星降る夜のメロディ (4)
「さあ、次はミューザが誇る若き新星の登場です。父親の汚名をそそぐために、大会への出場を決意したという彼女は、果たしてどのような演奏を聞かせてくれるのでしょうか。それでは、シャルロッテ・マトリシア嬢、どうぞ!!」
夜闇に包まれた会場を、篝火の明かりが煌々と照らしていた。司会者の口上を合図に、シャルは舞台袖から颯爽とした足取りでステージへと進み出ていく。
裾の長いフレアスカートと、レース飾りの施されたブラウス。その上から、冬の装いに相応しいファー付きのケープコートを羽織っている。いつも後頭部で一つにまとめている栗色の髪を、今は三つ編みにして高く結い上げていた。
淡いブルーを基調にした舞台衣装は、彼女の後見人を名乗る紳士から贈られたものだ。衣装を受け取ったロットに対して、代理人の執事はその人物がディーターの古い友人だと説明してくれた。
シャルをステージ上に認めるや否や、観客席から大きな歓声と拍手が沸き起こる。
いつもの酒場のマスターと常連客。宣伝したお店の従業員や孤児院の子供たち。演奏を通じて知り合った顔馴染みが、彼女の晴れ姿を一目見ようと集まっていた。
元気に手を振る子供たちへ手を振り返してから、シャルは会場に向けて一礼する。
「この栄えある音楽祭のステージに立たせてもらえたことを、とても光栄に思ってます。父の話を、ここでしたって始まりません。わたしは歌うたいですから、届けたい気持ちは全部歌に込めます。どうか、最後まで聴いていってください」
設えられたスツールに腰かけ、リュートの弦をそっと爪弾く。軽やかな指運びによって奏られるトリルが、演奏の口火を切った。
シャルが一曲目として選んだのは、人々の間で古くから慣れ親しんだ民謡だった。森の小動物たちが冬支度に奔走する様子を面白おかしく歌った曲で、聴衆もリズムに合わせて手拍子を打ち鳴らし始める。
「いいぞ、出だしは順調みたいだ」
「うむ。……じゃが、そう一筋縄ではいかんようじゃ」
二人はザカリーの妨害に備え、舞台袖からステージの様子を窺っていた。
ルタが長杖で指し示した先、会場側面の出入り口付近に見覚えのある小太りの男の姿があった。こちらの視線に気付くと、ザカリーはにたりと笑って脱兎のごとく駆けだす。
「あいつ……!!」
「ここからは儂らの仕事じゃ。何としてもザカリーめの企みを阻止するぞ」
「言われなくても!!」
先導するルタと共に、ロットは舞台裏を出てその行方を追いかけた。ザカリーは客席の背後にある通路を辿り、会場後方に用意された立ち見席を目指しているらしい。
そうこうしているうちに、シャルの演奏は二曲目に移ろうとしていた。リュートの弦がかき鳴らされ、アップテンポなリズムに乗せて力強い歌声が響き渡る。
「おっと、ここは通さねえぞ」
「くっ……邪魔をするなよ、このチンピラ野郎!!」
「ロットよ、お主は下がっておれ」
「はッ、年寄りが無理すると怪我するぜ……なぁっ!?」
飛びかかる暴漢の突進を、ルタは老人とは思えぬ身のこなしでひらりと躱してみせる。杖の石突きで足を払い、節くれだった杖頭で相手の顎をしたたかにかち上げた。
「ぐえぇっ!!」
「う、嘘だろルタ様……」
「お主まで感心してどうするんじゃ。ほれ、先を急ぐぞ」
「あ、ああ」
情熱的な歌唱に会場は盛り上がり、背後で繰り広げられる小競り合いを気に留める者はほとんどいなかった。追跡を阻もうとする手勢を拘束、あるいは制圧しながら、とうとう二人はザカリーを追い詰める。
「そこまでだ。もう逃げられないからな、ザカリー!!」
「これはこれは御二方。こんな場所でお会いするとは実に奇遇ですな」
「お主も大概にしつこいのう。あのような年端もいかぬ少女に固執して、恥ずかしいとは思わんのか」
今や、シャルの演奏は佳境へと差しかかっていた。
物静かなイントロから始まるメロディには、聞き覚えがあった。二人がミューザの街を訪れた時、シャルが中央広場で披露していた楽曲だ。
「黙れ! 余所者がのこのこ出てきて、何を偉そうに。あいつの父親……ディーターは、成り上がりの分際で私を虚仮にしおった。私が得るはずだった地位や名誉を奪われた上、弟子にまでさせられる屈辱……貴様らごときにわかるものか!!」
「ふざけやがって……。そんな理由で、あいつの父親を殺したっていうのか!!」
「そこで胸を借りる度量があれば、お主とていずれ大成していたかもしれぬというのに。ここまで騒ぎを大きくしては、もはや無事では済まぬぞ」
ルタの諫言にも耳を貸すことなく、ザカリーはせせら笑いを浮かべた。
「この程度の騒動、我がハルトマン家の威光でいくらでももみ消せるさ。あの小娘には、私が受けた屈辱をそっくりそのまま返してやる!!」
そう言って懐から取り出したのは、鈍色に光る小さな横笛だった。古びた風合いの笛を唇に押し当てながら、ザカリーは不敵に笑う。
「これは我が家に伝わる魔笛の一種でな。“停滞する空気”……この一帯の音を遮断する魔術と、同様の効果を引き起こすことができるのだ」
「浅はかじゃな。今さらそのような玩具で、儂らをどうこうできると思うておるのか」
「無論、これだけで済ませはせんさ。……おい! 今だ、やれっ!!」
ザカリーの号令と同時に、会場を照らしていた篝火が一斉にかき消された。どうやら、あらかじめ部下を放って照明を落とす手筈を整えていたらしい。
不意に訪れた暗闇に動揺するのも束の間、今度は周囲からあらゆる音が消失した。何も見えず、何も聞こえない。会場の混乱は、あっという間に全体に広がっていく。
(くそッ……!! 視界も音も封じられたんじゃ、何もわからないじゃないか!!)
逃げ惑う観客に突き飛ばされて、ロットはその場に尻餅をつく。空に浮かぶ月の光は、篝火に慣れた目にはあまりにも心許なさ過ぎた。
ルタと連絡をとろうと声をあげても、自分の喉が虚しく震えるばかりだ。
(震える……振動……。そういえば、ルタ様が以前に……)
脳裏に浮かんだ単語から、必死に記憶の糸を手繰り寄せていく。
ルタと旅をするようになってから、ロットは様々な知識を彼から学んできた。それらの中に、音の成り立ちに関するものがあったのを思い出す。
「音とはつまるところ、空気が震えることによって生まれる。そうさな……。池の水面に広がる、さざ波を思い浮かべてみればよい」
「水面の……波?」
「他にもまだある。例えば、この机を叩くと震えがお主にまで及ぶのがわかるじゃろう? これこそが振動。この世のすべての物は、振動によって生まれ、伝播してゆく――」
床についた手のひらから、微かな震えが伝わってきた。
逃げ惑う人々が生み出す、喧騒と足音。音がなくとも、目が見えなくとも、その振動は手のひらを通じて伝わってくる。
(そうか、これなら……!!)
ロットは目を閉じ、自らの感覚を研ぎ澄ませていった。わずかな異変をも逃すまいと、全神経を手のひらに集中させる。
大きな振動、小さな振動。それらが形作る人々の輪郭。その中にたった一つ、不自然に動かず佇み続ける気配を見つける。
「……そこだぁあァァァッッッ!!」
無音の世界の中で鳴らぬ喉を震わせながら、ロットは目標に向かって突進した。懸命に伸ばした手が捉えたものを、無我夢中のままで奪い取る。
「やってくれ、ルタ様!!」
「うむ。よくやったぞ、ロット!!」
「馬鹿な、どうやって見破っ……ぐあぁッ!!」
ザカリーの手から魔笛が離れると、会場に再び音が戻った。すかさずルタが魔力の縄を放ち、ザカリーを縛りあげて身柄を拘束する。
「くそッ!! 離せ、離せぇッ!!」
「お手柄じゃぞ、ロット。よくあの状況で、取り乱さず魔笛の在処を看破した」
「いや、ルタ様が以前に教えてくれたおかげだよ。そんなことより……」
「……そうじゃな。まだ、終わりではないようじゃ」
会場の混乱はまだ収まりきっていなかった。魔笛による音声遮断は解消されたものの、消えてしまった照明が戻らない。
「おい、明かりは点かないのかよ!?」
「駄目だ、篝火に水をかけられちまってる!!」
「うぅ……。お母さん、どこぉ……?」
「おい、押すなって!! 痛っ、誰だ足を踏んだのは!?」
暗闇に閉ざされたまま、観客は恐慌状態に陥っていた。
泣きじゃくる子供、不安げに身を寄せる恋人同士。我先にと逃げ惑う観客たちが互いにぶつかり合い、会場のあちこちから悲鳴と怒号が飛び交っていた。
「く、くはははははっ!! これではもう、演奏どころではなくなっただろう。あの小娘のステージはおしまいだ。ざまあみろ!! はーっはっはっは!!」
組み敷かれたザカリーが、勝ち誇った高笑いをあげた。ロットはルタに魔笛を手渡し、暗がりの先をじっと見据える。
「オレはシャルのところへ行ってくる。ルタ様は、そいつを見張っててくれ」
「うむ、任せておけ」
混迷する人々の流れに逆らいながら、ロットはステージを目指して駆けだした。