精樹の森のドライアード (4)
「それで、ルタ様。オレは一体、何をすればいいんだ?」
すっかり日が沈んだ頃合いを見計らって、二人は再びスエンの家を訪れていた。
朽ち果てた家屋を前に、ルタは自らの弟子に対して問いかける。
「ロットよ。かつて女神が人に授けた、魔術の系統について覚えておるか?」
まだ、旅立って間もない頃。旅路の空でルタより教わった、魔術の成り立ちについての講義を思い返す。
「えっと……。確か、魔術、治癒術、召喚術、錬金術、闘気術……だったよな?」
「左様。お主が知るにはまだ早いと思って、伏せておいたのじゃがな。心霊術……精神と霊体の働きを操る、第六の魔術系統が存在する」
「第六の、魔術系統……」
ひとたび取り扱いを誤れば、容易く邪法へ堕ちる危険性を孕んだ禁断の魔術系統。故に死霊術とも称され、存在そのものを忌み嫌う者も少ない。
「心霊術の術法には、憑依と呼ばれるものがある。他者の肉体に霊体を宿らせる術でな。これを行使し、スエン殿に仮初めの肉体を与えるのじゃ」
「仮初めの肉体……ようするに、思考の核を与えることで、スエンさんがアーニャさんを説得できるようにするのか?」
「飲み込みが早いな、ロットよ。術をかけられた者はスエン殿と精神を同調させ、生前の彼の意思を代弁するようになるじゃろう」
師の言葉が何を意味しているかを、ロットはすぐさまに理解した。すなわち、スエンの霊体をその身に降ろすのは、他ならぬ自らの役割ということだ。
「二百年の歳月を経た亡霊の精神は、アーニャ殿と同様に著しく変質しておるじゃろう。それに対し、お主はまだ十年程度しか生きておらぬ。心身ともにまだ未熟で、その負荷は成人より遥かに重いと心得よ」
「最悪の場合、オレがスエンさんに乗っ取られる可能性もあるってわけか……わかった、肝に銘じておくよ」
底冷えするような恐怖を覚えながらも、ロットはきっぱりと頷いた。そもそも、ルタに協力を仰いだ時点で、ある程度の危険は折り込み済みだった。
しかし、老爺はそんな少年の決意を静かに否定する。
「ロットよ、お主に言っておくことがある」
「言っておくこと?」
「これから行使する術法は、お主の精神と肉体に過大な負担を強いるじゃろう。じゃが、儂とて自分の弟子が、むざむざと命を落とすのを傍観するつもりはない」
「え……?」
「お主が制御を失ったと判断した時点で、儂は強制的に術を解除する。いずれにしても、スエン殿の霊体が暴走しては元も子もない。その場合、儂は全力をもってドライアードを葬り去る。例え、この森そのものを灰燼に帰したとしても、じゃ」
「……ッッ!?」
その口調から、ルタの言葉に偽りがないとロットは理解した。
これまでロットは、失敗すれば自分が危険に晒される覚悟だけを決めていた。しかし、その認識では極めて甘いと言わざるを得ない。
ロットが霊体の制御を失うということは、スエンとアーニャの双方に破滅をもたらすということと同義である。
その上、被害は彼らだけに留まらず、この森に棲まう多くの動植物にまで及ぶ。それらすべての責任が、ロットの肩にかけられるのだと、ルタは暗に告げていた。
「怖気付いたか? 引き返すなら、今が最後の機会じゃぞ?」
「……いいや、オレはやる。やらせてくれ、ルタ様」
「そうか。これ以上は、何も言うまい。その覚悟、しかと見届けさせてもらうぞ」
荒れ果てた廃屋の暗がりに、青白く光るスエンの亡霊が佇んでいた。亡霊は先刻までと同様の嘆きを、ただ延々と繰り返し続けている。
「では、始めるとしよう。ロットよ、スエン殿の傍らに並ぶがよい」
「ああ、わかった」
ルタの言葉に頷くと、ロットはスエンの亡霊の隣に立つ。
樫の長杖を高らかに掲げつつ、老爺は静かに呪文の詠唱を開始した。
「寄る辺を喪い、彷徨う哀れな魂よ。汝にいま一度、仮初めの器を与えん――憑依!」
スエンの亡霊が姿を消すと同時に、耐えがたい感覚がロットに襲いかかった。
己の思考と肉体が、見知らぬ他者に侵されていく不快感。狂おしいまでの感情の嵐が、ロットの心を容赦なく蹂躙する。
無意識のうちに叫びをあげつつ、ロットは必死で自我を繋ぎ留めようと抵抗した。
哀咽、絶望、憤怒、悔恨……二百年間、その存在を縛り続けてきた負の感情の前には、十歳の少年の精神などあまりに脆弱だった。
「ロットよ、亡霊の意識を完全に拒んではならぬぞ」
「う、ぐうぅ……っ!? じ、爺、さん……」
「心を平静に保つのじゃ。お主の目的は、亡きスエン殿の遺志の代弁にあると忘れるな。怨念に惑わされず、彼が生前に抱いていた本来の想いを見極めよ」
「スエンさんの……想い……」
次々と押し寄せる怨嗟に押し潰されそうになりながらも、ロットは必死でスエンの声に耳を傾け続ける。
どうして、彼女が選ばれてしまったのか。
どうして、彼女が死ななければならなかったのか。
どうして、村の連中は誰も反対しなかったのか。
どうして、私は彼女を見捨ててしまったのか。
……どうして、彼女は笑って私を許してくれたのか。
「あんたはただ、アーニャさんと静かに暮らしたかっただけなんだな……」
ロットの脳裏に、かつての村での情景が蘇る。
慎ましくも素朴な幸せに満ちていた、スエンとアーニャの日常。少年の目には、二人がお互いを想い合っているように映った。
『もういいんだ。あんたはもう十分に苦しんだ。オレと一緒に、アーニャさんのところへ会いに行こう』
『あの子は……私を許してくれるのでしょうか』
『許すも何も、アーニャさんはスエンさんを恨んでなんていないさ。最後の夜にだって、泣き崩れるあんたを笑って慰めてくれたじゃないか』
『……ええ、そうですね。あの子はいつも、他人のために笑ってばかりいましたから』
『さあ、行こう。この森で起きた悲劇を、ここで終わらせるために』
うずくまる青年の手を力強く引いたところで、少年の意識は急速に遠のいていった。