教育者の限界
その日の夜、真梨は匿名化されたレンタルスマホを操作し、何者かにSMSを送信した。そこに記載されているのは、例の音声データの共有リンクと忠告だ。その内容は、以下のようなものだ。
「先ずは共有リンクにある音声を聞いてください」
「いじめの責任は、世論としては概ね教育者に求められるでしょう。この事が公になれば、校長はあなたをスケープゴートにするはずです」
「そしてあなたに責任が問われることは、いじめ加害者やその保護者にとっては好都合です」
そう――彼女がSMSを送っている相手は、担任教師だ。こともあろうに、この女は教師さえも操ろうと目論んでいるのだ。それから数分後、SMSには既読がついた。そこで彼女は、教師を「他者に記録されない領域」へとおびき寄せる。
「続きはプライベートXというメッセンジャーアプリで話しましょう。プライベートXを導入したら、直ちにID:MOMOZONO_500にメッセージを送信してください」
手癖を見せないよう、彼女は敬語に気を遣っていた。それから更に十分ほど経過し、彼女のアカウントに通知が来る。
「先程SMSを受け取った石川です。用件をお願いします」
さっそく、新たな駒の候補がルアーにかかった。一先ず、彼女は教師の石川をシークレットチャットに誘導する。それから何の迷いもなく、彼女は常軌を逸した要求をする。
「萩原千郷の内申点を自然に下げてください。当然、慎重に行わなければ、あなたは内部告発をされる可能性があるでしょう。次に、萩原千郷を冷遇してください。こちらも、慎重かつ自然に行ってください」
それは担任教師からすれば、簡単に乗れるような話ではない。
「仮にも私は教育者です。不正に内申点を変えることはできません」
当然の反応だ。無論、ここで引き下がる真梨ではない。相手を丸め込むべく、彼女は畳みかけるようにメッセージを送っていく。
「あなたには、養うべき家族がいることでしょう」
「こちらの要求を呑まなければ、どのみちあなたの経歴には傷がつきます」
「本当に、人情に責任の所在を巡る争いを止める力があると思いますか?」
確かに、石川には生活がかかっている。彼からしてみれば、正体不明の何者かに己の人生を握られているも同然だ。
一方、担任教師の石川は自宅にいた。彼は家族写真を見つめ、かつてない葛藤を抱えている。さりとて、このまま易々と脅しに屈するのは、教育者にあるまじき行いだ。そこで石川は、脅迫文のスクリーンショットを撮ろうと試みた。
「スクリーンショットは無効になっています」
――無機質なスマートフォンが、冷淡な一文を表示した。ただそれだけだった。匿名メッセンジャーアプリでのやり取りは、証拠を残すことが難しいのだ。頭を悩ませる彼に、一人の少年が声をかける。
「お父さん、どうしたの?」
石川の息子だ。当然ながら、この話に幼い我が子を巻き込むわけにもいかないだろう。
「仕事だ。カケルは早く寝なさい。明日も、学校があるだろ?」
この場を切り抜けるには、息子を眠らせるしかない。つまるところ、石川は一人でこの案件を背負わなければならないのだ。
彼は深いため息をつき、真梨に返信する。
「了解しました。萩原千郷の内申点を低めに採点していきます」
それが彼の答えだった。彼は教育者である以前に、一つの家庭を背負った大黒柱でもあるのだ。彼が人生を奪われるということは、その家族もまた未来を失うということである。
一方で、真梨は邪悪な微笑みを浮かべていた。薄暗い部屋の中で千郷の写真を見つめ、彼女は内心で呟く。
「千郷は追い詰められるほど、私を必要とするはずだ」
兎にも角にも、彼女は担任教師すらも手駒にした。これから、千郷は更なる苦痛に苛まれていくことだろう。