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上野の森の奥底で

作者: ヒデ

高校2年の夏のその短い出来事は、僕が将来、何を目指すかを決める重要な出来事となった。


JR上野駅の公園口を出て、高校の課題で上野の森美術館に向かう。上野公園内にこんもりと茂る木陰を通っているはずだが、吹き出る汗に堪らず右手の甲で額の汗を拭う。梅雨の合間の晴れ間とは言え、最近、地球温暖化の影響で酷暑と言うべき、暑すぎる日々が続いている。

上野の森美術館の「ゴッホ展」の入場待ちの列に並んでいると、すぐ後ろに並んでいた女の子に「カズキ。」と呼びかけられ、飛び上がる程ビックリした。元々引っ込み思案で想定外のことが起こると頭の中が真っ白になってフリーズしてしまうところがある上に男子校に通っているせいか近頃、女の子に免疫が全くなくなってしまった。

久しぶりに会ったので判らなかったが、すっかり可愛くなった幼馴染のメグだった。幼稚園に通う前の小さい頃から、他の何人かの同級生と共に家族ぐるみで近所の公園で遊んでいた仲。一緒に桜の花見をしたり、小学生の時には皆で泊りがけのスキーに行ったりもした。小中学校は学区内の同じ公立学校に通っていたが、高校に入ると男子校、女子高が多い埼玉という土地柄もあり別々になってしまった(余談だが、第二次世界大戦後の学制改革の後、東日本に男子校、女子高が多く残ったのは西日本と連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の担当者が違っていた為と聞いたことがある)。彼女が着ている制服は青味の強い、特に夏服は吊りスカートという特徴のあるデザインなのでどこの高校かすぐ判る。それにしても埼玉ではなく上野、しかも美術館待ちの行列で会うとは思いもしなかった。

-そう言えば少し前に、彼女に関わる何か大きな出来事があった気がしたが、目の前で元気よく、クリクリと瞳を輝かせて話しかけてくるメグに圧倒され、そのふとした引っ掛かりはそのままになってしまった。


しっとりとした心地よい静寂に包まれた館内をメグと連れ立って、ゆっくりと観て回る。油絵の実物は本物の迫力なのか、カラフルな油絵具の厚みの上に多様な筆遣い(何度も塗り重ねたところもあれば、ずばっと一筆書きになっているところもある。)が残り、本や画面で見るものとは全く違って見える。出口近くに絵画ではなく、プロジェクション・マッピングで再現されている「ひまわり」の絵がある。SOMPO美術館にある有名な「ひまわり」の絵を思い出しながら何かとメグに問うと、メグから「芦屋のひまわり」の話を聞かされることになった。-阪神大空襲で焼失したゴッホ2番目の「ひまわり」。

結局、(後で苦労することになりそうだが)課題の感想文の手掛かりになりそうなものは何も得られるまま美術館を後にすることになったが、メグの連絡先は忘れずに帰り際にSNSで交換した。


「カズキ。上野動物園に行こー。」

数日と置かずSNSで早速メグからお誘いがある。普段、むさ苦しい男ばかりに囲まれた生活をしている上に年頃の可愛い娘からのお誘いとなれば。二つ返事でOKする。


じっと動かないことで有名なハシビロコウのケージの前で思いの他、長居をしている。

ケージ内にはハシビロコウが飛んだり、魚を捕えたりした情景シーンを再現する複合現実(Mixed Reality)が展開されているが、メグはそれを何度も再生して(しかも途中で何度も止めたり巻き戻したりして、本来の用途から逸脱しながら)喜んでいる。本物のハシビロコウは、映像が本物を重なった時でも微動だにしないので、この複合現実(Mixed Reality)はハシビロコウには見えていないのだろう。

複合現実(Mixed Reality)はあちこちに展開されていて、皇居周辺には江戸城はおろか江戸の街割が再現されているところもある。

「そういえば小さい頃、埼玉県民の日に皆で動物園に行ったよねー。」

「上野動物園じゃなくて、東武動物公園だけどね。」

あの時、テッペーとユリちゃんがさー。他愛のない会話が続く。

帰り掛けに公園内にある五重塔を観て、「なんでこんなところにあるんだろう?」と僕が疑問を口にすると

「旧寛永寺の五重塔。重要文化財。」という答えが返ってきた。高校生ともなれば、ただ能天気なだけでは居られない。先ほどまでの無邪気な様子と異なり、真剣な顔だ。歴女なのか、妙に詳しい。思わぬメグのリアクションに驚いて隣に居るメグを見やるとメグが五重塔の来歴を説明する銘板の上の空中ディスプレイをピアノでも弾くように軽やかに操作する。途端に現実世界に重ね合わさって眼前に寛永寺の大伽藍が現れた。ここからはメグの説明の受け売りだが、上野公園は江戸の昔、ほぼ全域が寛永寺の境内であったが、江戸城無血開城で有名な幕末の彰義隊と新政府軍との上野戦争で灰燼に帰してしまった。が、今でもこの五重塔を含め、公園内にやや場違いな寺社建築として一部が残されている。


JR上野駅の公園口で別れる。僕は京浜東北線に乗って帰るのだが、メグの家も埼玉にあると思っていたけど、引っ越したのだろうか?

ふとした疑問に駆られ、メグの行方を目で追いかけたが、メグは鶯谷方向に向かって雑踏の中にかき消すように見えなくなってしまった。


暫くして考査明けにメグからまたお誘いが来たが、普通科のくせに別名「体育学校」と揶揄される程、運動も盛んな我が校。平日は部活動がある(サボったら後で大変なことになる)ので会うのは週末にならざるを得ない。そう返事をするとメグからブーたれたスタンプが送られてきた。

校内でスマートフォンを見て廊下を歩いていると、にやにやしていたのだろう「彼女からの連絡かー。」と後ろから声を掛けられた。

「だから彼女じゃないってば。」と言いながら、声の主の方を向く。

ポロシャツ、短パンの級友だ。ひどい時にはパンツ一丁で校内をうろうろしていたりする。男子校生は服装も気に掛けないが、交友関係もさばさばした感じだ。どちらかというとその場その場のボケやノリツッコミが重視される。最近、僕の行動が毎度毎度の野郎共でつるむパターンから少し変わって来たせいか、一部で恰好のネタになっているようだ。

そういえばメグも女子高では暑い時にはスカートを捲り上げてパタパタしていると言っていた。異性の眼がないと男も女も外見を気にしなくなるのは同じらしい。


待ちに待った週末、メグにせがまれて不忍池のボートに乗ってオールを漕いでいると上空にシールドが展開しているのが見える。

シールド-地球温暖化の影響による強烈な日差しを遮り、地上の気温を人間が活動可能な程度まで下げる為、大都市の上空に展開される巨大な半透明の膜。要は大きな日傘である。日傘と違うのは膜の表面が太陽電池になっており、シールドの浮遊、駆動その他に活用されていること。

東京の場合、シールドは横田空域や羽田空港の航路等、規制のある空域以外に展開されている。今では赤道付近は人の住まない猖獗の地となり、北極の氷はなくなって海となり、北極航路が開通。南極は長い間氷で閉ざされていたので土中の有害菌や病害虫が少なく、高原野菜の産地としての開発が領有権を主張する国々の共同で進められている(なお、耕地にするには土壌に含まれる養分が不足しており開発は難航しているらしい)。

 それにしても、手漕ぎボートは漕ぎ手には進む方向が見えないという不条理な乗り物だ。

ぶつぶつ言っている僕に向かって、メグが水面に手を差し入れ、水を掬って、こちらに向かって撒いてくる。水滴に陽光がキラキラと反射して、とてもきれいだ。

小さい頃からだがメグは太陽のように明るくて素直だ。元々引っ込み思案で人に接するときに考えすぎて臆病になってしまう僕とは大違いだ。(僕も含め)何事にも真っ直ぐぶつかって来る彼女と居ると自分の中で凝り固まっていた何か-変な拘りがゆっくりと溶けてゆく気がする。


その頃、中央通りに止めた宅配トラックの荷台から真っ黒い高さ2m位の人型パワードスーツが3機次々に降りてきていた。その後、大型の黒いドローンが3機、上野の森の空に飛び立ってゆく。

なんだなんだという周囲の雑音を気にせず、粛々と作業が進む。


不忍池でボートを漕いだ後、メグが映画を観たいと言い出し、(毎度のことだが彼女の思い付きに振り回されているのでネット予約する暇はもちろんなく)彼女が観たいという映画のチケットを買う為、シネコンの自動券売機の列に並ぶ。

題目は七夕をモチーフにした悲恋モノで、年1回しか会えないというところから互いの歳の話になった。僕は17歳。メグは16歳。

「あれっ?メグって早生まれだっけ?」

「私は5月生まれよ。いやぁねえ-。私の誕生日も覚えていないの。」

バシバシと右手で背中をどつかれる。女の子の誕生日を覚えていなかったなんて最低だ。何とか話を違う方向に逸らさなければ…。あははと笑って必死に取り繕いながら、素早く思考を巡らせる。ふとメグの制服が目に付く。

「そういえば、メグはいつも高校の制服だね。」

何故と聞くと「だって、この制服可愛いじゃない。それに今しか着れないし。」と口を尖らせて言う。どうやら彼女の高校の制服は着ている本人達にも評価が高いらしい。

「確かに。」

「でしょー。」と言うとメグはスカートの裾を摘まんでくるっとその場で一回転して見せた。ボブヘアとスカートがふわりと広がり、ふんわりと良い香りも漂ってくる。やれやれ。何とか悪い状況から脱出(リカバリ―)できたようだ。


ポップコーンとコーラを買ってスクリーンの一つに並んで座って、本編開始前のCMを二人でどうでもよいツッコミを小声でしながら見ていると突如、黒いパワードスーツが映画スクリーンの壁をぶち破って現れた。映画館内を驀進し、吊り天井と二重床を破壊しながらこっちに向かって迫ってくる黒い巨体。

何が起こっているか判らない僕に対し、メグは明らかに何が起こったのかを理解していた。

メグが叫んだ。

「逃げて!」


後でわかったことだが、この時襲ってきたパワードスーツは通称「ゴリラ」。AI(人工知能)を使った自立型殺傷兵器が非人道的だと国際条約で禁止された後、テロ等の非対称戦に対応する為に某国が開発した兵器。モトクロス・バイク位軽量だが市街戦、白兵戦における生存性確保に最大限配慮している。高さ2m程度。元々は作業用として開発された外骨格を有するパワードスーツを改良したもの。搭乗員はセラミック装甲をケブラー繊維で縫い合わせた伸縮性のある防弾繊維の生地に包まれ、腰のハーネスで機体内に吊られている。堅い装甲に覆われた頭部は肩にめり込み、頭頂部にはEOTSが鈍い光を放っている。EOTS等で得られた情報は、緊急時には頭部ハッチが開き目視可能にもなる頭部装甲の内側にぐるりと配されているモニターを介して搭乗員に提供されている。生体電流を感知して人より一瞬早く動くパワーアシスト機能により人が両手で抱えるような兵器、例えばバズーカ砲等を外骨格の手甲にアタッチし、パワーアシスト機能の補助により反動を吸収させ片手で使用可能。外骨格の胸、腰、背中、太もも、脛にもハードポイントがあり武器等を装備できる。この時は幸いなことに対人捕獲用の武器-捕獲ネット射出期器程度しか装備していなかったが。そのサイズからビル等の建物に侵入可能な上に両足首に装備されたハンドスピナーのような車輪で階段も登れる。加えて、その車輪を使いローラーブレードのように最高時速100kmで走行可能。とまあ、RPGの勇者が剣と魔法で立ち向かうモンスターのような相手だ。


メグの手を引きながら、映画館を出て中央通りから上野公園の奥に向かって階段を駆け上がる。西郷さんの銅像に向かって延びる階段をハンドスピナーのような車輪を回転させ滑らかに登ってくるゴリラ。階段を登り切ると今度はローラーブレードのように滑走しながら迫ってくる。一旦、西郷さんの銅像の陰にメグを庇う様にして隠れる。

「カズキ…。」メグが心細そうな顔をして僕を見つめてくる。

「大丈夫。僕に考えがある。」

思わずこう答えていた。何事にもフリーズしやすい僕には考えられないことだが。

光を全く反射しない艶消し黒で重厚マッシブ巨体ゴリラが左右を見渡し、頭頂部のETOSに街灯を虹色に反射させながらゆっくりと歩いて近づいてくる。まだこちらに気が付いている訳ではなさそうだ。自然と体が動く。十分に引き付けてから、西郷さんの銅像の陰から飛び出してゴリラを柔道技で倒す。ゴリラとの身長差は普段、部活で身長2m近い柔道二段の先輩と乱取りをしている経験が役立った。ゴリラは柔道着を着ているわけではないが、相手の懐に飛び込み搭乗員を保護しているケブラー繊維を逆襟に引っ掴んで、全体重を掛けて大外刈りで横倒しに刈る。

柔道は相手の重心を崩すのが基本で、重心を崩した相手と自分の、主に腰の位置関係でそのときに見合う技が決まってくる。会心の技が決まった時にはほとんど自分の力は要らず、周囲がただ真っ白な世界に包まれる。今回は残念ながら力任せの部分が大きく会心の一撃とはいかなかったが。

バランスを崩したゴリラは西郷さんの銅像の脇の階段を中央通りに向かってゴロゴロと踊り場まで背中から転げ落ち、車がぶつかったときのようなガシャンという大きな音を立てた。基幹システムが密集している背中を強打したゴリラは中々起き上がれない。繊細な精密機械でもあるゴリラは、どこかイカれたのかもしれない。


そのまま不忍口の方に逃げようと思い、上から見下ろすと下の中央通りを別のゴリラ1機が不忍池方向に向かって滑走して行くのが見えた。そこで、反対方向の上野公園の奥、鶯谷に向かって、メグの手を引いて駆って逃げる。上空低くブイーンと蜂の羽音を大きくしたような音を立てながら何機かのドローンが飛んでいるので、見つからないように木陰を縫うようにしながら。


とは言っても人の足で逃げる限界によるのか、ゴリラにネットワーク戦闘機能(C4I)がある為か、それ程間を置かず見つかってしまった。今度迫ってきたゴリラ2機は機体制御PGMプログラムの修正ダウンロードを受けたのかバランスが改善され自護体で迫ってくる。さっき倒した機体のように付け入る隙が無い。上野公園の奥-大噴水の方に向かって逃げる一方になる。


人々が散り散りに逃げ、周囲に段々人が居なくなっていく中、大噴水を背にスマートフォンを片手にこちらを向いて立っている中肉中背の中年男性が正面に目に入った。悠然として明らかに周囲とは異なる雰囲気を身に纏っている。

「ケイスケさん!」メグが駆け寄ってゆく。


彼が右手の親指でスマートフォンを操作すると僕等とゴリラの間の空気が揺らぎ、どこから射出されたのかワイヤーネットが現れ、ゴリラをがんじがらめにする。ゴリラはすぐさま両手の先に刃渡り30cm位の大型のサバイバルナイフを展開し、絡まっているネットを切断しようとするが、鋼鉄製のワイヤーネットは硬く、脱出するのに手間取っている。


「すまない。奴等がゴリラまで投入してくるとは思わなかった。」

「こっちへ。」と促され、ケイスケさんの後を付いて、メグに手を引かれながら大噴水の奥に走る。大噴水の陰を左に回って曲がった一瞬、視界が揺らぎ、頬が少しひやっし、ふわりとした浮遊感を感じた後に寛永寺の大伽藍の中に身を置いていた。

一息付いたところで、僕の手の甲の擦り傷を見ながら、ケイスケさんが僕に「素手でゴリラを倒す奴を初めて見た。」と驚きを込めて言った。

 

 「ここは・・・。」

辺りを見渡し戸惑う僕にケイスケさんが説明する。

 「量子世界だ。」

「しごく簡単に言うと太古の昔から言い伝えのある『アガルタ』、『桃源郷』等の異世界を人工的に再現したものだ。」

 僕が無言でいると。

「『シュレーディンガーの猫』の話を知っているかい。」

「量子力学では、対象を状態の重ね合わせとして記述し、観測によって一つの状態がある確率で実現する。箱の中にいる一匹の猫は、箱を開けて確認するまで、死んでいる猫と生きている猫の重ね合わせになるという話ですよね。」

一応(今のところ)、理系大学を目指している僕は答えた。

 「本当は、全てのものは重ね合わさって存在しているとしたら…。」


-心霊現象や神隠し、異世界は量子学で説明できるようになった。全てのものは量子上、重ね合わさって存在し、本来、その情報には整合性が取れている。しかし、何かの理由で、何かの拍子に、量子上に重なり合っている情報に不整合バグが生じることがある。その不整合バグがそれ程大きくないが強い情報-例えば、強い残存思念等-である場合、幽霊等の心霊現象や怪奇現象となり、大量で強力な情報の不整合バグがある場合に、その不整合情報バグに引っ張られ実体が現実世界から移相ずらされることが神隠し、移相ずらされた先が異世界となる(ちなみに人の残存思念の存続期間は最大5百年位らしい)。量子世界は一歩進んで異世界を人為的、科学的に再現したものである。今のところ、現実世界にかつてあったものを、それがあった場所に再構築リコンストラクションするのが精一杯で、現実世界に痕跡すら残っていないものを再構築リコンストラクションすることは出来ないらしい。


後から確認した話も纏めると、大まかに言えば量子世界の創り方は次の通りだ。人工知能(AI)を活用し現実世界の情報を基に仮説、検証、再構築リコンストラクションという演算を高速大容量で繰り返し、爪の先より小さな量子の上にブロックチェーン技術を用いて、その場所にかつて存在した、記憶や歴史-情報をいわば地層の様に膨大に蓄積していく。蓄積された情報が飽和点を超えると、液体が気体に状態変化するように量子世界が量子の霧の中に出現する。その後、再構築リコンストラクションした量子世界に現実世界の自分自身の存在を移相ずらして移行ダイブするらしい(詳細は、「難しいから。」と教えてもらえなかった。)。特に2つ目の移相ずらす技術を持っている者達は「失わざる者達」(Unlosables)と呼ばれている。誇り高い彼らは移相技術の悪用―特に軍事目的。例えば、移相技術を用いれば兵器の秘匿はおろか奇襲攻撃にも活用できる―を恐れ、既存の特定の組織や政府に属さないが、世界の強国からはその技術を狙われている。

そもそも情報の積上げで現実世界にないものを再構築リコンストラクションできるのかと僕が聞いたとき、身近なものでは、皆が大好きな恐竜、例えばティラノサウルス・レックスがどんな色や形、大きさでどう歩き、走り、どんなものを食べ、どう獲物を捕らえた等は、皆が知っているようで実は誰も見たことがない。情報の積上げによる再構築リコンストラクションの賜物だとケイスケさんは例え話で教えてくれた。

最初は小さなもの-戦火で失われた「芦屋のひまわり」(実はゴッホ展の「芦屋のひまわり」のプロジェクション・マッピングの元データでもあった。)や元の長さに復元された佐々木小次郎の野太刀「備前長船長光」、戦争で行方不明になった旧国宝名刀「蛍丸」等-を再現していた彼等(Unlosables)が初めて大規模に再構築した量子世界。それが上野寛永寺だ。

寛永寺は上野公園内に痕跡があちらこちらに残されている上に江戸時代の広重の絵等、様々な資料が揃っていて、かつ、再現の為の十分な情報もあるのに現実世界で再現されていない状況にあり、再構築リコンストラクションの条件を満たしていた(例えば、ドレスデンの聖母教会は、第二次世界大戦で破壊される前の情報が残っていたが、実際に再建されてしまったので量子上に再構築リコンストラクションすることは出来ない)。

さらに量子世界の欠点は、量子上に再構築する為には暗号資産の発掘マイニングのように莫大な電力が必要となることなのだが、都心部はシールド等から十分な電力供給を受けられるのでその問題も解決クリア出来ていた。


ゴリラ襲撃事件の後、メグとは量子世界で会うようになった。先に言っておくと量子世界は仮想現実ではない為、実体が現実世界から量子世界に移ることになる。その為、現実世界から量子世界には移相ずらされた際に現実世界に意識を失った身体が転がっているなんてことはない。

西郷さんの銅像の前で待ち合わせした後、メグに手を引っ張られて進む。視界が一瞬歪み、頬がひやっとし、少しの浮遊感の後に寛永寺の大伽藍が眼前に現出する。

段々判ってきたのだが、「失わざる者達」(Unlosables)は上野公園の所々に量子世界の入り口を設けている。例えば、西郷さんの銅像のある広場の北端の樫の木の下のベンチの東側2枚目の石畳。石畳を合いカギを持った者-メグがタタタと簡単なリズムで踏むと量子世界に移相する。入り口はいわゆる龍脈や霊道といった量子の流れのあるところに設けられている。水が高いところから低いところに流れるように、山野で獣が通るところに獣道が出来るように量子が蓄積しやすい、世界の裂け目となる特異点というものがあるらしい。

 寛永寺をうろうろするだけだと我々若者には面白みがないので、メグがスマホ・アプリの時計の針をクルクルと時計回りに素早く回す。量子上に蓄積された各時代の記憶アーカイブが、ドラえもんでタイムベルトを使うときのように眼前に現れ、ビデオの早回しのように変わってゆく。建物がにょきにょきと生えてきたり、なくなったりする(非常に短期間だけ不忍の池のほとりに出現するギザギザの五重塔みたいな高いビルが特に僕の目を引いた)。江戸時代の寛永寺に至るまで蓄積された時の流れに沿った移り変わりを追った情報群(そう言えば、平成の上野科学博物館の情報にはケイスケさんのいたずらで、ティラノサウルスを含め化石や剥製が生きているように動くイースター・ エッグが仕込んであるそうだ。平成に仕込んだ理由は、昭和だと今とは異なりティラノサウルスが直立に近いゴジラのような格好で展示されているからだそうだ。)。今回はバブル直前の昭和で時計の針を止め、アメ横のガード下を探検する。非常に活気がある。呼び込みのおっちゃんがどんどんおまけを乗せてくれるので、おっちゃんの右手の上でどんどん高くなってゆくお菓子の塔にメグが大喜びしている。

情報アーカイブのはずなのに何でやり取りできるのか不思議に思うが、どういう仕組みになっているのかは僕には良く判らない。それはさておき、芸と呼ぶしかない独特のリズムを持つ昭和の呼び込みは見事だ。


別の日。今日は珍しく江戸時代。現実世界は夕立が来ると聞いているが、量子世界こちらでは長閑な日差しの下、根本中堂で抹茶を頂いている。根本中堂-他の諸堂より遅れて元禄11年(1698年)落慶。重層入母屋造、間口45.5メートル、奥行42メートル、高さ32メートルという壮大な規模の仏堂である。現実世界では大噴水の辺りだろうか、量子世界は設定が江戸時代だからか体感温度も数度低く感じ、現実世界より涼しく過ごしやすい。静かで澄んだ空気の中にいると京都に観光に来たような気分になる。よく観ると情報量が不足して再構築し切れなかったのだろうか、庭園の中の数本の松の木の粒度が荒く、通信状況が悪い時のストリーミング再生のようにカクカクと揺らいで見える。

メグは、ちょっと用足しに行っている。おそらくトイレだろう(もちろん本人に聞いていないが)。花の女子高生に江戸時代のぼっとん便所はさすがにキツい。おそらくスマホ・アプリの時計の針を回して別時代に行っているだろう。戻って来るにはもう少し時間が掛かりそうだ。


代わりに袈裟を着たケイスケさんがやってくる。僕の単なる直観だが、ケイスケさんにはどこか他人に踏み入らせない暗い翳の部分があるのを感じる。

「やあ。カズキ君。」

「この間は、バタバタしてゆっくり話せなかったが、君とは一度ゆっくり話したかったんだ。」

 ケイスケさんが、僕が見ている松に気が付く。

「あれかい。先日のゴリラの襲撃で現実世界の松の木が折れたんだ。量子この世界の基礎ベースとなる現実世界の情報が変わってしまったので、量子世界こちらの松の木にも影響が出ている。早く情報を補正しなくちゃならないんだが、まだ手を付けられていない。」と言った。

 -だとすると僕も現実世界に戻れなくなってしまうことがあるのかも知れない。

げっという顔をしていたのだろう。ケイスケさんは僕に、

「大丈夫。君の情報に歪みは生じていないよ。僕だってそうさ。」とケイスケさんは両手を広げて見せた。

「現実世界と情報の紐付けが出来ないと量子世界は構築出来ない?」という僕の質問にケイスケさんは含みを持たせて薄く笑って見せた。

そして、「さて。」とより真剣な顔になったケイスケさんに「薄々気が付いていると思うが、」と前置きされ、僕はメグが既に亡くなっていることを告げられる。

「今のメグちゃんは、彼女が亡くなったことを嘆き悲しんだ彼女の父親が自分の命に代えて再構築リコンストラクションした存在だ。」

僕は、去年-高校1年の冬、母親に聞いた話―「メグちゃんが亡くなったんだって。」―を、凍り付いた母親の顔と対照的な、そのときの夕食時の暖かい湯気の気配と共に思い出し、ずっと感じていた違和感の正体を知る。そして、彼女がひたすら前向きだった理由も…。

 実は現実世界と量子世界を行き来するだけなら、言うなればディズニーランドを入退園するのと変わらない。しかし、現実世界にないものを量子世界から取り出すのであれば話は別だ。「失わざる者達」(Unlosables)が真に秘匿している技術の一つはこの技術-死した者を蘇らせる禁断の秘術。量子世界で作り出され、現実世界と行き来できる唯一の存在であるメグは真に庇護すべき存在となっている。敵の脅威が迫ってきている中、より一層警戒を強めなくてはならない。逡巡の末、「失わざる者達」(Unlosables)は僕に真実の一端を明らかにすることにしたのだろう。

 「メグちゃんは君に会うために現実世界に行っているんだよ。」

 ケイスケさんが優しそうな目で眩しそうに僕を見た。

 僕はメグが何故、あんなにも何事にも一生懸命だったかを始めて分かった気がした。そして、それに比べ自分が余りにも安きに流れていたかということも。

 「人は自分の見たいものしか見ない」と聞いたことがあるが、僕はメグのことを本当は何も分かっていなかった。いや、メグのことを親身に考えて来なかった。本当に大事なものが何かをまるで判らず、ただ日々を過ごしていただけだったことに、今更ではあるが気が付かされた。


根本中堂まで急いで戻ってきたとき、松の木の陰でケイスケさんとカズキ君が話す声が耳に入ってきた。

「えっ。」

私は手に持っていたスマートフォンをぽとりと松の木の根元、松の茶色い葉っぱが降り積もっている地面に取り落としてしまった。

「私、死んだの!?」

そういえば少し前、カズキ君と歳の話になった時、カズキ君は17歳、私は16歳という話から…。

「あれっ?メグって早生まれだっけ?」

「私は5月生まれよ。いやぁねえ-。私の誕生日も覚えていないの。」

「いやー。あはは。」とカズキ君は笑って誤魔化していたけど、そのとき本当に重要だったことは…。

身体の、臍の下の方がすっと冷たくなった。臍の下、丹田から下の身体が砂時計の砂のように崩れてゆく感覚。地に足が付いていない感じがする。

私は、初めて量子世界に足を踏み入れた時のことを思い出し始めていた。深い水底から浮かび上がってくるように、あるいは深い眠りから目覚めるときのように。ふわっと浮き上がる感覚と共に目覚めたあの日。私は、がらんとした無機質な部屋の真ん中にある水で満たされた大きなガラスの筒の中に居た(全裸だったのでその後、大騒ぎしたっけ)。そう。決して、自分の足で現実世界から量子世界に踏み入れた訳ではなかった。

ずっと前からお父さんとケイスケさんは研究室が一緒で、長い時間を掛けて何かを一緒に研究していた。私はお父さんの時間を奪うように見えたケイスケさんが子供の頃はとても嫌いだった。

-この私の身体は、手や足は、胸は。ひょっとして単なる情報データでしかないの。

私は両手で全身を、自分自身を抱きしめるかのように素早く、しかしぎゅっと、自分自身の感触を確かめるように撫でていった。

-暖かい。

でも今このことを考えている私自身は一体何者なのか。


激しい夕立の降る日、夏の日差しに照らされたアスファルトが雨で急に冷やされ、油と埃のむせ返る様な匂いが立ち込める中、紛争地帯で両手を使って作業をしている際に襲われる例が多発した為に開発された自動迎撃システム-火器を装備した4本の副腕-「アシュラシステム」を背面に装備した強化型アシュラ・ゴリラ4機に量子世界に侵入される。

春先に「失わざる者達」(Unlosables)の仲間が某国に捕まっており、暫く後から某国の関係者が上野公園界隈に出没するようになって来たと云う。

アシュラ・ゴリラは、自分自身を情報データ化し階段を一段一段下るように現実世界から量子世界の年代を少しずつ遡り、江戸時代のここ寛永寺に迫ってくる。量子世界の各年代の人々がアシュラ・ゴリラにわらわらと取り付き行く手を阻んでいるよう(それを聞いた僕の頭の中にはアシュラ・ゴリラがアメ横のおばちゃん、おじちゃんに囲まれて困っている姿が何故か浮かんできた。さらに言えば、平成の上野科学博物館のティラノサウルスも大暴れしていることだろう。)だが、彼等、彼女等は所詮、幽霊のようなものなので、大した足止めにはならない。アシュラ・ゴリラが寛永寺、そして、「失わざる者達」(Unlosables)の秘術-メグに辿り着くのは時間の問題だろう。


ケイスケさんがスマートフォンを操作し、平成の上野科学博物館のはく製の動物達に命を吹き込み、解き放つ。もちろん、ティラノサウルス等、恐竜も。

-これが役に立つ日が来るとは思わなかったな。

ケイスケさんは何だか少し楽しそうだ。


-何てことだ。

「ヴィクターワン。応答せよ。」

話が違う。現在から少し巻き戻った世界と聞いていたが、恐竜が大暴れしている。

ヴィクターワンはティラノサウルスに咥えられ、叩きつけられてしまった。

唯でさえ量子世界という訳の分からないところにダイブさせられる危険な任務なのに、ダイブした先が野生のジャングルだなんて聞いていない。

背の機関銃を乱射する。「失わざる者達」(Unlosables)は生きて捕獲せよと命令されているが、恐竜こいつらはその中に入っていないのは確実だ。


何とか恐竜達を躱して、さらに時代を遡る。

「安いよー。安いよー。」

-なんだ。この人だかりは。

大変な人だかりで先に進めない。敗戦直後の闇市か。あちこちから煮炊きの湯けむりが立っている。アメ横って聞いていたのに大阪っぽいのは何故だろう。情報データだと自分に言い聞かせるが、丸腰の人間を無差別に射撃することは躊躇される。それに「失わざる者達」(ターゲット)が混じっている可能性も否定できない。


やはり足止め程度にしかならないか。

ひたひたと迫ってくるアシュラ・ゴリラから逃げる為、メグに手を引かれ根本中堂に向かって走ると空気が歪み、いつもより少しだけ長くひやっとする感覚と共に目の前に突如、近代的な研究所が現れた。一層目が地層の蓄積だとすると断層の下にある量子世界の二層目。「失わざる者達」(Unlosables)は某国の襲撃に備え、上野の量子世界を重層構造にしていた。RPGで言えばダンジョンを一つクリアすると出てくる下の階層。量子世界バージョン2。根本中堂そのものを再現した一層目の下に、バージョン1とは異なり、現実世界との歴史的情報のリンクを持たない情報をさらに蓄積させて再構築リコンストラクションした「失わざる者達」(Unlosables)の本拠地―量子研究所―がある。量子研究所の先の深淵に太古から存在すると言われている本当の異世界『アガルタ』の気配を感じ取っている「失わざる者達」(Unlosables)は、研究所で日夜、『アガルタ』を目指して量子世界の研究を続けていた。

ころころ、ゴロゴロと言った擬音語から始まり、詩の韻、歌のさび。伝説やお笑いのモチーフ。リメイク、リテイク。作者や編曲を変えて繰り返される父と子の相克、貴種流転譚等。人は何故同じことを繰り返すのか。その答えは『アガルタ』への道。理想郷『アガルタ』は同じモチーフの情報の繰り返しの積み重ねの先にある。人は無意識に『アガルタ』を探している。

第二階層は同じモチーフの繰り返しを積み重ねてある。物語や唄等で場所や民族を問わず、繰り返されるモチーフ。人類がそこかしこで繰り返しているこの動作は無意識に『アガルタ』を求めてのものだった。


第一階層と第二階層との間には情報の断層がある為、単に時代を遡るという訳にはいかない。しかし、この量子世界は洞窟の入り口程度の大きさしかないことを判っているアシュラ・ゴリラは第一階層から一向に去る気配を見せない。第二階層-量子研究所を発見されてしまうのも時間の問題とも思われた。


『アガルタ』への道を明け渡す訳にはいかない-。

「失わざる者達」(Unlosables)は量子世界の第一階層の情報を強制消去することにした。具体的には現実世界の情報と第二階層を結び付けているそれぞれのブロックチェーンを切断する。第二階層である量子研究所は第一階層を基礎として、かつ歴史と異なる飛躍させた情報を精緻なパズルのように細心の注意を払って再構築リコンストラクションされている為、第一層を失うと、量子研究所(第二階層)は現実世界と量子世界とを行き来する架け橋を失ってしまう恐れがある。だるま落としで、一段を抜いた時に一番上のだるまが立っていられるか否かという話に似ている。だるまが落ちてしまうと、それは量子研究所(第二階層)に避難している「失わざる者達」(Unlosables)が現実世界に戻れなくなることを意味している。しかし、第一階層を荒らし回っているゴリラが第二階層に侵入するのを回避するために今すぐ出来ることは他になかった。第一階層を木槌で叩いて抜いてみるしか他に方法はなかった。

強制消去される第一階層に居るアシュラ・ゴリラはどうなるのか、僕が尋ねると。

「カズキ君。君は優しいな。」

とため息をつきながらケイスケさんは、アシュラ・ゴリラは現実世界に放り出されるか量子世界をさまようか、どちらかになる。確信はないが、おそらく前者になるだろうと語り、結果としてその通りとなった。

 「君も量子研究所ここまで来てしまったか。」

第一階層を強制消去する指示をスマートフォンで仲間(Unlosables)に伝えた後、ケイスケさんは改まって今まで見たことがない厳しい顔を僕に向けた。

 「量子研究所ここを知ってしまった以上。君は拘束させてもらう。」

 ケイスケさんの両脇から黒衣を着た数名の屈強な男が姿を現した(量子この世界は隠顕自在な魔法の世界な為、目の前に見えるものがすべてとは限らない)。

怯む僕を横から奪い取るようにメグが僕の手を引いて走り出す。


 -愛とか恋とかはまだ良く判らない。そもそも今のこの気持ちが、今の私のどこから生まれているのかも良く判らない。でも、私が好きな人には本当の世界で元気で居て欲しい。

 「待つんだ!」

 と叫びながらケイスケさんを始めとする黒ずくめの男達が追ってくる。メグが右手をさっと振ると空間が歪み、波打つ地面に溜まらず、ケイスケさん達は尻もちをついた。メグと僕は振り向かずに量子世界第二階層の果てまで逃げる。前を走るメグが時折、両目の涙を右手で拭っている。それでも走り続ける。


やがて息が切れ、第二階層の果てに向かって歩きながらメグがポツリと言う。

「私、なんとなく判ってた。」

第二階層の果ては、辺りが濃い霧に包まれたようになっていて先が見通せない。

「ごめんなさい。私が一緒に行けるのはここまでみたい。」

泣きべそをかきながらメグが言う。見るとメグのスカートの裾やシャツの袖がぼんやりとし、着衣が少し透けて見える。周囲にはキラキラと光る白い粒子が舞っている。第一層が切り離されようとしている影響なのだろうか。

メグと抱擁。メグの温もりが伝わってくる。間違いない。誰が何と言おうとこの瞬間、メグは間違いなく生きている。それに僕等だって生まれる前の羊水検査から始まって今に至るまで遺伝子情報ゲノムや能力、成績、興味があること等、全て遺伝子ゲノム検査や考査、閲覧履歴クッキー等、色々な手段で色々な時に情報化されている。一体それと何が違うのだろうか。


「今度は僕が会いに来るよ。必ず。」

「うん。待っている。」

大きな瞳を涙で濡らし、それでも何とか微笑もうとしながらメグは肯いた。そして、右手を下から上にゆっくりと、だが決意を持って振り上げる。すると霧の先に一本の光が差し、現実世界への出口が現れた。頬にひやっとした冷たい風を受けながら僕はその道を駆け上がる。振り返るとメグが遠くで振り上げた右手を大きく左右に振っている。


いつもと異なり大噴水ではなく寛永寺霊園に出た。帰路に着く為、鶯谷駅まですっかり暗くなった道を一人で歩く。上野一帯は大停電となっており、あれほど激しかった夕立の後、ひんやりとした冷気に包まれていた。漆黒の夜空を見上げれば、天頂付近は雲が切れ、普段、都会では見ることが出来ない天の川が英語でミルキーウェイと呼ばれるように、光り輝く薄い衣のように燦然と輝いている。僕は足を止め夜空を見上げ、その冷厳な輝きにしばし見惚れた。今日は旧暦の七夕。織姫と彦星が年に一度会う日。しかし、それは人間が勝手に星に自分の願いを託しているだけであって、夜空の星は知らん顔をして光っている。

僕は今まで量子世界なんてものは知りもしなかったし、量子世界に移相できたのも「失わざる者達」(Unlosables)-メグに助けてもらっただけだった。それに彼らが本当に困っているときに何もできなかった。僕は自分を慎重すぎると思っていたが、ただ単に今までは人との関わり合いを避けて、流されるままに生きていただけなのかもしれない。

-強くなりたい。量子世界に自分の力で行けるほどに。人が造りしものであるならば、人がまた同じものを造りだすことも可能なはずだった。

-しかし。

こんなにも自分が無力で、力が欲しいと思ったことは今までなかった。

僕もいつかきっと、彦星のように自分の力で量子世界に、メグに、会いに行くと星空に誓った。



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