告げられなかった想い
アガサは上着を脱ぎ捨てる。鍛え抜かれた身体から熱を発し、白く濁った息は気炎を上げるように歯列の隙間から鋭く漏れ出していた。
オラトリオはゆっくりと立ち上がると、白い長衣の裾を軽く払って向き直る。
焚き火を背に立つオラトリオに対し、アガサは洞窟の入り口を背にして対峙する。
「…俺に勝てると思っているのか?」
「─────…っせぇな!!そういう事じゃねぇだろ!!」
逆鱗に触れるオラトリオの言葉に、カッ、とアガサの双眸が見開かれる。鋭く収縮する瞳孔。
鈍銀の虹彩が刃の鋭さで、光を弾いた。
身を低めて蹴られる地面、荒々しく土が抉れるさまが踏み込みの強さを物語る。
オラトリオは一気に詰められる距離に怯むことなく、瞬きもせずにアガサの姿を見据えていた。
アガサの右の拳が、オラトリオの頬を叩き伏せようと振り抜かれる。
当たったと思った拳は、オラトリオの髪を散らすだけに終わっていた。
オラトリオが重心を後ろへ傾け、最低限の動きで拳を避けたのだ。
空を切った拳越しに、アガサの顔が見えた。彼の乾いた唇は戦慄き、精悍な顔が苦痛に満ちて歪む。
「ずっと、ずっとずっと、お前が会うよりずっと前から、エメラルデラが好きだった!愛してたんだよ!!」
アガサの胸から、言葉と共に感情が溢れ出た。
怒りが込み上がる。
嫉妬が沸き上がる。
悔しさで血が煮えるようだった。
6年前のあの日に両親を失い、周囲に見捨てられた。死の恐怖と戦いながら暮らしていた日々の中で、自分にもう一度人の温もりを信じさせてくれた、小さな手。
一緒に行こうと、家族になろうと、懸命に抱き締めてくれたこの子を生涯守り続ける。そう、アガサは心に誓っていた。
その想いに、今も昔も偽りはない。
だから力を合わせて、家族として生きてきたのに。
いつから、愛してしまったのか。
止めようのない想いが、自分を責め立て続ける。
アガサは歯列を噛み締めた。軋む音が、頭蓋の奥で嫌な音を立てた。
軸足に体重を乗せて、オラトリオの腹へと感情に任せて力一杯蹴り込む。その脚に伝わるのは僅かな手応えだけで、全く肉の重さは感じられなかった。
オラトリオの足が軽く地面を蹴って、衝撃を殺すよう後ろに飛んだのだ。
薪から立ち上る炎を散らして流麗に躍る身体。流れる黄金の髪、人間離れした金色の瞳。
人を魅了する竜のすべてがアガサには厭わしくて、堪らなかった。
「それを…、…竜の番いだ?数百年の命だ?簡単にかっさらって行きやがって!!!」
オラトリオは蹴られた勢いを殺すように靴底を擦り、腰を落とす。前に目を向ければ、地を這うような姿勢で炎を越え、オラトリオへと躍りかかるアガサの姿があった。
オラトリオが体勢を立て直す前に、アガサの両腕が彼の脚に組み付いて地面に引き倒す。勢いよく地に背中を打ち付けたオラトリオの唇から、息が細く吐き出された。
「っ…なら、もっと早く伝えれば良かっただろうっ」
馬乗りになったアガサの心臓を、オラトリオの言葉が抉る。アガサは目の前が赤く染まり、同時に血の気が失せていくような錯覚を覚えた。
家族に対しても頑なに閉ざされ続けたエメラルデラの心を、抉じ開けることもできず。
日々広がり続ける距離に、抗うこともできず。
これがエメラルデラのためなのだと言い訳をして、想いも告げなかった。
嫌われることを恐れる弱虫な自分自身を、改めて突きつけられるのようだった。
同時に、自分には真似できなかったことをやってのけた男への嫉妬が、爆発する。
「…、…俺だって言いたかった…伝えたかった!でも、っ怖かったんだよッ」
なぜ今、エメラルデラの眼差しがあんなにも優しく変わったのか。その視線の先には、常にオラトリオがいた。そしてこの先の未来にも。きっとこの男がエメラルデラの傍らにいるのだろう。
────自分に踏み出す勇気があれば、変わったのだろうか。
もしも、の未来を考えるなんて無意味なのに、アガサは後悔せずにはいられなかった。
思いを吐露すると同時に、体重を乗せた拳をアガサは振り下ろす。吼える声が望んでいるのは、オラトリオに勝つことではない。
自分の弱さと、悔いと、想いへのケジメをつけることだった。
本気で殴り掛かれば、オラトリオが自分を叩きのめしてくれるだろう。
そのアガサの期待は、拳に伝わる鈍い痛みによって裏切られた。
「っ…、…」
アガサは息を飲む。
オラトリオの白い頬が赤く染まり、切れた唇の端から血が滲んでいた。殴られた反動で横へと向けられた美貌が、アガサを正面から見据えた。
「────…お前が、俺と同じようにエメラルデラを想っていることは分かった」
同情でもなく、過剰な共感でもなく、ただありのままを受け入れながら、オラトリオはアガサを突き放していた。
オラトリオの直感が囁いたのだ。
他人の手によらず、自ら決着をつけて先に進まなければならないと。
そうでなければ、いつか過去を振り返った時に、『あいつのせいで諦めたのだ』と、そう言って後悔することになる。
オラトリオは誠実な冷たさでもって、アガサに向き合っていた。
「だが、譲ることは出来ない。諦めよ。唯…、…俺の全てを懸けて、エメラルデラを護ると誓おう。俺がお前に手向けられるのは、それだけだ」
アガサは両手の拳を握り締めると、深く、大きく息を吐き出してから、空を見上げる。
木々の暗い影の中、切り取られたようにぽっかりと開いた夜空が見えた。
いつかエメラルデラと一緒に見た星が、そこに瞬いていた。
自分で選択し。
自ら想いを断ち切らなければならない。
この激痛を
どうしようもない辛さを
エメラルデラとの思い出が支えてくれる。
長い沈黙のあと、静かな言葉が涙と一緒にオラトリオへと落ちていく。
「─────…、…絶対、約束しろよ…何があっても守りきるって…アイツは俺の…、…」
アガサの言葉が途切れる。
幾度か躊躇し、嗚咽を堪えながら次の言葉を、絞り出した。
「…大切な家族だから」
「ああ…、…」
オラトリオはアガサの選択を受け入れ、確かに約束を交わす。
上に乗ったままのアガサがゆっくりと立ち上がると、顔を背けて小さな声が零れた。
「…殴って、悪かった」
それだけ伝えるとアガサは洞窟ではなく、森へと向けて歩き出していた。
昼よりも危険が増す夜の森に入る彼を、オラトリオは止められずに見送る。言葉を向ける代わりに、何かあれば確実に助けられるようにと、先程よりも神経を張り巡らせた。
乱れた敷物を整えて腰を下ろし、乱闘で崩れた薪に新たな枯れ枝を加えながら、オラトリオは静かに新しい朝を迎えるのだった─────




