矜持
エメラルデラは一瞬、呼吸を忘れた。
ティータ…それは、この世界に生きる者ならば誰もが知るミドルネームだったからだ。
神国、帝国、所属する国が姓となるこの世界で個人を区別するために、ミドルネームは一族を興した最初の者、始祖の名前が代々引き継がれている。
そして、ティータという名を継ぐ一族はこの世界に一つしかいない。帝国の直系…かつ、皇位継承権を持つ者のみだ。
現在のチェンチアン帝国は銀の若獅子という、二つ名を持つ皇帝が治めている。血と毒で帝室を洗うような帝位争いの中、全ての異母弟妹を廃して君臨した現皇帝の治世は、長い帝国歴の中でもいよいよもって、隆盛を誇っていた。
皇帝の番となる竜の権能…個々の竜が持つ独自の能力の比類なき威も相まって、絶対的な地位を確立している。
その磐石な帝国における唯一の汚点と呼ばれるのが、継承権第二位を持つ実弟。名前はシエス────正に、目の前の人物であった。
皇弟を評する言葉は、こうだ。
竜の主でありながら、戦うことから逃げ続けている臆病者。
姿も現さず、民草からも忘れ去られた存在。
正に腰抜け。
そう語って聞かせてくれたのは、二国から出奔し旅をする吟遊詩人や、時折森に顔を出す行商達だった。
姓を持ちながら旅をする彼らは、流民出身の竜騎の一族であることが多い。
そのため、流民に対しての差別意識は殊更に低かった。
都市で価値のある砂金や鉱石と交換に、食料と情報をもたらしてくれる彼らの存在は、得難いものだった。
しかし、得た情報と目の前のシエスの印象は、全く一致しない。
実際に見たシエスには、人に頭を垂れさせるだけの存在感と、他人を従えるのに慣れきった厚かましさがあった。
シエスが堂々と掲げられた権力の前に、神国の人間であれ、帝国の人間であれ、普通ならば平伏するのだろう。
だが、エメラルデラは頭を下げる気になれなかった。
流民は全てから見離され、厳しい迫害を受ける反面、何にも囚われずに生きることができるという一種の誇りと、自負を持っている。
それが寄る辺なき流民の支えとなっていた。
自由の民である───
その意識はエメラルデラの中でも、確かに息づいていた。
ここで頭を垂れ、虚偽の姓を名乗り切り抜けることができたとしても、エメラルデラの矜持はそれを許さない。
毅然と上げられるエメラルデラの顔。太陽の欠片が、シエスに向けた眸子に宿る。
艶やかに輝くエメラルデラの瞳は、思慮と蛮勇とが適切なバランスでせめぎあい、燃えていた。
意志を示して引き絞られていたエメラルデラの唇が、開かれる。
「私は…、…エメラルデラ。姓は、ない」
凛と響いた声は、身分の壁を穿つような鋭さで、響いた。
一瞬の沈黙。
エメラルデラに向けられていた紅玉の眸が、見開かれていく。
果たして、そこに映るのは驚愕か、侮蔑か。
いずれにせよ、シエスの感情を推し量る気のないエメラルデラは、無言で踵を返しオダライアに跨がろうとした。
その途端、頭が後ろに反り返り首が絞まり、呼吸が止まる。
一拍遅れて、外套が他人の力によって引かれたのだと気付いた。
息苦しさを覚えると同時に、エメラルデラは嫌な記憶を思い出した。
それはテオドールが一度だけ連れてきた、私刑を受けた流民の姿だ。
手足を潰された男の苦痛の呻きは、エメラルデラの脳裏に生々しくこびりつている。
記憶の中の男の姿が、未来の自分を暗示しているように思えてならなかった。
壮絶な憎悪と暴力の嵐の直中に曝されるであろう予感に、諦念を覚えるのに反して、エメラルデラの胸中に反抗心が沸き上がる。
エメラルデラは覚悟を持って、携えてきたナイフの柄を握り直し、シエスへと身を翻した。
「ああ、待って!待ってください!危害を加えるつもりはありません!ヘルメティアも落ち着いて!」
首に突き付けようと引き絞った白刃が、シエスの肌に食い込もうとしていた瞬間、万歳とばかりに持ち上がるやたら長細いシエスの両腕。
思わずエメラルデラは動きを止めると、シエスの声に釣られて彼の背後に目を向けた。
そこには宝石さえ見劣りするような、輝かんばかりの美貌の女性がいた。
踏み込む動きに流され、落ちたフードから露わになるのは星を宿したような蒼玉の髪。
鮮やかに芽吹く菫の瞳は、今は蒼炎を孕み、エメラルデラを睨み据える。
気配も音もなく伸ばされたヘルメティアの腕はシエスの肩越しに突き出され、繊手は確実にエメラルデラの秘中を狙っていた。
シエスの声がなければ、地面に横たわっていたのはエメラルデラの方であっただろう。
警戒心を残しながらもシエスの言葉に従いエメラルデラが刃を引くと、ヘルメティアもゆっくりと手を引き、二歩ほど後ろに下がる。
予断なくシエスを正面に捉えるようエメラルデラが向き直れば、彼の怜悧な印象の顔は、だらしない笑い方をして見せた。