ホルスの獣 (3)
空き地を後にした二人は、“凪待ち亭”のヒルデの元を訪ねた。
揃って口を閉ざす村の事情、そしてソフィーの顛末について聞き出すためだ。
宿屋の中庭で洗濯物を干していた彼女は、二人を認めると鼻を鳴らして顔をしかめた。
「……あんた達、ひどい臭いがするよ。朝早くから出かけてると思ったら、まさか現場を見てきたんじゃないだろうね」
「そのまさかじゃ。……ヒルデ殿に、折り入って訊ねたいことがあるのじゃが」
「何だい、改まって」
「ソフィーとエリオ。二人について、あんたが知ってるすべてを教えて欲しい」
ロットの言葉に、シーツを干すヒルデの手がぴたりと止まった。
事のあらましをかいつまんで説明すると、彼女はしばし逡巡するそぶりを見せた後で、深々とため息をついてみせる。
「……村の連中から、何も聞き出せなかったんだろう。あたしなら話すと思ったかい?」
「昨晩のお主の様子では、二人を特に気にかけておったようじゃからの」
「ふん、食えないい爺だ。こうなるなら、泊めてやれなんて言うんじゃなかったよ」
「なあ、頼むよ。他に手がかりがない以上、あんたの話だけが頼りなんだ」
必死で食い下がるロットに対し、ヒルデは眉根を寄せて渋面を作ってみせる。
「他の奴らの反応がすべてさ。はっきり言って、村の住人はこの事件を忘れたがってる。面白半分で聞くような話じゃないって、わかってるのかい?」
「無論、承知の上じゃ」
「人の命がかかってる。場合によっては、あいつを止めなきゃならないかもしれない」
「……わかったよ。あたしが話したってのは、他言無用だからね」
洗濯かごを脇へと置くと、彼女は中庭のベンチに腰を下ろした。ルタとロットもまた、その隣に並んで座る。
「……何のことはない。ソフィーはどこにでもいる、ごく普通の娘だった」
「村人たちは、彼女を魔女と呼んでいたそうじゃが」
「そんなの、根も葉もないただのでっちあげさ。あの子に多少の魔術の心得があったのは事実だけどね」
彼女の家系は、元を辿れば没落した魔術師の末裔だったという。
流行り病で両親を相次いで失い、他に縁者のなかったソフィーは、調薬や治療で細々と生計を立てながら、村外れの森の奥に居を構えて暮らしていた。
ソフィーは口数こそ少ないものの、穏やかで心優しい娘だったという。
自身の暮らし向きも決して豊かではなかったにも関わらず、彼女は貧しい者に対しても分け隔てなく接し、時にはただ同然で治療を施していたらしい。
「あの娘の薬は、とてもよく効いたよ。生前にはあたしも随分と世話になった」
ヒルデは過去を懐かしむようにして、目を細める。
「エリオもまた、そんな彼女に救われたうちの一人だった。エリオの母親は彼を産んで、すぐに死んじまってね。大工だった父親も病気がちでまともに働けずに、食べるものさえ事欠くような有り様だった」
高額な治療費が払えずに門前払いを受けていたエリオに、ソフィーは手を差し伸べた。
そして、無償で父親の治療を引き受けてくれた彼女に対し、彼は少しでも費用の足しになればと助手を申し出たのだ。
エリオはまだ幼いながらも、とても利発で聡明な少年だった。ソフィーはいつしか彼に対し、魔術の基礎や調薬の知識の手解きをするようになっていった。
「あいつは、ソフィーに師事していたのか……」
「そんな大袈裟なもんじゃない。どちらかといえば、仲のいい姉弟みたいな関係だった。ソフィーも気丈を装っていたけど、まだ十八かそこらの娘だったからね。心のどこかで、寄り添う誰かを欲していただけなのかもしれない」
エリオの境遇には、ロットも共感できる部分があった。魔術師に憧れ、森の奥に住まうルタの元へ通っていたかつての自分と、どこか重なっていたからだ。
慎ましくも穏やかに過ぎていく日常。しかし、そんな生活は長く続かなかった。
「この村には昔っから、一人の医者が住んでいてね」
「行方知れずになっているという村医者じゃな。確か、タリムという……」
「ああ、そうさ。あいつは他に医者がいないのをいいことに、法外な診療代をふっかけて私腹を肥やしていたのさ」
「それじゃ、ソフィーみたいな存在は……」
「邪魔だったんだろうね。ある年の暮れ、村で流行り病が蔓延したんだ。タリムの野郎、ソフィーは魔女の子だと言いがかりをつけ、病気を村に持ち込んだのは彼女の仕業だって言いふらして回ったんだ」
「馬鹿な……。そんな出鱈目、この村の連中は信じたっていうのか!?」
憤りも露わに声を荒げるロットに、ヒルデは沈痛な面持ちで首を振った。
「もちろん、それが与太だとわかる者だっていたさ。けどね、ソフィーが診ている患者の数は多くなかったし、最初から気味悪がって近付かない人もいた」
「そんな……」
「ソフィーは村の中でどんどん孤立していった。彼女を擁護していた人間も、最終的には手のひらを返さざるを得なかった。……あたしもまた、そんな中の一人だった」
「ど、どうしてだよ!? あんただって、ソフィーと親しかったんじゃなかったのか!?」
「仕方がなかったんだよ!!」
ロットの非難に対して、ヒルデもまた語気を強めて反論した。
「疫病を治すためには、どうしてもタリムが仕入れた薬に頼らざるを得なかった。それにあいつは、市場や村の上役にまで顔が利く。この村で生きていく以上、表立ってタリムに逆らうことなんて、できなかった……」
「……酷い話じゃな」
「最後までソフィーの元に残ったのは、エリオただ一人だけだった。迫害は病が収まった後も続いて、嫌がらせはさらに苛烈さを増していった」
「それで……二人は、どうなったんだ……?」
「ある日、村の若い連中が徒党を組んで彼女の家に押し入ったんだ。その事件の後、世を儚んだソフィーは沼の淵に身を投げて、自ら命を絶った」
「……ッ!!」
あまりにも救いのない結末に、ロットもルタも言葉を失うより他になかった。
怒りに拳を震わせながら、ロットはヒルデに食ってかかる。
「……最低だ。あんたらがやったことは、罪のない人間をただ追い詰め、死に追いやっただけじゃないか」
「よさんか、ロット。ヒルデ殿を責めたところで、もはや何も変わらぬ」
「悪いのは、タリムやソフィーの家に押し入った奴らだけじゃない。嫌がらせに加わった連中も、途中で手のひらを返した人間も同罪だ!! ヒルデさん、あんただって……!!」
「……ああ、そうだ。あんたの言う通りさ。この村の人間は、誰しもが罪を抱えている。だからこそ、ソフィーの話題になれば揃って口をつぐむんだ。みんな、あの事件から目を逸らして、いつか罪を暴かれるんじゃないかって怯え続けてる」
自嘲気味に笑うと、ヒルデは顔を深く項垂れた。薄曇りの空に垂れ込む雲は、そのまま村を覆う重苦しい空気を映しだしているようだ。
「エリオはその後、どうなったのかね?」
「ソフィーが亡くなってからは、父親の治療もままならなくなってね。そこから間もなく息を引き取り、あの子は本当に一人ぼっちになってしまった」
「……そうか」
「しばらくは雑用をこなして食い繋いでいたけれど、そのうちソフィーが住んでいた家にこもるようになっていってね。村にはもう、顔を出さなくなっちまったよ」
「村の奴らは、エリオを気にかけようともしなかったのか?」
「あの子は他人を頑なに拒み続けたし、タリムの目もあったからね。どうにか市場で目をこぼすぐらいしか、やりようがなかった。あたし達にも後ろめたい気持ちがあったから、だんだんと距離を置くようになっていってね……」
ヒルデは小さく嘆息をすると、二人に向き直って訊ねた。
「ねえ、あんた達。この村で起きている事件は、エリオの仕業なのかい?」
「まだ、そうと決まったわけではない。じゃが、その可能性は極めて高いじゃろうな」
「そうかい……」
やるせなく頭を振ると、ヒルデはおもむろにベンチから立ち上がった。
「……あたしなんかが言えた義理じゃないなんて、百も承知の上さ。だけどね、あの子をあんな風にしちまった責任はあたし達にある。どうか、エリオを止めておくれ」
「言われずとも、そうするつもりじゃよ。……ヒルデ殿、協力に感謝する」
最後にソフィーの家の場所を聞き出すと、ルタとロットは足早にその場を後にした。
空模様はいよいよもって不穏さを増し、遠雷と共に冷たい雨粒がぽたりぽたりと地面に染みを作る。
洗濯物が濡れるのもお構いなしで、ヒルデは二人の去った方角をじっと見つめていた。