ひととき
ある日の晩、真梨は再びノーログポリシーのVPNと匿名ブラウザを使っていた。この時、彼女は深層ウェブに入り浸っていた。彼女は今、名簿業者に用がある。手元にあるのは、十数名もの生徒の個人情報だ。空箱を買い取る時、彼女は確かに口座情報を聞き出していた。して、それはこの瞬間を迎えるための布石でもあったのだ。
「順調だね」
真梨は笑った。当然の如く、その行為もまた彼女自身に対するリスクが低い。個人情報にまつわる犯罪もまた民事案件であり親告罪だ。その上、情報を売られた生徒たちには、彼女が黒幕であることを知る由などないのだ。これなら訴訟が成り立つか否か以前に、そもそも訴訟されないだろう――真梨はそう確信していた。
その翌日も、真梨は何食わぬ顔で登校した。周囲の生徒たちは、依然として彼女の本性に気づいていない様子だ。そして彼女にとって最も大事な人物――
「おはよ、真梨」
――千郷もまた、裏で起きていることを知らない。
「おはよう、千郷」
マキャヴェリズムに傾倒する真梨も、この瞬間だけは一人の乙女だ。千郷が席に着けば、その乙女は机に両手を突いて屈む。少なからず、両者の間には「親友」くらいの信頼が育まれてはいるらしい。さりとて、真梨には話の引き出しがない。どこか浮き世離れした感性の彼女には、日常会話は少しばかり難しいのだ。
そこで話を切り出すのは、千郷である。
「見て、真梨。この間、触らせてくれる猫がいたんだよ」
そんな他愛もない話題を振った彼女は、スマートフォンに保存された写真を見せつけた。先日、人の少ない公園で、彼女は人懐こい猫と戯れたようだ。
「ふぅん、サバトラかぁ」
それが真梨の第一声だった。しかし、千郷は首を傾げ、話を聞き出そうとする。
「サバトラ? この子の名前? それとも品種名?」
「どちらでもないね。そもそもサバトラというのは、毛色につく名前なんだ。シルバーの地色をした縞模様の雑種猫――くらいの認識で良いと思う。まあ雑種の方が遺伝的には病気に強いし、個体としては優秀だと思うよ」
「ふふっ……あはは!」
突如、千郷は笑った。その理由がわからず、真梨は少しばかり驚いている。
「私、変なこと言った?」
「だって、あーしは猫と触れ合ったってだけの話をしたのに、真梨ったら真剣に詳細な話をするんだもん!」
「はは……昔から、いわゆる雑談というものが得意ではなくてね」
そう語った彼女は、自嘲的な微笑みを浮かべていた。悪く言うならば、彼女にはやや変わり者の嫌いがある。彼女のそんな一面は、千郷から見れば愛しいものでもある。
「あーし、真梨のそういうところ好きだよ」
その一言に、真梨は頬を赤らめる。同時に、彼女はこう考える。
――やはり、自分はこの子を手に入れなければならない。
ほんの一瞬だけ、彼女は上の空になっていた。彼女の親友は、その瞬間を逃しはしない。
「真梨、照れてるの?」
「あ、いや……」
「真梨、可愛い」
千郷の愛ある追撃により、真梨は言葉を失った。それから担任教師が教室に到着し、生徒たちは各々の席に着く。そして真梨もまた、千郷との時間を名残惜しく思いながらも席に腰を降ろす。ホームルームが始まり、教師は真面目な話をし始めるが、真梨の心は千郷の存在で満たされたままであった。
結局、真梨を含めた全員は、いつも通りに学校生活を送っていった。そして放課後、真梨は千郷と共に帰路を歩み、楽しそうに語り合った。それは千郷からしてみれば何気ない時間だが、真梨からしてみれば何よりも暖かいひとときである。
「千郷」
「なぁに?」
「また明日ね」
「うん、また明日!」
千郷はまだ知らない。真梨が彼女を愛し、その思いを成就させるためならどんな手も行使するということを。