遠隔操作
翌朝、真梨は辞典の外箱を自分の机に仕舞った。傍目に見れば、それは何気ない日常の一環でしかない。学び舎に英和辞典を持ち込み、それを机に仕舞っておくことは、決して怪しい行動ではない。
しかしその外箱の中身はラズベリー・パイ――リアルタイムで音声を回収できる実質的な盗聴器だ。
その日も、真梨はいつも通りの学校生活を送った。昼休みにはナツメグのミリスチシンなどの化合物を混入させたラッシーを千郷に振る舞い、そして何食わぬ顔で談笑した。彼女がそんな時間を過ごしていく中、その時は刻一刻と迫っている。
そして放課後――アリバイ工作のため、真梨は即座に教室を去った。彼女はレンタルスマホを操作し、ラズベリー・パイを遠隔起動する。その手さばきには、一切の迷いがなかった。それから近くの駅の改札を潜った彼女はイヤホンを装着し、音声編集ソフトを立ち上げる。一見、彼女はスマートフォンを操作しながら帰宅しているだけの少女だが、実際には今この瞬間に盗聴を行っている。イヤホン越しに、彼女は複数人の生徒の声を聴く。
「ねぇ、杏里。お金ちょうだい」
「また絵具を飲まされたくはないでしょ?」
「ウチらに従わないと、もっと酷い目に遭うよ」
相も変わらず、市立桃園女子高等学校の裏は闇が深い。真梨に盗聴されていることも知らずに、彼女たちは一人の生徒を詰めている。
「も、もうお金がないよ。次のバイト代が出るまで待ってよ……」
もはや杏里には、金を渡さないという選択肢はない。ただ、払えない時には払えないというだけのことだ。このまま第三者が介入しなければ、彼女はずっと三人の餌食になるだろう。
「二人とも、押さえてて」
三人組のうちの代表格は、冷たい声でそう言った。直後、イヤホン越しに、不穏な声が響き渡る。
「暴れないで!」
「ほら! 手、どけて!」
真梨の元に届く情報は音声だけだが、その光景は容易に想像がつく。電車に揺られつつ、彼女は表情を崩さないよう心掛けていた。それから数秒も立たないうちに、主犯と杏里の声が交互に響く。
「ほら!」
「痛っ……!」
「何うずくまってんの? ほら、ほら!」
「やめて……」
「お前いつもいつもウゼェんだよ!」
これはただならぬ事態だ。もっとも、これは真梨からすれば好都合な展開である。
「こんな強烈な証拠が残れば、あの子たちも操られざるを得なくなる」
そんなことを考えた彼女は録音を終え、それをノーログポリシーのクラウドに保存した。そして証拠隠滅のため、彼女はラズベリー・パイ側に残った録音データを速やかに削除する。無論、このまま録音データを交渉材料にする手もあるが、そこで更なる工夫を凝らすのが御巫真梨という女だ。
やがて自宅に着いた真梨は、自宅にあるデスクトップパソコンを起動した。クラウドから録音データを取り出した彼女は、作曲ソフトを開く。そう――本来なら、これは楽曲を作るためのツールだ。されどそのために搭載されている既定の機能やプラグインには、音声を調整する技術がある。
「机の中……それも、辞典のブックカバーや外箱に密閉されたマイクの拾った音だからね。多少いじくらないと、音声がクリアにならないだろう」
そんなことを脳内で呟いた真梨は、淡々と音声ファイルを編集していった。そうして約三十分後、ついに交渉材料が完成した。
さっそく、真梨はノーログポリシーのVPNと匿名ブラウザを使い、SNSで探りを入れる。彼女が見つけたのは、あのいじめに関わっていた三人のアカウントだ。さっそく、彼女はそれぞれのアカウントに、編集した録音データと以下の用件を送る。
「この証拠をネットにばらまけば、あなたたちの人生は終わります。これからは私の指示に従ってください。詳細は、プライベートXで話しましょう。ID:MOMOZONO_500」