血の通った人間
宿敵の自己弁護を一笑し、沙奈は言う。
「司法を相手にする時ならば、証拠を残さないだけのことで許される。でも、アナタが今相手にしているのは、血の通った人間だよ」
その言葉の意図は、周囲にはわからなかった。ところが彼女は、まるで余裕を失っていない有り様だ。
「血の通っている人間が相手だったら、何がどう変わるの?」
そう訊ねた真梨は、ただただ怪訝な顔をするばかりであった。彼女だけではなく、他の生徒たちも困惑している。そして担任教師もまた首をかしげていた。そこで沈黙を破るように、沙奈はこう続ける。
「例え証拠がなくとも、人には疑惑だけで憤る権利がある」
「それが人間らしさであるならば、ワタシはそれを許すだけ」
「真梨……アナタは人より賢くて、それでいて戦略的な女だよ。だからこそ、こんな完全犯罪を遂行できる人間は、アナタしかいないんだよ」
確かに、真梨という少女は他者と一線を画する知能を持つ。そんな彼女が手を加えていなければ、他に犯行に及べそうな生徒は後一人だけだ。
「貴方はどうなの? 沙奈。貴方、妙にトリックの内容を具体的に語ったみたいだけど。少なからず、それが貴方に思いつき得る犯行ということになるよね」
真梨がそう言ったのも無理はない。彼女自身を除けば、最も犯行に及びそうな人物は眼前の宿敵しかいないのだ。
彼女の一言に、生徒たちも同調する。
「確かに、沙奈も怪しいぞ」
「どうなんだ、沙奈」
「自分が犯人じゃないと、どう証明するの?」
場面が成立し得る状況を事細かに話せる時点で、沙奈もまた怪しいと思われるのは当然のことだ。無論、沙奈も周りの反応を予期しなかったわけではない。して、彼女はこのことで周囲を叱責するような真似はしない。
「いいよ、ワタシを疑っても。だけどワタシは、アナタたちを信じる。アナタたちがワタシを信じてくれたら、ワタシは嬉しいよ」
相手を許すことは、相手を操ることだ。彼女は誰よりもそれを理解しているのだ。同級生たちが沈黙する中、沙奈は演説を続ける。
「千郷がどんなに孤立しても、真梨だけは千郷から離れなかった」
「クラスの雰囲気から読み取れば、それが打算的ではないことは一目瞭然なのにね」
「つまるところ、千郷を独占すること自体が真梨の目的だったということ……そうじゃない?」
その言説には妙な説得力があった。事実、あの時期に千郷に優しくすることは、決して自然なことではない。その上、真梨は「彼女だけに」優しく振る舞っていた。周りもそれを見てきた以上、あの女に向けられる疑いの目はより一層鋭くなってしまうだろう。
そこで真梨は流れを変える。
「私が千郷のことを想っているのに、千郷を追い詰めるはずがないよね。そんな発想が出てくる貴方の性格の方が、私は余程心配だよ」
確かに、普通に考えれば「千郷を追い詰めること」と「千郷を想っていること」が結びつくはずなどない。皮肉にも、真梨自身がその異常性を自覚していたのだ。証拠を残さないがゆえに裁かれず、異常であるがゆえに因果関係を証明されない。そんな彼女を止めることは、決して簡単なことではない。
されど、沙奈はここで引き下がるような女ではない。
「人の異常性というものは、理解できないんじゃない。理解したくないだけだよ。例えばニュースを見ていて、殺人犯の心情を理解しかけて、意図して踏みとどまるようなことはない?」
「……何が言いたいの?」
「独占したい相手がいるから、その相手から周囲の人間を引きはがす。これって、動機としては理解できると思わない?」
異常な因果関係を証明するには、その異常を理解させてしまえばいい――それが彼女の考えだった。その目論み通り、周囲は猜疑心の籠った目で真梨を睨み始めた。




