血の繋がらない兄が優秀すぎてわたしはダメな子になってしまった
わたしが小学校五年生の時から、高校二年の冬まで、わたしの家には従兄弟が一緒に暮らしていた。
中学入学と同時に、雅兄はうちの子同然になったのだった。
一人っ子だったわたしは、二つ年上のお兄ちゃんができることに飛び跳ねるぐらい喜んだ覚えがある。
無邪気だった。
「よく来たね、雅俊。これからはここが自分の家だと思っていいからな」
パパが優しくそう言うのを前にして、雅兄はなんだか泣きそうな佇まいで俯いていた。食堂には椅子が六脚もあるのになぜか誰もが立っていた。ちょっとお葬式みたいだなとわたしは思っていた。
寝具店をやっている伯母さんの家にはあまり行った覚えがない。それなのになぜか、一人息子の雅兄とは幼い頃からよく遊んでもらっていた。
雅兄がお兄ちゃんになってくれるのは、わたしには『ねがったりかなったり』だった。昔から夢見ていたことが叶った気分だった。
早く一緒に遊びたいのに、早く二人きりになって甘えたいのに、パパとママが雅兄にほぼ一方的に長話をするので、わたしはイライラしていたっけ。
「ここが雅兄の部屋だよ」
わたしが案内した六畳ほどの広さの洋室には、まだ何もなかった。わたしの弟か妹が産まれることを予定して両親が作っていた、結局誰も使うことのなかった部屋だった。長いこと物置きとしては使われていたが、月に何度かは家政婦の福田さんが掃除をしていたので、蜘蛛の巣だらけになっているようなことはなかった。
便利屋さんに頼んで中の物を片付けてもらっていた。壁も床も天井も真っ白なだけの部屋に、二人で段ボール箱を運び込んだ。中から次々と出てくる雅兄の持ち物を見せてもらうだけで楽しかった。
「これからあたしたち、兄妹になるんだね!」
組み立てたばかりのベッドに並んで座り、わたしは少し距離をとって、肘と肘だけをくっつけた。
「嬉しい?」
その時の雅兄の表情は覚えていない。
笑顔をくれたことは間違いないのだが、きっとそのあと毎日生活を共にするうちに、薄れて消えてしまったのだろう。
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わたしの将来の夢は漫画家になることだった。
楽しかったりハラハラしたり、現実にはありえないほど色んなことが起こる夢の世界へ連れて行ってくれる漫画を、自分の手でも作り出したかった。
自分のペースで味わえて、自分の中にはないキャラクターの造形を見せてくれる。小さい頃からとにかく漫画が大好きだった。
「『ココミック・ウォーズ』の続き、描いた?」
雅兄は毎日のようにわたしにそう聞いてくれた。
わたしは中2になっていたが、色気のようなものとは縁遠く、バトルもののオリジナル連載漫画を毎日描くのが楽しみだった。描くとはいっても大学ノートに鉛筆描きで、いわゆるネームのようなものではあったが。
「えー? 描いたけど、ほんの2ページだけだよ?」
わたしは嬉しさを隠して、いつもそんなふうに言った。自分から『見て』とは絶対に言わずに、雅兄が見たがってくれるのをいつも待った。
わたしの下手くそな漫画をいつも楽しみにしてくれ、ギャグシーンにはよく笑ってくれた。
わたしのベッドに寝転んで、心から楽しそうにわたしの漫画を読んでくれた。
「心音はきっと漫画家になれるよ」
そう、言ってくれた。
自分の夢については、何も語らずに。
実際、今でも雅兄があの頃どんな夢を持っていたのか、わたしは知らないままだ。
わたしは漫画の途中に、必ず空白のコマを作っていた。
そのコマの上に『なんでも書いて』とか『○○を描きなさい』とか添えて。
雅兄のための落書きコーナーだ。
そこに雅兄は、とんでもなく面白いことを、惚れぼれするほど上手な絵で描いてくれた。
二つ年上だということを差し引いても、わたしの下手な絵とは比べようもないぐらい、雅兄の描く絵は上手だった。
わたしはそれを見てニコニコと楽しみながら、言った。
「雅兄こそ絵を描く人をめざしたらいいのに」
それに対する答えはいつも同じような感じだった。
「そんな夢みたいなこと考えてないよ」
何事も極めようとはしない人だった。
そのくせ何でもできて、それを自慢にはする。
ただ、いつでもどこか、冷めていた。
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わたしたちは家族だった。
雅兄は実の娘のわたしよりも、パパとママから愛された。
パパの仕事を継ぐつもりもないわたしと違って、勉強もできる雅兄に後継ぎとしての期待をしていたこともあるかもしれない。
それ以上に、何を考えてるかわからない宇宙人のような大人しいわたしと違って、雅兄は社交的で、誰からも愛されるような人だった。
絵もうまい。スポーツは万能。社会常識はよく弁えている。
だからわたしはなんでも雅兄に任せて、一人机に向かって漫画を描いていた。
嫉妬することもなく、かわいい妹になるわけでもなく、ただひたすらにダメな子になる道へ、わたしは邁進して行った。
高校二年生になってもわたしは恋愛に興味がなかった。
毎日つまらない学校生活を送り、頭の中は帰ってから描く漫画のギャグやバトルシーンのことばっかりだった。
ある日の夕食の時のことだった。
その時の献立のことは覚えていないが、わたしの右側に雅兄が着いていたことだけは確かだ。
一年留年してまだ高校三年生だった雅兄はまだ家にいた。
家族四人でテレビをつけながら黙々と食事をしていた。
わたしがソースを取ろうとした。ソースは雅兄が使ったばかりでその右隣に置いてあった。
手が届くところなので、取ってとお願いせずに、自分で取ろうとした。その時に雅兄がちょうど顔を前へ動かした。
わたしの手が、雅兄の唇に軽く触れた。
雅兄は何も言わず、不機嫌そうな顔をして食事を続けていた。わたしも『ごめん』も言わずにただソースを取った。それだけだった。
わたしの心に衝撃が生まれていた。必死に隠したが、食事どころではなくなっていた。
雅兄の唇は、気がおかしくなりそうなほどに柔らかかった。
今、それが自分のファースト・キスだったとわたしは思っている。恋してしまった同級生や憧れの先輩ではなく、不機嫌そうな顔をして食事をしていた身内が相手だったのである。
ロマンチックも糞もなかった。しかし、あの唇の感触を知ったあの日から、間違いなくわたしは『唇フェティシスト』になってしまった。
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雅兄が大学受験で東京に行った。
一週間ぐらい家にいなかった。そんなに長く雅兄と会えなくなるのは初めてのことだった。
わたしにとって雅兄は、もう『突然出来たお兄ちゃん』でも『ファースト・キスの相手』でもなく、日常の一部だった。
大好きだと意識するわけでもなく、顔を合わせてもお互いに特に笑うわけでもなく、いわば当たり前にそこにあるものだった。
共有する思い出が多いだけで、特に会話を交わすこともなかった。一緒にゲームをして遊んだりすることはあったが、二人とも学校で出来た友達のほうが大事だと思っているようだった。
ただ、わたしは両親がいない時に来客があった時の相手とか、そういう社交的なことはすべて雅兄に任せていた。そういう意味でわたしは雅兄に頼りきっていたのだと思う。
わたしは何もしなかった。ただ漫画を描いていた。雅兄がいれば、わたしは何をしなくてもよかった。
相変わらず雅兄はわたしの描いた漫画を楽しみにしてくれていたので、ストーリーを考えることは上手になったのだと思う。でも、雅兄みたいな上手な絵は描けない。わたしが原作を務めて雅兄が絵を描くなんて共作者関係になるようなテンションにもなれない。
雅兄は何になりたかったのかなと考える。
なんでも出来る人だった。でも努力することも、突出することも嫌いらしかった。
人の群れからはみ出さないように気をつけながら、無事に何事もなく一生を終えるのが彼の望みであるように思えた。
「雅俊の乗った飛行機が墜落事故を起こしたらしいぞ!」
血相を変えて階段を上がって来たパパの険しい顔を覚えている。
犠牲者名簿の中に雅兄の名前を見つけた時の、ママの崩れ落ちる泣き顔を覚えている。
自分の気持ちはといえば、突き放されたようなものだった。
雅兄は帰りの飛行機で事故に巻き込まれ、帰らぬ人となったのだった。
雅兄が東京に行っているあいだ、わたしは生まれて初めて『寂しい』という感情を味わっていた。
家の白い廊下が何もない空白のように見える日々を送っていた。
雅兄が家にいた時には便利な空気のようにしか思っていなかったのに、いなくなると自分の肺がなくなったかのように息苦しくなった。
そして二度と帰って来ないと知ると、突き放されたという感情しか起こらなかった。
ダメじゃない。
義妹をこんななんにも出来ない子にしてしまって、突然いなくなってしまっちゃダメじゃない。
雅兄……
あなたが優秀すぎるせいで、わたしはダメな子になってしまったんだよ?
突き放しちゃダメじゃない。