迷いと祝福と (1)
かざすその手に、光が灯る。
弱々しくほのかに揺らめく魔力の輝き。たどたどしい詠唱と同調するかのように、光が少年の手のひらで明滅を繰り返していた。
「小さき散光、星の瞬き。我が呼びかけに応えて来たれ。その光は僅かなれど、暗き闇を拓く導べとならん――」
そもそも一端の魔術師であれば、この程度の術の発動に詠唱など必要としない。詠唱に頼らざるを得ないのは、ひとえに現状の実力でこれが限界であるがゆえに。
「魔力の流れを意識するのだ。己の内にある魔力を呼び水に、外界に満ちる大いなる力を手繰り寄せよ」
「はい、ルタ様」
秋を迎え、木の葉が紅く色づき始めた頃。ルタはロットに魔術の実践を許可した。まずルタが最初に課したのは、魔術の中で最も初歩とされる明かりの術法。
まだ陽が昇りきらぬ早朝の薄闇の中、ロットは額に汗を浮かべながら詠唱を繰り返し、循環する力の流れを掴もうと試みる。
しかし、少年の思いとは裏腹に結果は芳しいものではなかった。一度は灯りつつあった魔力の明かりは、あえなく立ち消えて虚空へ霧散してしまう。
「くそっ……また、失敗だ」
「焦りは禁物じゃぞ。魔力の制御は、一朝一夕で成るようなものではない。心を乱さず、精神を集中させるのだ」
「はいっ!」
ルタの励ましを受け、ロットはもう一度手のひらに意識を集中させた。目の前の一点を凝視し、そこに力を結実させるイメージを思い描く。
「小さき散光、星の瞬き……」
頭の中で理解していても、いざ実践となると思うようにはいかなかった。焦りばかりが募っていき、ますます集中が乱されていく。
(あの子はこれから先、今よりずっと強くなるわよ)
こんな時、決まって脳裏をよぎるのは故郷で知り合った女性の言葉だ。
レイリと名乗っていたあの女剣士の風説を、ロットは旅の道中で何度も耳にした。
村で会話をしていた時は知る由もなかったが、どうやら彼女は大陸で知らぬ者がいない凄腕の剣客であったらしい。
曰く、生ける伝説。
曰く、神出鬼没。
曰く、自由奔放にして無頼無双。
先代の剣帝を弱冠十八歳という若さで打ち破った女傑。特定の組織に属さず、己の気が向くままに国々を渡り歩いて騒動を巻き起こす嵐の目のごとき存在。それが、風の剣聖と名高い彼女の真の姿だった。
そして、そんな彼女の下で今も修行に明け暮れているであろう、一人の少女を想う。
(フィア、オレは……)
初めて村を訪れた時に目にした、儚げに揺れる榛色の瞳が今も心に刻まれている。村で孤立し、一人ぼっちでいる少女に、ロットは手を差し伸べずにいられなかった。
フィアを元気づけるために、色々な話をした。自分を物知りだと言ってくれた彼女に、精一杯の背伸びをして自らの知識を披露した。
時には喧嘩や仲直りをしたりもして。ゆっくりとした歩みではあったものの、フィアは少しずつ前を向く気力を取り戻しつつあった。……そう、思っていた。
しかし、それはとんだ思い違いだった。フィアに立ち直らせるきっかけを与えたのは、ふらりと村に立ち寄ったあの女剣士だった。
自分がいかに手を尽くしてもできなかった難事を、彼女はたった一夜でやってのけた。その事実は、ロットに深い衝撃と無力感を抱かせるに十分だった。
(もっと、強くなりたい……!!)
不甲斐なかった。フィアの支えになりたいと願いながら、実際には何の役にも立たない自分が情けなくてたまらなかった。
だからこそ、ロットはルタに弟子入りして生まれ育った村を後にした。彼女に並び立つ力を得るため、修行の旅に出たのだ。
しかし、現実は甘くなかった。培ってきた知識は大した助けにならず、実践ともなればこの体たらく。こんな初歩的な魔術に躓いていては、魔術師になるなど夢のまた夢だ。
こうして手をこまねいている間に、フィアは着実に腕を磨いているに違いない。自分と彼女の間に横たわる差は、刻一刻と開いていくばかり。
そう思うとロットの心は千々に乱れ、黒々とした焦燥が胸の裡に渦を巻くのだ。
「……いかん、ロット。それ以上、魔力を放出するでない!!」
「ッッ!?」
ばつん、と弾けるような音を立て、光球がまばゆい閃光を放ち消滅した。咄嗟にルタが余波を防いでくれたものの、鼻をつく焦げ臭さが周囲に立ち込める。
「はぁ、はぁ……」
「集中を乱したな。ロットよ、雑念に囚われていては、魔力の制御などままならぬぞ」
「すみません、ルタ様。次こそは、ちゃんと……」
よろよろと立ち上がりながら、手をかざそうとするロットをルタがたしなめた。
「もうよい。今日はここまでとしよう」
「まだ、いけます。だから、もう少しだけ……っ!!」
「やれやれ、己の状態も把握できておらぬとは。今のお主では、これ以上続けたところで徒に魔力を消耗するだけじゃ」
「けど……!!」
なおも食い下がり、抗弁する言葉をルタがぴしゃりと一蹴する。
「いいから、今日は休むのじゃ。時には立ち止まり、己を見つめ直すことも修行のうちと心得よ。さ、戻って食事の支度をするとしよう」
「待ってください、ルタ様!!」
そう言い残すと、ルタは背を向けその場を後にしてしまう。その場にただ一人残されたロットは、行き場のない苛立ちに拳を握り締め、すぐ側の立木の幹に叩きつけたい衝動を必死になって堪えた。
「フィア……。こんなんじゃ、オレ……っ」
ぽつりと呟いた言葉は誰に届くでもなく、風にさらわれて空へと消えた。
◆
それからしばらく経ち、二人はある町へと立ち寄った。
聖都セレスタインからおよそ三〇里の距離にあるこの町は、古くより交易の要衝として栄えてきた歴史を持つ。
大通りに様々な商店が立ち並んでおり、海千山千の商売人たちが道ゆく者を引き留めようと躍起になっている。
どこまでも続く人波に揉まれて辟易するロットに、不意に声をかける者がいた。
「……そこの君、ちょっといいだろうか」
「え? オレ……ですか?」
「ああ、やっぱりそうだ。君はあの村にいた少年だろう。私のことは覚えているかい?」
振り返った先にいたのは、黒地に金糸の刺繍が施された修道服姿の女性だった。
切れ長で涼しげな眼差しと、中性的な出で立ち。おぼろげながら見覚えのある風貌に、ロットは記憶の糸を手繰り寄せる。
「あなたは確か、フィアを村に連れてきた……」
「覚えてくれていたようで光栄だよ。改めて名乗らせてもらうと、私の名はマルテ。この町の教会でシスターを務めさせてもらっている」
彼女はあの日、フィアのその父親を乗せた馬車の御者だった人物だ。
しかし、ロットとマルテに直接の面識はない。今は亡きフィアの母親であるリーシャが住んでいた“湖畔の水鳥亭”に二人を案内した後、彼女はすぐに村を発ったからだ。
「ロットといいます。その、どうしてオレを……?」
「なに、あの子を送り届けた時の君の表情が印象に残っていてね。しかし、こんな場所で会うとは奇遇だな。そちらの御仁は? どうやら、高名な魔術師殿とお見受けするが」
「申し遅れたが、儂の名はルタ。あの村の森で隠居しておる爺でな。故あって、この子と共に旅をしておる」
「なるほど、ご丁寧にありがとうございます。……ということは、ロット君。もしかして君は、魔術師に?」
「はい。実は……」
ロットから事情を聞くと、マルテは少しだけ意外そうな顔をした。
「そうだったのか。私はてっきり、君はあの村に残るとばかり思っていたのだけどね」
「どうしてですか?」
「どうしてって、それは……いや、すまない。私が口を挟むのは野暮というものだ。今の発言は忘れてくれ」
途中で言葉を濁し、曖昧に微笑んで頭を振ってみせる。ロットは彼女の言わんとする意味が理解できなかったが、それ以上は追及しなかった。
「ところで、あの子は元気にやっているかい? 彼女は村に送り届けた後も、それだけは心残りだったんだ。本当は村に残って彼女を見守ってあげたかったのだけど、とても村に留まれるような雰囲気ではなかったのでね」
「フィアなら今も、元気で暮らしてます。オレなんていなくても、あいつはきっと……」
「ロット君、君は……」
少年の胸に、鉛を飲んだような重い痛みが去来する。結局は自分など、彼女にとっては取るに足らない存在なのかもしれない。そんな考えが今も、ロットを苛み続けている。
マルテは思い悩むロットの顔をしばし見つめ、やがておもむろに口を開いた。
「なあ、ロット君。もしよければ、私と少し話をしてみないか?」
「話って、何の話ですか?」
「何って、私はこれでもシスターだぞ。迷える子羊に手を差し伸べるのは、むしろ本務といったっていい。ここで君と会ったのも、もしかすれば女神の思し召しかもしれない」
戸惑い気味のロットにそう言うと、マルテはルタへと向き直った。
「御老人。すまないが、少しだけ彼を預らせてもらえないだろうか。決して悪いようにはしないと約束する」
「儂は構わぬよ。今日は町に滞在するつもりじゃったし、存分に語らってくるがよい」
「感謝する。さあ、行こうかロット君。立ち話も何だし、教会まで案内するとしよう」
「え? あ、ちょっと……!」
マルテの勢いに呑まれるまま、ロットは教会へと足を運ぶことになるのだった。