疑惑
翌日、真梨のクラスは、嬉々とした笑みに満ちていた。空箱を売った生徒たちが得た金は、それぞれ二千円だ。その額は、収入の限られた高校生からしてみれば喜ばしいものである。
「真梨、本当に二千円振り込んでくれた」
「あんたも売ってきなよ」
「今なら、まだ買い取ってくれると思うよ。ただの空箱が二千円で売れるなんて、上手い話もあるね」
彼女たちが真梨を疑わないのは当然だ。何しろ、普通の高校生活を送っている者からすれば、名簿業者などという存在を意識することはほとんどないのだ。
そんな中、ただ一人だけ「別格」の生徒がいた。
「それは見るからに、空箱転売の手法だよ」
そう発言したのは、一人の少女――小倉沙奈であった。彼女の一言に、女生徒たちは一斉に振り向く。
「空箱転売? ゲームの箱だけを売りつける詐欺みたいなやつ?」
「その辺の女子高生が、そんなことをするわけがないじゃん」
「仮に空箱転売をしていたとしても、私たちには関係のないことだしね」
それが彼女たちの答えだ。思わぬ利益を前にすれば、分別のつかない青少年は盲目的になる。その数少ない例外が、沙奈である。ただそれだけのことなのだ。
沙奈は続ける。
「ワタシはアナタたちが心配なんだ。このままだと、まずいことに巻き込まれないか」
事実として、真梨は手段を選ばない性分だ。あの少女が暴走すれば、その被害は計り知れないものとなるだろう。もっとも、その本性を知らない者たちからすれば、沙奈の言い分は杞憂に見えてしまう。
「大丈夫、大丈夫。別に、闇バイトとか薬の勧誘をされてるわけでもないしね」
「そうそう。ウチらは、ただ箱を売っただけ。今のところ、何も損はしてないよ」
「沙奈は考えすぎなんだよ」
案の定、少女たちは忠告を一蹴した。そこで沙奈は、更に踏み込んだ話を始める。
「そもそも現金払いじゃないことが怪しいね。アナタたちは、あの子に個人情報を握られている。おそらく、個人情報を悪用するつもりかも知れない」
「アタシたちの個人情報が、何に使えるの?」
「そうね……例えば、名簿業者の手に個人情報が渡れば、それは得体の知れない業者の間で共有されることになる。不審な不在着信があったら、真梨を疑ってもいいと思う。ワタシを信じて……『マヴ』のよしみで」
奇しくも、彼女の予想は的中していた。実際、真梨は同級生たちの個人情報を売却した。傍目に見れば、それは常人の想像を絶することである。
「沙奈は一体、真梨にどんな恨みがあるの?」
そう訊ねた生徒は、怪訝な顔をしていた。その後に続き、他の生徒も口々に沙奈を非難する。
「証拠もなしに人を責めたらいけないよね?」
「言いがかりなんだか、印象操作なんだか知らないけどさ。そういうの、性格悪いよ」
「そうだよ! ウチらにお金をくれた真梨が、悪いことをしているわけがないよ!」
沙奈を除いて、誰一人として真梨を疑っていない。それほどまでに、真梨の犯行には隙がなかったのだ。事実、沙奈が抱いているのは疑惑だけだ。疑惑だけでは、罪状を断定することはできない。しかしこの時、沙奈はこう確信する。
「これで、ワタシの言葉を印象に残せた。後はあの子の立ち振る舞いに綻びが生じれば、ワタシの提示した疑惑も正当なものになる」
この先、物事が彼女の思い通りに進むかは定かではない。ただ一つ言えるのは、彼女が誰よりも真梨という人物を理解しているということだ。
その心の中で、沙奈はふと呟く。
「真梨はワタシの大切な推し。だから、ワタシが真梨を壊す運命にある」
結局のところ、彼女もまた善性の人間ではなかった。言うならば、彼女は真梨と違う形での「悪」にすぎなかった。
含みのある微笑みを浮かべた沙奈は、静かにその場を後にした。