精樹の森のドライアード (5)
「ルタ様……」
「お主の名を、聞かせてもらおうか」
「ええ、私の名はスエンです。……そして、今のオレはロットでもある」
覚醒した少年の回答に、ルタは満足げに頷いた。
「どうやら、無事にスエン殿の霊体を制御下に置くことに成功したようじゃな。よくぞ、儂の術に耐えきった」
「ありがとうございます、ルタ様。私のような者にこのような機会を与えてくださって、心より感謝いたします」
そう言って、深々と頭を下げる。ルタが施した憑依の術法によって、ロットとスエンの精神は見事に同調を果たしていた。
現在は主導権をスエンに譲っており、細かい仕草や表情、言葉遣いはロットのそれとはすっかりかけ離れてしまっている。
「礼には及ばぬよ。その少年が身を挺してお主を救おうとしなければ、儂とてこのような手には踏み切れなかったのじゃからな」
「ええ、そうでしたね。ロット様、あなたにも深くお礼申し上げます」
「……やめてくれ。自分で自分に返事するってのも、何だか変な気分になる」
「さて、あまり悠長に構えてはおれぬ。制御に成功したとはいえ、他者の精神との同調にかかる負荷は決して軽くない。早速、アーニャ殿の説得に向かうとしよう」
「はい、承知しました」
未明の闇に包まれた森の中を、魔術の明かりだけを頼りに進んでいく。
森と集落とを結ぶ三叉路の手前、看板の残骸が打ち捨てられていた場所に、森の精霊は変わらず佇んでいた。
「アーニャ……私の声が、聞こえるかい?」
「……――、――?」
少年の姿を借りたスエンが、ドライアードへと静かに語りかける。色褪せた芒色の髪をなびかせた少女は、無言のまま虚な眼差しをぼんやりと向けるのみ。
一歩。また一歩。少年はゆっくりと、ドライアードの元へ歩み寄っていく。
「君はあの時、私にこう言ってくれたね。『謝らないで、スエン。このお役目は、誰かが引き受けなくちゃいけない。それに、村のみんなをずっと見守っていけるなら、わたしは十分に幸せだよ』って」
「――、――」
ロットの口を借りて紡がれた、スエンの言葉。
彼と同調した少年の精神は、その一言一句、心境に至るまでを克明に再現していた。
「私が馬鹿だった。それでも私は、君の優しさに甘えてはいけなかった。あの精霊使いの甘言などに、耳を貸すべきじゃなかった」
「ス、エン……?」
声なき声が確かな音を紡ぐ。幼い少年の背丈は、アーニャの胸元程度にしか満たない。少年を見下ろす少女の瞳に、一条の涙が伝い落ちた。
「ゴメ……ン、ナサイ。みんナヲ……コロス、ツモリ……ナカッタ、のに」
「謝ったりしなくていい。君はただ、村のみんなを思って行動しただけなのだから」
「アァ……。スエ、ン。ワタし、ハ……」
大粒の涙を零し続けるドライアードの背中に、少年がそっと腕を回す。
「ありがとう。今までこの森を守ってくれて。でも、もういいんだ。一緒に空へ還ろう、アーニャ」
「……ウレ、しい。ワタ、し……スエ、ント……イッショ……」
「ああ、そうだ。これからはずっと一緒だ。もう絶対、君を一人にはしない」
「アぁ……ダイ、スキ。スエン……ズット、ダイスキ……」
抱き合った二人の身体が蛍火に包まれ、ゆっくり溶けあっていく。やがて一つになった魂が少年の肉体を離れ、天高くへと昇っていった。
心身への負荷が限界に達したのだろう。ロットは力なくその場に膝をつき、駆け寄ったルタによって支えられる。
「……これで森は、元通りになるんだよな?」
「うむ、精霊の呪縛から解放されたことで、元の営みを取り戻していくじゃろう」
霧が晴れた森の樹冠に、柔らかな朝の陽差しが降り注ぐ。
長く閉ざされてきた“精樹の森”に、ようやく夜明けが訪れたのだ。
「……なあ、爺さん」
「ルタ様、じゃ。非常時ゆえ大目に見ていたが、呼び方が昔に戻っておるぞ」
「はは、悪い。……亡霊には意思が存在しないって、さっき言ってたよな?」
「うむ」
「オレにはそう思えない。スエンさんの中には、アーニャさんへの想いが残されていた。だから、あれは間違いなく本人の意思だったんだってオレは信じてる」
「そうか……。そうかもしれんな」
スエンとアーニャ。天へと昇る二つの魂が、去り際にロットへ残してくれた言葉。
『本当にありがとう。君の勇気と優しさのおかげで、私はもう一度アーニャに会えた』
『あなたのこれからの未来が、たくさんの幸せで満ち溢れていますように』
満ち足りた二人の笑顔を胸に刻み、ロットは静かに空を仰いだ。