精樹の森のドライアード (1)
その森には、古くより伝わる伝承があった。
森にけぶる深い霧は如何なる者の侵入をも拒む。鬱蒼と茂る樹々の並びは移ろい続け、一度として同じ姿を留めることはない。
数多の旅人が森に立ち入ったまま、再び戻ることはなかった。命からがら逃げおおせた人々の中には、得も言われぬ美しい森の精を見たと語る者もいたが、真偽を確かめる術はどこにもなかった。
いつしか森は禁足地とされ、誰もが往来を避けるようになってしまった。国土の大半を森が占めている聖王国の地図上でも、その一帯には不自然な空白が広がっている。
“精樹の森”――霧に閉ざされた彼の森を、人々は畏敬の念を込めてそう呼んだ。
◆
人の手が入らなくなって久しい荒涼とした道を、二つの人影が進んでいた。
一人は老爺。獣道をものともしない立ち姿は、老いさらばえた外見に見合わぬ力強さを見る者に感じさせる。
そして、老爺がかき分けた草むらを辿るように、もう一人の少年が後ろに続いていた。
老爺は樫を削りだした長杖、少年は先端に輝石の付いた小杖をそれぞれが携えており、二人が魔術の師弟であるのは明白だった。
「なあ、ルタ様。本当にこの森に入ってもよかったのか? 麓の里で聞く限り、この森はかなり危険な場所なんだろ?」
「案ずるでない、ロットよ。この森に漂う気配には、邪なものが感じられぬ。こちらから手を出さぬ限り、すぐさま害を及ぼしはすまいよ」
「けど、現にもう随分歩いてるってのに、まったく先が見えないぞ。何だっていきなり、こんな森に立ち寄ろうなんて言いだしたんだ?」
長年に渡って、旅人たちを悩ませてきたという迷いの森。
その噂を聞きつけたルタが、針路を転じて森へ立ち入ったのがつい今朝がたのことだ。
出発時は澄み渡っていた空も今となっては灰白色の霧に覆われてしまい、一寸先さえも満足に見通せない。
「儂が知っておる限り、この地はごくありふれた森林地帯だったはず。それがどうして、禁足地などと呼ばれるようになったのか……少しばかり、気になってしもうての」
「流石にそれは、ルタ様の記憶違いなんじゃないか? ここが“精樹の森”なんて名前で呼ばれるようになったのは、かれこれ二百年は前の話だって聞いてるぞ」
「はて、そうじゃったかの?」
「しっかりしてくれよ、ルタ様……」
とぼけた反応を示す老爺に、ロットは深々とため息をついた。
「いくらルタ様が長生きしてるったって、そんな昔じゃ生まれてすらいないはずだろ」
「ほっほ、それは然り。じゃがな、近隣の者たちもこの村には大層悩まされている様子。困窮する人々に手を差し伸べるのも、魔術師としての務めといつも言うておろう」
「それは、そうだけどさ……」
さして気にした風もなく進んでいくその口調は、どこまで本気なのか判別がつかない。時折りこうして師が見せる飄逸ぶりには、ロットもほとほと参っていた。
樫の杖で下生えを払いのけながら、ルタは森の奥へと分け入っていく。視界は霧で常に満たされているものの、森の大気は清浄そのものだ。
梢を行き交う鳥の鳴き声、茂みを揺らす小動物の足音。生物の気配が色濃く感じられる一方、妖魔の類いとは出くわすことがない。まるでおとぎ話の中でのみ語られる妖精族の守りが、今もなお働いているかのようだった。
そうしてしばらく進み続けたところで、二人は不意に歩みを止めた。
どこまでも続いている小径の先に、一つの人影が佇んでいるのが見える。
「ルタ様、あれは……!」
「ドライアード……樹木に宿る精霊の一種じゃな。下手に刺激するでないぞ。あれは人の敵意に対し、とても敏感じゃからな」
無意識に小杖を握り締める少年を、老爺はそっと制する。
立ち込める霧の中に浮かび上がる、年若い娘の姿。
薄衣を身に纏い、色素の抜けた芒色の髪を風になびかせている。半ば透き通った輪郭と生気の感じられない眼差しは、美しくも人ならざる者のそれであった。
「――、――――」
「儂らはそなたに危害を加えるつもりはない。無論、この森そのものに対してもな」
「あいつが何を喋ってるかわかるのか?」
「朧げではあるが、おおよその見当はつく。どうやら、この森を守護するよう命令されておるようじゃな」
「命令だって……? それじゃ、この森を閉ざした張本人がどこかにいるってことか!?」
ロットの疑問に対し、ルタは無言のまま首肯した。精霊との対話を終え、小径のさらに先へと歩みを進める。
「放っておいても平気なのか?」
「あの精霊が命じられておるのは、森に害意を持つ者を阻むことだけらしい。こちらから手出しをしなければ、向こうから手を出してはくるまい。……それに」
「それに?」
「森がおかしくなった原因は、どうやらこの先にあるらしい」
そう言ってルタは、手にした長杖で前方を指し示す。
老爺の視線の先に、苔むして朽ちた看板が打ち捨てられていた。文字の大半が風化してしまっているが、かつてこの先に人里が存在していた名残りだろう。
看板が指し示す方角へ向かう二人を、森の精はただ静かに見守り続けていた。