狭間
─────静寂
自分の鼓動や吐息さえ、聞こえない程に静まり返っていた。
エメラルデラは目蓋を開く。
─────暗闇
閉ざしているのと大差ない程の闇が広がっていた。いや、閉ざしている方が幾分マシかもしれない程に、その場所は昏かった。
エメラルデラは声を発しようとして唇を開くが、音にならない。喉に何かあったのだろうか。反射的に手を伸ばすと…何も触れなかった。
エメラルデラが自分の身体がある場所を確かめようとするが、ただ虚空へと突き抜けていく。
────自分自身が無くなろうとしている
恐怖が身体を走り抜けた。
存在の消滅と言う原始的な恐怖が、魂を震わせる。恐ろしさに戦慄く手…見えもしない指を必死に伸ばし、恐怖から逃げ出したくて、駆け出した。
前に傾きすぎた身体は、転んでも良いぐらいの勢いがついているはずなのに、走ることができる。
─────自分にはもう、縺れる足一つとしてないのだ
その事実を突きつけられて、恐怖が溢れるのに泣くこともできなかった。
それでも走り続けなければ、闇に全て飲まれてしまうかもしれない。必死だった。
しかし、どれだけ駆けていこうとも、どこにも辿り着かない。
何時間、何日走ったであろうか、疲れを感じない事実に、逆に手足の気力が萎えていった。
走る力は緩み、いつしか引き摺るような歩みになり、遂には止まる。俯けば、足元の闇の底へと意識が沈んでいくようだった。
柔らかく、甘く、底無しの泥に似た温かさが足元から這い上がってくる。このまま意識を委ねれば楽になれるだろうか…あれだけ感じていた恐れが、意識と共に薄れていく。
────目を閉じても開けても一緒なら、このまま眠ってしまった方が良い。もう何も、残されて無いのだから────
誘惑に抗えないまま目蓋を閉じて、闇に全てを委ねようとするエメラルデラに、そっと触れる温かさがあった。そして、音ではなく、魂を直接震わせる何かが囁き掛ける。
『目を開けて、エメラルデラ。まだ君には残されている光がある』
胸に温もりが灯った。
エメラルデラを飲み込もうとする泥と異なる、輝くような温かさ。目蓋を開けば、やはり闇が広がっていた。しかし、胸には小さな灯火があった。
エメラルデラが小さな灯火を潰さないように、そっと見えない手を寄せると、途端に光が波打ち、全身に広がっていく。
驚きに見開かれる双眸の奥に、想い出が鮮やかに甦った。
────父さん─────
テオドールの顔が浮かぶ。
─────みんな─────
家族の笑顔が滲む。
─────シエス、ヘルメティア
二人の泣きそうな顔が、ちらついた。
そして
─────オラトリオ─────
彼にまだ、何も言っていない。
感謝も喜びも、夢に見続けたこの戸惑うような想いの在り方も。
エメラルデラの魂から一気に溢れるのは、今までの感情と想い出。
そして、これから先の希望だった。
恐怖とは異なる涙が滲む。
帰るべき場所があるのだと、帰らなければならないのだと心がけ訴えかける。
エメラルデラは一歩踏み出すと、なかったはずの脚が輪郭を取り戻し、萎えた気力が奮い立つ。
顔を上げれば、闇はまだ続いていた。
それでも歩き出せば、全身に絡み付いていた泥のような昏さは乾いて崩れ落ちていく。
「私は帰らないと…、…」
唇を動かすと、声が出た。
恐怖ではなく、希望に突き動かされて駆け出せば、腕が揺れる。
闇を踏む度に音が反響し、足元から光の粒子が沸き上がった。
鼓動が昂っていく程に光が胸から溢れてエメラルデラを包み込み、目の前が七色の輝きに、霞んでいく。
その奥で、見知らぬ誰かが佇んでいた。
眩さの中で確かめる事もできない姿は、しかし確かに微笑んでいる。
『また逢おう、エメラルデラ。君が善き道を歩まんことを…見守っているよ』
悠久の彼方まで響き渡るようなその声を最後に、エメラルデラの意識は光に飲まれていったのだった────