美しき人ーオラトリオ視点①ー
徐々に傾いていく陽射しに合わせて、神樹の落とす影が濃くなっていく。
懇々と語り聞かせるヘルメティアの言葉を耳に入れながら、俺は視線を遠くに見える神樹の幹へと向けては想いを馳せる。
脳裡にありありと浮かぶのは、昼に見た泉での主の姿だった。胸に抱いている間にも弱っていく主の姿に、自分の心臓が握り潰されるような恐怖を覚えたのは、今も生々しく記憶に刻まれている。
血の海に沈む肢体。
抱き上げた瞬間の重み。
自分の名を呼ばれた時の、胸が震えるような歓喜。
失われるかもしれない絶望────
生まれて直ぐに死ぬ恐怖よりも、主を失うことが怖くて堪らなかった。
主を抱きかかえると、俺はようやく得たばかりの翼で、一気に空を駆ける。
人々を、木々を、枝葉を翼膜の立てる突風で薙ぎ払い、瞬きの間に神樹の枝葉の影が掛かる草原…聖地の領内に至った。だが、まだ止まることはできない。
聖地に生まれ落ちて、まだ形も定かではなかった俺は知っている事の方が少ない。だが、今必要な知識だけは十分に持ち合わせていた。
神樹が根を張る泉へと、空を駆ける。
次々と風景が過ぎ去るなか、視界の中に同じ速度で飛行する小さな影が映り込んだ。
鮮やかな新緑を思わせる髪と七色の翼、見覚えのあるその姿は自分の教育者として定められた、カラヴィンガだった。助力を申し出る言葉もあったが、小さな手足と翼より、俺自身が手足を動かす方が何倍も早いように思える。
代わりに着替えを持ってくるように告げれば、離れていく姿に目を配る暇も惜しみ、飛び続けた。
ようやく辿り着いた泉の畔は、いつもと変わらぬ静寂と清らかさを湛えている分だけ、主の中から溢れる血の生々しさが、鮮やかに、浮き彫りなる。
─────死んでしまう。
主の心臓が鼓動する度に、溢れる紅血で俺の指は泥濘んでいった。
取り落としそうになる身体を必死に抱き寄せ、一度草原に横たえては着衣を全て脱がせると、傷を確かめる。
主が背に受けていた傷は肋骨の合間を通り、片方の肺を潰していた。心臓に達していなかったのは幸いであったが、治療は一刻を争う。
もう一度腕に主を掻き抱くと、俺は走り出したくなるのを堪え、そっと泉の中へと入っていき、抱えた主の身体をゆっくりと沈めていく。
膚に触れる水は温かく、そこで漸く自身の血の気が引いていたことに気が付いた。
遅れて震え出す指先で主の頬を優しく辿ると、僅かに残る体温が安心感を与えてくれる。
「二度と、離してなるものか」
執着よりも深く、情愛よりも濃く湧き出る感情は、出逢う前から抱いていたかのように、心臓を深く穿つ。
その衝動の強さは、主から離れることを苦痛に感じさせる程だ。しかし、それでも泉の畔へと引き返さなければならなかった。
治癒が行われている間は、健常者は泉から出なければならない。
そうでなければ、健常者の身体が泉の治癒能力を混乱させ、正常に能力が発動しない。
そうやって、教育者であるカラヴィンガに教えられていたのだ。




