老爺の双眸が少年を見つめている。底知れぬ叡智と慈愛とが存在する、そんな眼差し。それでいて有無を言わせぬ圧倒感に、ロットは二の句を躊躇ってしまう。
長くもあり、短くもある沈黙を破り……それでも、ロットは首を縦には振らなかった。
「……確かにオレは子供だよ。魔術はまともに扱えないし、知識や経験だって爺さんには遠く及ばない。だけど、ここで引き返すのだけは、絶対に間違ってる」
「ロット……」
「これは、オレ自身の修行の旅だ。だから、この先で何が待っていたとしても、そこから目を逸らすわけにはいかない。……なあ、ルタ様。オレはおかしなことを言ってるか?」
決意と覚悟の宿った瞳を前にして、ルタは観念したかのように息をついた。
「……いいじゃろう。そこまで言うのであれば、もはや何も言うまい。儂の側から決して離れるでないぞ」
「ああ、わかってる」
梯子を降りた先には、狭くざらついた壁面の地下道が続いていた。分岐がない一本道をしばらく進んでいくと、途中で別の横道と繋がっている。
澱んだ空気と微かな腐臭。風化した石壁の両側面に、幾つかの壁龕が等間隔に穿たれていた。その中に収められているのは、いずれも風化して黄ばんだ人骨の群れだ。
「ここは……」
「どうやら、村の地下墓地のようじゃな」
いつしか絶叫は止み、周囲は再び静寂に包まれていた。
風に運ばれる死臭に混じって、まだ新しい血の臭いが漂ってくる。四方に伸びた通路の一角に、おぼろげな照明が灯されているのがわかる。
ルタとロットは警戒を怠らず、明かりが見える方向へ歩を進めていった。
「な、何なんだよ、ここ……」
通路を抜けた先は、開けた空間になっていた。
石畳の床一面に魔法陣が刻まれており、溝の窪みに鮮血がなみなみと満たされている。陣の中央には円筒状の骨壺が配され、集められた血液はその一点に注がれていた。
「……ぁ、がヒュ……た、ズゲ……」
道中で耳にした咆哮の正体が、ようやく判明した。
魔法陣の頂点のそれぞれに、人間だったとおぼしきものが横たえられている。いずれも惨たらしく痛めつけられており、大半は既に事切れていた。
辛うじて息があったのは、でっぷりと肥え太った壮年の男だけだった。身に着けていた白衣は血で真っ赤に染まり、ズタズタに引き裂かれて見る影もない。
「もうやめろ、エリオ!!」
「……上が騒がしいと思えば、丘で会った爺さんと小僧か。こんなところにまで現れて、何のつもりだ」
苦悶の声をあげる中年男を足蹴にしたまま、エリオはルタとロットを振り返った。
全身を返り血に染めたエリオは、右手には短刀、左手にはソフィーのものだろうか――銀製で細身の杖を握り締めている。
「今すぐ儀式を中断するんじゃ。お主は自分が、何をしておるかわかっておるのか!?」
「その様子じゃ、地下の書斎は見てきたんだろう? 俺はこの儀式を成功させるために、これまで入念な準備を重ねてきた。今さら、邪魔などさせるものか」
足元で蠢く男の髪の毛を、エリオは乱暴に掴んで持ち上げる。男を見下すエリオの瞳は底冷えするほどに冷たく、一片の慈悲も感じられなかった。
「ひィっ、ギぃ、アァあ……ッ!!」
「おい、まだ死ぬなよ。貴様だけは、もっと苦しみ抜いてから殺してやるからな」
「そいつが、村の医者……タリムなのか?」
ロットの問いかけに対し、エリオは事もなげに「ああ」と首肯する。
「こいつの卑劣な行為のせいで、ソフィーは自ら命を絶ったんだ。こいつだけじゃない。ここに転がっているのはタリムと同様にソフィーを苦しめ、辱めた連中ばかりだ」
「だからって、ここまでする必要はないだろう!! ……お前の気持ちだって、わからないわけじゃない。ソフィーさんが死んでしまって、悲しくて悔しかったんだろう。だけど、こんなやり方は絶対に間違ってる!!」
「黙れぇッ!!」
薙ぎ払われた杖の先から、荒れ狂う風の刃が放たれた。ロットに向かって迫るそれは、ルタが展開した防護壁に阻まれ、甲高い音と共に霧散する。
「大した苦労も知らないガキの分際で、したり顔で俺に説教か。飢えや渇きの苦しみも、大切な人を奪われた悲しみも、怒りも、絶望も。お前に何がわかるっていうんだ?」
「それは……」
「ソフィーは俺にとって世界のすべてだった。そのソフィーがあいつらに痛めつけられ、苦しみ抜いて死んでいくのを、俺は黙って見ている以外に何もできなかった!!」
血を吐くようなエリオの絶叫が、地下墓地の空気を震わせる。彼が抱いている感情は、もはや狂気じみてすらおり、ロットにはかける言葉も見つからなかった。
「だから、俺は誓った。何年かかっても、どんな手を使ったとしても、絶対にソフィーを甦らせてみせると。そして、今度こそ俺がソフィーを守り抜いてみせるとな!!」
「……人は決して甦りはせぬよ。一度冥界へと赴いた魂を呼び戻すことは、何人たりとも叶えてはならぬ願いなのじゃ」
続けざまに繰り出される風刃を防ぎつつ、ルタはエリオを諭そうとなおも語りかける。
「今ならばまだ、取り返しもつく。この儀式を中断するんじゃ、エリオよ!!」
「あんたまで、俺に説教を垂れるつもりか?」
「そうではない。いかなる手段をもってしたとしても、人間が冥界に干渉することだけは絶対に許されぬ。これは倫理の問題だけではない。神の定めた摂理に背けば、その報いは必ず己の身に降りかかるぞ」
「神……神、か。はは、はははははっ!! 笑わせるな!! 神が本当にいるなら、どうして彼女を救ってくれなかった!? こんな非道を見過ごす女神など、クソ喰らえだ!!」