ホルスの獣 (1)
冬枯れの山道を行く、二つの人影があった。
一人は象牙色の長衣を纏った老爺。
もう一人は、山吹色の髪を短く切り揃えた少年。
ルタとロット。彼らはこのラース島を旅ゆく魔術師と、その徒弟であった。
雲間から差し込む陽射しは薄暗く、風は肌を刺すほどに冷たい。下生えはうっすら霜に覆われ、踏み締めるたびにかさりと乾いた音を立てた。
道の先はなだらかに起伏する丘へと続いていた。その頂には、石造りの墓標がぽつりと寂しげに立っている。
墓前に誰かが跪き、一心に祈りを捧げていた。それはロットと同年代か、あるいは少し上と思われる少年だ。
少年へ歩み寄っていくと、あと数歩というところで気付き、後ろを振り返る。
煤けた灰色の瞳が二人をじっと見据えていた。底の見えない井戸のような、暗く澱んだ眼差し。そこには年相応の輝きも、旅人に抱く好奇の色も存在しない。
「……旅の魔術師か?」
「如何にも。この先の村へ向かう途中なのじゃが、道は合っておるかの?」
穏やかに問いかける老爺に対し、少年は油断なく視線を走らせた。
立ち振る舞いや言葉遣い、荷物から相手の素性を見徹そうとする、そんな目つき。
「……やめておけ。あの村には何もない。あそこはただの、クズどもの吹き溜まりだ」
ややあってから、吐き捨てる口調で答える少年の態度に、ロットは戸惑いを隠せずにはおれなかった。戸惑いは反発に変わり、彼の口を衝いて出る。
「お前だって、村の住人であることに変わりないだろう。どうして、そんな風に悪し様に言えるんだ?」
「うるさい。何も知らないガキが、したり顔で口を挟むな」
「何だと!?」
「よさんか、ロット」
二人を冷たく一瞥すると、少年はそのまま脇を通り過ぎていこうとする。
憤然と食ってかかるロットをやんわりと押し留めながら、ルタは去り行く背中を静かに呼び止めた。
「待つんじゃ、少年よ」
「……なんだ、爺さん」
「お主の身に何があったか、儂は知らぬ。こうして巡り合ったのも何かの縁。この爺めに話してみる気はないか?」
「断る。あんたに話すことなど、何もない」
そう言ってのける言葉には、もはや一片の取り付く島もなかった。
すれ違いざまに、少年から独特の体臭が漂ってきた。つんと鼻を刺激する匂い。それが薬品の調合に用いられる特定の植物のものであると、ロットは遅れて気が付いた。
「くそっ、何だっていうんだ」
「そう言うでない。じゃが、今の少年……ちいとばかり気にかかるな」
「もしかして、薬草の匂いですか?」
「いや、違う。あれは恐らく、別の臭いを紛らわせようとするような……」
「ルタ様?」
「……ともかく、我々も村へ急ぐとしよう。あんまりのんびりとしていては、日が暮れてしまうからの」
首を振り思索を払うと、ルタはロットを伴い来た道を戻り始めた。去り際にいま一度、少年が祈りを捧げていた墓に視線を向ける。
比較的新しいその墓標には、『若き森の隠者ソフィー、ここに眠る』と記されていた。
◆
山間部に位置する集落の夜の訪れは早く、そして深い。
二人が村へ辿り着いた頃には、既に日がとっぷり暮れた後だった。
素朴な木造家屋が身を寄せ合うように立ち並ぶ、どこか陰惨とした雰囲気の村だ。
まだ宵の口にも関わらず、通りを行く人影は皆無だった。どの家も戸口を固く閉ざし、息を潜めてこちらを窺うような気配すらも感じた。まるで闖入者である二人を警戒して、過度に恐れているかのようだ。
“凪待ち亭”と記された木製の看板を掲げている建物が、村で唯一の宿だった。寝室と食堂を兼ねた安宿のようで、灯明に照らされた階下から煮炊きの匂いが漂っている。
ルタが戸を叩くと、渋い声と共に足音が近付いてきた。扉を開けたのは、五十がらみの壮年の男。頑健な体躯に顎髭を蓄え、不審感も露わに二人を睨みつける。
「誰だ、お前らは」
「見ての通りの旅の者じゃよ。今夜一晩、宿を借りたいのじゃが」
「悪いが、余所者に貸すような部屋はねぇんだ。他を当たんな」
にべのない応対にロットが鼻白むが、口を出すより前に女性の掠れ声が割って入った。
「ちょっと、あんた。そんな言い草はないだろう」
歳の頃は主人よりも少し若いぐらいだろうか。痩せぎすで浅黒い肌の女性が、背後から顔を覗かせていた。
「この寒空の下、年寄りと子供だけで野宿をさせる気かい。いいから、泊めておやり」
「……チッ、このお節介焼きめ。部屋は貸してやる。おかしな真似はするんじゃねぇぞ」
いかにも不服という態度を隠そうともせずに、男は宿の扉を乱雑に押し開いた。古びた木の床が、歩くたびに嫌な軋みをあげる。
食堂の広間には暖炉が設られており、旅で凍えた身体をじんわり温めてくれた。
二人をテーブル席にまで案内すると、彼女は粗塩で味付けされたシチューをよそって、黒パンと共に運んでくる。
「悪いね、こんなものしかなくて。なにぶん、この村には客人なんて滅多にこないんだ」
「いや、心遣いに感謝するよ女将」
「よしとくれよ、そんな柄じゃないんだ。あたしはヒルデ。この凪待ち亭を旦那と一緒に切り盛りしてる」
「儂はルタじゃ。こちらは弟子のロット」
「……どうも」
ロットの無愛想な反応に、ルタが机の下から軽く足を小突いてたしなめた。
「てっ」
「挨拶ぐらい、ちゃんとせんか」
「悪かったよ。少し、考えごとをしてたんだ」
「はは、別にいいさ。最近、ここらじゃ妙なことが続いてて、みんな気が立ってるんだ。許しとくれよ」
「妙なこと……?」
問い返すロットに、ヒルデは「ああ」と頷くと声の調子を落として先を続けた。
「飼い犬や家畜がね、殺されたり行方不明になってるのさ。飢えて山を降りてきた獣か、さもなきゃ小鬼辺りの仕業か。何だか、気味が悪くってねえ……」
ため息混じりに呟くヒルデの顔には、困惑と疲労が色濃く滲んでいた。
「なるほど。村の様子がおかしかったのは、そのせいだったのか」
「小さな村だから、常備の兵もいなくてね。自警団が交代で見回りをしてくれてるけど、所詮は素人の寄せ集め。大した成果は得られてないんだ」
「おい、ヒルデ。あんまり余計な話までするじゃない」
「ふん、何さ。あんただって、すっかりビビっちまってるくせしてさ」
口を挟んできた店主に対して、ヒルデは鼻を鳴らして反論する。ロットは固い黒パンをシチューに浸しながら、ずっと抱いていた疑問を口にした。
「そういえば、ヒルデさん。ここへ来る前、丘の上で子供を見かけたんだけど。あいつは一体誰なんだ?」
「丘の上……? ああ、それはきっとエリオだね」
ヒルデは微かに苦い表情を浮かべた。
「元々はこの村の大工の息子だったんだけど、両親を亡くしちまって。まだ小さいのに、天涯孤独の身さ」
「両親を……か。それはまた、気の毒な話じゃな」
「今では誰も寄せ付けずに、いつも村外れにある廃屋まで通い詰めているよ。あの子は、ソフィーに随分と懐いていたからね……」
彼女がふと口に出したのは、丘の墓標に刻まれていた名前だった。その名が出た途端、鋭い怒声が会話を遮る。
「いい加減にしねぇか!! お前ら、食事が済んだらとっとと部屋に戻って寝っちまえ!!」
荒々しい足取りで厨房へと引っ込む主人の様子に、ヒルデもばつの悪そうな表情で席を後にする。とてもではないが、これ以上の話を続けられる状況ではなかった。
二階の客室はあまり手入れがされておらず、擦り切れた毛布と灯火用の小さなランプがあるばかりだった。吹きすさぶ風が窓枠を揺らし、時折り隙間風が忍び込んでくる。
黴臭い寝台に横になりながら、ロットは師へと問いかけた。
「……この村の様子、どこかおかしくないか?」
「まるで何かを隠しておるよう、か」
ルタの呟きに、ロットは小さく頷く。
「村で起きてる事件といい、ソフィーって人の名前が出た時といい、どうも引っかかる。それに、あのエリオとかいう奴だって……」
「お主はつくづく、厄介ごとに首を突っ込まずにおれぬ性分じゃな」
「茶化さないでくれよ、ルタ様……」
苦笑を浮かべる老爺に対し、ロットは不満げに口を尖らせる。
「ちぇっ。身に付けた力を己のためでなく、誰かのために使うことが魔術師の本懐って、いつも言ってるのはルタ様の方だろ?」
「いや、すまんな。お主のまっすぐな心根は儂とて好ましく思っておる。……じゃがな、ロットよ。人間にできることには限りがあるのじゃ」
「……それって、オレが力不足だって言いたいのか?」
「そうではない。もっと、根本的な話をしておる」
「根本的な……?」
「人の身には、どうすることもできない領分というものが存在する。……いや、現実にはどうしようもない事柄の方が遥かに多いのじゃ」
師が口にする言葉の真意が掴めず、ロットは訝しげに首を傾げた。これまでに、先走る彼を諌めはしても、このような物言いをするのは珍しかったからだ。
「今日は何か変だぜ。ルタ様こそ、何か気になってるんじゃないのか?」
「……さて、どうかの。明日になったら、まずは村の様子を見て回るとしようか。それで何か、わかるやもしれぬ」
ランプを吹き消すと、ルタは毛布へくるまって眠りこけてしまった。
その夜、ロットはなかなか眠りにつけなかった。荒涼とした風鳴りの音や、どこからか聞こえてくる渡り鴉の鳴き声。そして、先ほどのルタの言葉。それらがいつまでも脳裏で反響し、言い知れぬ不安となって心にわだかまり続けていた。