悪夢(2023/01/30 攻防戦と統合)
耳をつんざく悲鳴が、鼓膜を軋ませる。
飛翔する竜の背から眼下を見下ろせば、そこにあったのは火の海だった。
熱気が立ち昇り、上空にいる私の膚を炙り、髪を焦がし、肺が侵す。
躍り狂う火の粉と共に舞い上がる煙は私の元まで届き、熱毒が呼吸に混じって、身体を苛もうとしていた。
避けなければ─────
理性が、そう叫ぶ。
だが、できなかった。人が焼けていく死臭の中に家族がいるのだと知っていたから、逃れることがの裏切りのように思えてならなかった。
何の罪が、あったというのだ────
呪詛のように行き場のない問い掛けが、頭の中を埋め尽くす。
限界を超えて見開いた眦は裂け、涙が染みて痛みを訴える。
滲んだ血が涙に混じり、血涙となって頬を滴り落ちていった。
私は滲んだ視界のなかに、対峙する一匹の竜を捉えていた。
惨劇の元凶は、その口から赤黒い焔の残滓を血のように滴らせ、黒鱗は下界の炎を映して照り映える。
炎の瞳が、私に定まる。
同時に、言葉にならない絶叫が喉から迸るのを止められなかった。
叫びに応え、私の番いが目の前の竜へと躍り掛かる。
森を焼き
家族を焼き
すべてを火の海の中に飲み込んだ竜が口を開いた瞬間、私の視界は恐ろしいほどの輝きに包まれて─────
「あ、あ゛、ああ゛あ゛っ、っ…っ」
誰かの苦悶の叫びが耳に届く。
それが、エメラルデラ自身の声だと気付くまで、しばらく時間が掛かった。
あの夢はなんだったのか────
吐き出された鮮やかな焔に全身が焼かれる激痛は、今も冷や汗と共に、薄膜のように膚の上を覆っている。
恐怖と怒りの余韻に震える指で髪を掻き上げながら上半身を起こすと、ゆっくりと呼吸を深めていった。
いつもの懐かしくなるような恋しさとは違う、恐ろしい悪夢は、生々しく。
エメラルデラは、恐怖を押し出すように深く息を吐き出した。
「はっ…ぁ…最悪だな」
「どうした、エメラルデラ」
「いや、変な夢を…見て…」
エメラルデラの溢した言葉に問い掛けてくる声は優しく、心に残った恐怖の僅かな名残まで溶かしてくれた。
傍らから伸ばされる大きな掌がエメラルデラの手を握り込み、引き寄せる。そして、指が柔らかな弾力に触れさせる。
視線を落とした先には、ユルトの入り口から差し込む朝日によって透ける睫毛と、光によって縁取られる美貌があった。
形の良い唇はエメラルデラの指先に口付けることで歪み、彼が彫像ではなく生物であることを教えてくれる。
睫毛が持ち上がると、金色の双眸が眦を和らげて微笑んだ。
「大丈夫だ、俺がいる。恐ろしければいくらでも抱き締めよう」
鼓膜を蕩けさせる声に、頭蓋の裏側がむず痒くなるのを感じながら、エメラルデラはようやく違和感に気付いた。
「────…いや待て、君がなんでここにいる?」
「エメラルデラの傍らが、俺の居場所だ。当然だろう」
堂々と仰臥しながら言ってのける姿に、一気に頭が痛くなる。
思わず蟀谷を両手で押さえようとして、片手がピクリとも動かないことに気付いた。
オラトリオが握っているのだ。
優しい力で、しかし強く握られた自分の右手をエメラルデラはじっと眺める。それからオラトリオに離してくれるようにと、訴えかける視線を向けた。
しばらく見詰めあってから、オラトリオが返してきたのは、にっこりと音がしそうなほどの笑顔だった。
離す気はない。
言外に語る表情にエメラルデラは負けじと、視線で圧を掛ける。しかし、無視を決め込むオラトリオに結局はエメラルデラの方が、折れることとなった。
エメラルデラは空いている左手だけで自分の蟀谷に触れ、痛みを解すように揉み込む。
「オラトリオ…寝床に入るのもそうだが、こういうことは相手の許可を取らなければ駄目だ。だから、離しなさい」
「ふむ…では、許可をくれ。エメラルデラ」
あえて無視しているのか、それとも離せと言っているのが伝わっていないのか。
判断に迷うところだったが、一つ確かなことはエメラルデラの頭痛が酷くなったことだ。
もう一度正面から視線を向けると、輝く美貌が、期待に満ちた眼差しをこちらに注いでいた。
「ぅ…、…」
エメラルデラは小さく呻くと、思わず後ろに仰け反るようにして、逃れてしまう。
人から距離を置いていたエメラルデラには、オラトリオの純粋な好意が眩しく、しかし拒絶もし難い。
答えに窮しては、歯切れの悪い言葉が口から漏れた。
「いや…、…だから…、…ええと、とりあえず、三人の様子を見に行こう」
エメラルデラは強引に話を変えると、徐に立ち上がる。
逃げることは恥ではない。戦術的撤退によって、立て直すことも時には必要なのだ。
一時退却したエメラルデラに従ってオラトリオも身体を起こすと、ようやく握られていた指が離される。
代わりに頭の上に乗せられる温もりに、思わずエメラルデラは視線を持ち上げた。
見上げた先にあるオラトリオの表情は、先程よりも穏やかにエメラルデラを見詰めていた。
「気分は良くなったか?」
エメラルデラの頭を撫でながら問い掛けるオラトリオの言葉に、悪夢の記憶がすっかり薄らいでいることに気が付く。
「ああ、もう大丈夫だ…ありがとう」
「なら良い、行こう。エメラルデラ」
生まれたばかりの竜は、エメラルデラを導くように先にユルトの外へと出ていった。
今までに感じたことのないような心臓の奥から沸き上がるような熱が、エメラルデラの内側から込み上げてくる。
頬が熱く火照るのは、なぜだろうか。
思わず顔を手で扇ぎながら、エメラルデラは身支度を整えていくのであった。




