命の天秤
完全に油断していたエメラルデラの身体は容易くよろけて、結局、踏み止まれずに草地に崩れる。
反射的に片手を地面について上半身を起こすと、眼下に美しい蒼玉の髪が揺れていた。
エメラルデラの知っている中で、この髪の持ち主は一人しかいない。
「心配掛けた。ごめん」
エメラルデラは謝罪と共に片手を伸ばすと、自分に抱きつく華奢な背中を、慰めるように撫でる。
すると、胸に埋まっていた顔が弾かれたように持ち上がった。
そこにあったのは、予想通りの菫色の瞳。
大人びた余裕と子供っぽい悪戯っぽさを持ち合わせたヘルメティアの瞳が、心配そうに揺れていた。
「エメラルデラ!怪我は?傷は?」
ヘルメティアの手がエメラルデラの上衣の裾を掴む。
そのまま着衣を捲り上げようとする手に、エメラルデラは慌ててヘルメティアの手首を掴んで止めた。
「ヘルメティア、落ち着いて。大丈夫だから、脱がそうとしないでくれ!」
「本当に?」
エメラルデラを見上げるヘルメティアの妖艶な美貌は、不安を隠せない子供のように歪んでいた。
「ああ、すっかり治ってる。それより…すまない、巻き込んで」
攻防戦を繰り広げていた二人の上に、不意に長く昏い影が落とされた。
エメラルデラが視線を上げると、黒い長衣を身に纏い、射干玉の髪を背に負ったシエスの紅い双眸が、エメラルデラを射抜いていた。
「エメラルデラ、貴方は道端に転がる石ころ全てを、拾い上げなければ気が済まないのですか?」
氷の刃を押し付けるのに似て、魂を凍らせる迫力を帯びた、シエスの静かな声。
エメラルデラを睥睨する双眸は研ぎ澄まされ、他を圧倒する威圧感と恐怖を与える。
それが、皇帝の血筋を受ける、シエス生来の眼差しだった。
シエスにとって、命は等価ではない。
いや、誰しもが他人を平等に扱うことなどできない、そう考えていた。
誰を助け、誰を見捨てるか。
その決定は、感情や関係性で常に重さを変える他者の命を天秤に乗せ、反対側に自分の価値観や、状況、危険の度合いを金貨のように積み重ねて、決める。
そして、他者の命の方に天秤が傾いた時のみ救いの手を差し伸べるのだ。
そうやってシエスは、生きてきた。
シエスにとって、天秤に乗せた時に最も重く、価値のあるものは、自分自身の命であり、今もそう信じて疑わない。
そんな唯一無二であるべき命を、エメラルデラは他人のために容易に投げ出したのだ。
路傍の石に、自分の命以上の価値を見出だすエメラルデラが、シエスには信じ難かった。
そして、エメラルデラに手を差し伸ばそうとしてしまった自分自身に、愕然としていた。
─────この命は、最愛の人のものでもあるということを、常に自覚しているのに。
利害関係を越えた感情をエメラルデラに抱いている事実はシエスを戸惑わせ、軽々しく自分の命を扱うエメラルデラに怒りを抱かせる。
要は、エメラルデラに八つ当たりをしているのだ。
自分自身の愚かさに溜息をつくと、シエスは言葉を吐き出した。
「もう、貴方だけの命ではないのです。そこを理解なさい…まったく」
シエスの言葉に、エメラルデラは今更ながら気付かされる。
自分が死ねば、命を共にする竜も命を落とすことを。
そんな危険を押してまで助けようとしてくれた、シエスの行為の意味を。
エメラルデラの表情が硬く、引き絞られる。
エメラルデラ自身は、自分の命を粗末に扱っているつもりはない。
死への恐怖心も、持ち合わせている。
しかし、死ぬこと以上に誇りを失うことを、エメラルデラは何よりも恐れていた。
虐げられるのを良しとして命を見棄てたならば、それは流民である自分自身の見失うことになる。
「すまない、シエス…私は強くなるよ、石ころを全部拾えるぐらいに」
命よりも矜持を高く掲げるエメラルデラの声は強く、穏やかに笑う顔は竜を得てなお一層、清らかに澄んでいた。
何者をも寄せ付けぬ力を得て、それでも変わらないエメラルデラの姿勢に、シエスは一瞬だけ瞠目する。
それから、酷薄な眸は困ったように表情を崩して、腑抜けたように笑った。




