聖地の泉
一番の懸念が払拭されると、エメラルデラは広大な大地の中に次の目的を求めて、視線を投げる。
見渡す限りどこにも人影は見出だせなかったが、無事に辿り着いているならば、シエスとヘルメティアがどこかに居るはずだ。
エメラルデラの脳裏に、最後に見たシエスとヘルメティアの泣きそうな顔が、ちらついた。
「他にも聖地に到着した者達がいなかったか?」
「ヘルメティア様、その番いであるシエス様がご到着しております」
───捕まっていなかった。
エメラルデラの唇から、思わず安堵の吐息が漏れた。
無意識のうちに緊張していたのであろう、二人の無事が分かると、エメラルデラの声は自然と柔らかくなる。
「分かった、そこに連れていってくれないか?」
「承知しました。竜の番いの方」
願いを伝えれば、少年は風のごとくふわり、と舞い上がり身体を翻す。
「あっ、その前に…少し待ってくれ」
背中を向け掛ける少年を、エメラルデラは声を掛けて引き留めた。
こちらを振り返り、無機質ささえ感じされる無垢な瞳が、エメラルデラを映し出す。
「いかがいたしましたか、竜の番いのお方」
「そういえば君の名前を聞いていなかった、と思って」
少年は不思議そうに視線を向ける。
何を尋ねられたのか理解が及んでいないのだろうか、少年の瞳に、初めて困惑の色が滲んだ。
「名前はないのです。カラヴィンガはカラヴィンガですから」
名がない、そう告げられると今度はエメラルデラが困惑する番であった。
個を示す名称は、エメラルデラにとって重要な意味を持つ。無いこと自体が、強い違和感を生じさせた。
一瞬だけ悩むように間を置いてから、エメラルデラは少年へと問い掛けた。
「これから一緒に過ごすなら、名前がないと不便だろう…ピカイアと名前を付けて良いだろうか」
「ピカイア…、…」
名を反芻する少年の、心ここにあらずという声音に、やはり自分の名付けは外しているのだろうかとエメラルデラは苦い笑みを滲ませた。
卵から孵化したヒポグリフにオダライアと名付けた時も、耳慣れない響きだったのだろう、テオドールに奇妙な顔をされたものだった。
あるいは、勝手に名前を押し付けたことが良くなかったのかもしれない。
「もし嫌なら断ってくれても良いんだ。私は名付けは、どうもいまいちだし」
「っ…気に入りました。これからピカイア、とお呼びください。竜の番いの方」
エメラルデラの言葉に魂を取り戻したかのように、少年…ピカイアの瑞々しい緑の瞳が笑みに綻んだ。
顔の側まで舞い上がってきたピカイアの包み隠さない喜びに誘われ、自然と微笑みがエメラルデラの顔に広がる。
「私のことはエメラルデラと呼んでくれ。その方が助かる」
「分かりました、エメラルデラ様。ご案内します、ついてきて下さいね!」
告げるや否や、ピカイアは今度こそ小さな身体を翻して、シエスとヘルメティアの元へとエメラルデラを導いていく。
引き返して行くところを見ると、どうやら反対の方向へと進んでいたらしいことが分かる。
再び近づいてくる泉と神樹の太い幹が、エメラルデラの目についた。
泉はその神樹の根元を取り囲む、というよりは、神樹を中心に広がっていた。
よくよく見れば、透明な清水を透かして樹の根の隆起がうかがえる。
根の太さから、地をどこまでも覆うように広がっているのであろうことが分かった。
エメラルデラが、その広大さに想いを馳せていると、ふと、忘れかけていた疑問が頭を擡げる。
「私が目覚めた時に泉に沈んでいたんだが…あれは何なんだ?ただの水とは思えないのだが」
「創世戦記以前、神々が創造された偉大な遺物です。あの泉は水であって水にあらず。と伝えられております」
木漏れ日を受けて青く澄み渡る泉は時折吹く微風によって、滑らかに波打つ。
今まで清水でしかなかった泉が、まるで鼓動したかのようにエメラルデラの目に映った。
泉を注視し自然と歩みを緩めるエメラルデラにピカイアは、なおも続けて語り掛ける。
「詳しくは僕達も分かりませんが、小さな生物の集まりが水の形を成して、身体を清め、空気を送り、傷を癒す。と聞いてことがあります」
少年の言葉はエメラルデラにとった、到底理解がおよばない内容であったが、妙に納得がいった。
それは頭で分かるのとは異なる、本能的な理解に近いものだった。
例えるならば、足元の虫の蠕動を見ずとも気配として感じるのに近いような感覚だ。
「生きている…ということか?水が」
「そうなのかも知れません」
問い掛けに返ってくる曖昧な返答に、エメラルデラはどうにも心臓の裏側を舐められるような、ざらざらとした落ち着きの無さを覚える。
何とも言えない不気味さに、エメラルデラは視線を前へと引き戻すと、その後は振り返らずにピカイアに伴われて歩き続けた。
「ピカイア、他にも色々教えてくれ。私の知っている森とは、随分と勝手が違うようだから」
「勿論です、竜の…あ、いえ、エメラルデラ様!」
言い掛けては、慌てて両手で口を押さえるピカイアの様子に、可笑しそうにエメラルデラが表情を綻ばせる。
二人は互の話をしながら、荷物と化しているオラトリオとオダライアを伴ってゆっくりと歩いていくのであった。




