星降る夜のメロディ (2)
ルタは二人を先導すると、広場から離れたところにある小さな酒場の扉を叩いた。
表に“緑花の彩り亭”と掲げられたその店は、昼下がりを過ぎて客足もまばらだ。
ホール隅に設えられた大きめのテーブルにつくと、老爺は給仕の女性に三人分の軽食と飲み物を注文する。
程なくして運ばれてきたのは一口大に揚げられたひよこ豆のパニスと、陶器のカップの中で芳しい湯気をたてるホットワインだった。
「わたしの本名は、シャルロッテ・マトリシア。……わたしの家ね、元々は貴族に仕える楽士の家系だったの」
「だった……ってことは、今は違うのか?」
「ええ。わたしの父、ディーターはミューザでも名の知れた楽士だったけど、それだけに敵も多くてね。横領の嫌疑をかけられ、投獄されてしまったの」
「ひどい話だな……」
「密告した張本人は、当時父の弟子をしていたあの男……ザカリーだって言われてる」
カップを包み持つシャルの手に力がこもる。感情の昂りに共鳴するように、赤い水面に小さくさざ波が広がった。
「疑いは晴れることなく、父は獄中で失意のうちに亡くなったわ。お家は取り潰しの上で家財は没収され、わたしと母は屋敷を追われた。父が生前によくしてもらった人の伝手でどうにか食い詰めずには済んだけど、今は下町でその日暮らしを送るのが精一杯よ」
「では、シャル殿の音楽は父君の忘れ形見なのじゃな?」
ホットワインを一口含んでから、シャルは寂しげな微笑を浮かべて首を横に振った。
「残念ながら違うかな。わたしが父から学べたのは、ほんの基礎だけだったから。屋敷を後にする時、唯一持ち出せたリュートを、私が勝手に弾いてるだけなの」
「独力であそこまで上達したというのか。大したものじゃな……」
「きっと、先生がよかったの。わたし達を手引きしてくれた人が、貴族から睨まれるのを承知の上でこっそり教えてくれたから……」
「例えそうだとしても、シャルの腕前は間違いなく本物だったと思う」
「あはは。ありがとね、ロット君」
「だから、子供扱いするなって」
はにかみながら頭を撫でてくるシャルに対し、ロットは複雑そうな面持ちを浮かべた。頭上の手をやんわり払いのけると、照れ隠しに皿の上のパニスを口へ放り込む。
「大体事情はわかった。あのザカリーっておっさんが、シャルにちょっかいをかけてくる理由も含めてな」
「あの男は、わたしが音楽の道を諦めてないことが面白くないみたい。最近は破落戸まで雇って、さっきみたいに邪魔してくるのもしょっちゅうよ」
「ひょっとしたら、シャルの父親を陥れた件をバラされたくないのかもな」
「わたしみたいな小娘の訴えじゃ、貴族は動いてなんてくれないけどね。でも、わたしが歌い続けていって、いつか父の名誉を取り戻せたらと思ってる」
空になったカップを置くと、シャルは二人をまっすぐ見据えながら先を続けた。
「もうすぐ、この街で毎年恒例の音楽祭が開かれるの。目玉は最終日の夜に行われている野外ステージで、父も若い頃にそこで名をあげたって母から聞いたことがあるわ」
「ほう。ならば、シャル殿もそこに出るつもりなのじゃな?」
「ええ。ステージで優れた結果を残せたら、きっと音楽家としてのチャンスに繋がるわ。……屋敷を出てから、母はお針子をしながら女手ひとつでわたしを育ててくれた。でも、そのせいで無理が祟ってしまって、最近は病に臥せがちなの」
「シャル……」
「わたしは父と同じ音楽の道で身を立て、今まで苦労をかけてきた母の支えになりたい。だからこそ、この音楽祭だけはどうしても負けられない。だけど……」
「皆まで言わんでもわかる。儂らにあの、ザカリーめの妨害から守って欲しいと……そう言いたいのじゃな?」
「はい。わたしの家、貧乏ですけど……それでも、できる限りの謝礼はお支払いします。どうか、力を貸して頂けませんか?」
深々と頭を下げるシャルを前に、ルタは鷹揚に頷いてみせた。
「あいわかった。元よりシャル殿の助けになるつもりじゃったからの。ロットよ、お主も異存はあるまい?」
「当たり前だろ。今度こそ、あのザカリーとかいう奴をとっちめてやる」
「ありがとう、ルタさん。ロット君も……」
「やれやれ、まだ懲りておらんようじゃな。儂らの役割は、あくまでもシャル殿の演奏を陰ながら応援すること。相手に危害を及ぼす類いの術は、一切禁止じゃからな」
「け……けど、ルタ様。相手は何をしてくるかわかったもんじゃ……」
「黙らっしゃい。お主、まだ書き取りの罰が足りんと見えるな」
「げっ。それだけは勘弁してくれ……」
「ロット君。あまりお師様を困らせちゃ駄目だよ?」
「くっそぉ、シャルまで一緒にならなくても……」
膨れっ面で応じるロットの様子に、シャルがくすくすと笑う。
こうして二人は、一時的にミューザの街へと逗留することになった。
◆
それから、音楽祭へ向けての日々が始まった。
午前中の基礎練習を終えた後は、街へと出て様々な場所で弾き語りを披露する。
楽士を志す者が集う中央広場をもっぱら活動の拠点としていたが、人々から頼まれればシャルはどこであろうと演奏に応じた。
酒場での歌唱はもちろん、市場の売り込みや大道芸の前座、孤児院や養老院の慰問などその活動は多岐に渡っていた。
やはり案の定というべきか、ザカリーは彼女が行く先々に手勢を送り、あの手この手の妨害工作を仕掛けてきた。
観客に混じって野次を飛ばす程度は序の口で、時には舞台裏に忍び込んで楽器に細工をしたり、演奏中に乱入して狼藉まで働こうとした。
だが、それらのことごとくはルタとロットの活躍で未然に防がれた。
市井の人々の少なからぬ者もシャルを支持し、却って知名度を高める結果となったのはもはや皮肉というより他になかった。
「くそっ。オレにもっと力があれば、あんな奴らただじゃおかないのに……」
「安直に力で解決しようとするでない。魔術とは元来からして、戦うための術ではないと教えたはずじゃろうが」
「わかってるさ。けど、ルタ様のやり方ははっきり言って温過ぎる。放っといたら、次は何をしでかしてくるか……」
ルタに食ってかかろうとする少年の頭を、シャルが軽く小突いてたしなめた。
「こら、ロット君。お師様の言うことは、ちゃんと聞かなくちゃ駄目だよ」
「でも……」
「……ありがとね、わたしのために怒ってくれて。でも、それでロット君まであいつらと同じになっちゃったら、元も子もないでしょ?」
「それは……そうかも、しれないけどさ……」
納得がいかないとばかりに、ロットは視線を床に落として押し黙ってしまう。
そんなロットに、シャルは両手の拳をぐっと握っておどけてみせた。
「わたしは歌うたいだもん。仕返しなんかするよりも、自分の音楽であいつらを見返してやった方が爽快じゃない。わざわざ君が、悪者になる必要なんてないんだよ」
「……強いんだな、シャルは」
「やだなー、そんなんじゃないってば。さて、次はパン屋のおじさんのとこだよ。新作の宣伝に、是非ともって頼まれちゃってるんだから」
「あっ、おい……」
革張りのケースにしまったリュートを背負い直すと、シャルは目的地に向かって足早に歩き始める。歩調に合わせて軽やかに揺れる栗色の髪の房を、ロットはルタと共に慌てて追いかけるのだった。