アルコール製剤
時は前日の夜にまでさかのぼる。台所に立っている真梨は、手際よく様々な野菜を切り刻んでいた。彼女が取り扱っている食材は、ナツメグ、クローブ、それからカルダモンを始めとしたいくつかの植物だ。これらは食品ではあるものの、彼女の計画に貢献するものである。
「これくらい刻めば、あとは抽出するだけ……」
そう呟いた彼女は、切り刻んだ植物の残骸をボウルに入れた。そこに彼女は、無色透明の液体を注ぎ込む。その容器には、食品用アルコール製剤と書かれたラベルが貼られていた。彼女が何かを待ちわびている中、その脳内では悪魔が首を傾げている。
「ねぇ、堕天使。真梨は今、何をやっているの?」
「アルカロイドのようなものを抽出しているんだよ」
「アルカロイドのようなもの?」
それはどうあがいても、日常生活で耳にするような単語ではない。悪魔が困惑するのも、無理のないことである。そこで堕天使は、アルカロイドについて説明する。
「アルカロイドというのは、生物に含まれる成分でね。その多くは植物由来のものだよ。カフェインやニコチン、モルヒネなんかが有名なアルカロイドかな。アルカロイドやそれに似た性質の物質は、植物をアルコール製剤に浸すことで抽出することができるんだよ」
「なるほど……それで、真梨が使っている植物は、どんなアルカロイドを有しているの?」
「例えば、ナツメグに含まれるミリスチシンはアルカロイドではないけれど、中枢神経に作用する。向精神作用をもたらす一方で、幻覚作用などもあるから取り扱いには要注意だね」
カレーなどによく使われるスパイスも、量を間違えれば毒になる。当然、クローブやカルダモンにも類似した効果がある。そこで堕天使は、説明を続ける。
「クローブに含まれるユージノールは鎮痛作用を持ち、麻酔に似た働きをする。カルダモンには、不安やストレスを軽減する作用がある。これらのエキスをふんだんに配合した化合物を、薬膳と銘打ってバナナミルクに混ぜておくわけだよ」
「しかし量を間違えれば、副作用が出ることもあるんじゃ……」
「その時は、千郷を介抱して恩を売れば良い。マッチポンプは、火を点けたことがバレなければ英雄譚と同じ見た目になるからね」
あろうことか、計画には千郷が体調不良を患うという前提も組み込まれていた。そんな話を進めている二人の傍らでは、相も変わらず磔の天使が足掻いている。
「千郷の想いまで踏みにじるつもりか。それは、本当に愛なのか?」
天使は訊ねた。無論、マキャヴェリズムを極めた乙女の信念は、そう簡単に揺らぐものではない。堕天使はいつものように、善意の声を一蹴する。
「実らない恋は、苦しみでしかない。しかし真梨はもう、千郷を愛してしまった。この感情を不幸にしないためには、千郷を手に入れる必要がある」
「千郷の幸せはどうするつもりなの?」
「幸福というのは、あくまでも感情でしょ。欺瞞で築き上げる幸福もまた、幸福なんだよ。だから、幸福を演出すれば良いだけのことだよ」
もはや真梨には、正攻法で千郷の幸福を保障する意思などない。マキャヴェリズムの申し子は、幸福の在り方さえ選ばないのだ。
一方で、悪魔はまだ疑問を抱いている。
「だけど、そんな方法で千郷を攻略できるの?」
それはまさしく、当然の疑問であった。無論、真梨は今生み出している化合物を惚れ薬か何かだと思っているわけではない。
「この化合物は、あくまでも刷り込みの道具だよ。千郷が真梨と一緒にいる時に、多幸感を覚える――そういう条件付けを行うんだ。まあ、パブロフの犬やオペラント学習について調べればわかるよ」
手法を解説した堕天使は、舌なめずりをした。
真梨はスマートフォンを手に取り、面の数を指定できる電子ダイスを起動する。
「しばらくしたら、コイツの出番だね」