こぼれ話 クトゥズの出自
マムルーク朝第四代スルタン・クトゥズ。フルネームはアル=マリク・アル=ムザッファル・サイフッディーン・クトゥズ。
前回述べたとおり、アイン・ジャールートの戦いの主役の一人です。いやむしろ、真の主役というべきでしょうか。マムルーク朝軍全体の指揮を執っていたのはスルタンである彼自身で、バイバルスはあくまでその副将格だったわけですから。
本編執筆にあたり色々調べていた時にはうっかり読み落としてしまっていたのですが、彼はホラズムの血を引いていたとの説があるそうです。本人曰く、本名は「マフムード・イブン・マムドゥッド」とのこと。
Wikipediaのクトゥズの項(日本語版)ではそう自称していたといった書き方ですが、「ホラズム・シャー朝」の英語版記事に掲載されている系図だと、同王朝の第七代スルタンであるアラーウッディーン・ムハンマド(1169~1220)の娘の子だと断定しています。
そこで気になるのが、そんな出自の人物が何故奴隷に身を堕とすことになったのか、ということ。今回はその点を掘り下げてみたいと思います。
クトゥズの祖父だとされているアラーウッディーン・ムハンマドは、モンゴル高原を統一したチンギス汗の勢力と衝突してしまった不運な人物。まあ、彼自身に責任のある部分もあるのですが、彼の時代にホラズム・シャー朝はその版図のほとんどを奪われます。
しかし、モンゴルの台頭以前には、ホラズム・シャー朝は中央アジアの盟主的な立場で勢威を誇っていました。
首都は、1212年まではクフナ・ウルゲンチ。現在のトルクメニスタン領、ウズベキスタンとの国境付近の古都です。
同年、サマルカンド(現ウズベキスタン領)に遷都したのは、そこを首都としていた西カラハン朝という国を征服したから。
アラーウッディーン・ムハンマドの娘でクトゥズの母とされるカーン・スルターン(生没年不詳)は、西カラハン朝の最後の君主ウスマーン(オスマーン:?~1212)に嫁いでいました。
この、ホラズム・シャー朝と西カラハン朝、そしてホラズム・シャー朝以前に中央アジアの盟主的立場にあったカラキタイ(西遼)を巡る歴史も非常に面白い――チンギス汗に敗れて逃れてきたナイマン族の王子クチュルクがカラキタイを乗っ取ったりとかね――のですが、書き出すときりがないので要点だけ簡潔に。
カラキタイの支配から脱したかった西カラハン朝は、ホラズムのスルタンの娘を娶りその庇護下に入りますが、今度は逆にホラズムの圧政に苦しむことになります。そしてついには反乱を起こし、国内のホラズム人を虐殺するも、結局ホラズムに滅ぼされてしまいます。
この時、ウスマーンはじめ西カラハン朝の王族は皆殺しにされます。王妃たるカーン・スルターンがどうなったのかははっきりわからないのですが、ホラズムのスルタンの娘ですから、当然処刑されることなく親元に引き取られたのでしょう。
それにしても、「カーン・スルターン」というのは奇妙な名前ですね。
「カーン」はテュルクやモンゴルなどの騎馬民族の君主や有力者の称号で、「スルターン」はイスラム世界における君主の称号。別系統の言語における称号を重ねる例は、チンギス汗とモンゴル高原の覇を争ったケレイト族のワン・ハン(オン・カン:「ワン」は中国語で王、「ハン」はカーンに同じ)などにも見られますが、女性の名前としてはやはり奇妙です。「カーンに嫁いだスルターンの娘」といった意味の呼び名だったのでしょうか。
話を戻しまして。
クトゥズの父親はこのウスマーンだったのでしょうか? おそらくその可能性は低いと思われます。
第一に、実の娘が産んだ子とはいえ、敵の血筋を残しておくようなことは普通しないだろうということ。織田信長だって、妹であるお市の方が産んだ浅井長政の子を処刑していますからね。
第二に、年齢的な問題。第一話でも述べたように、マムルークというのは少年の頃から戦闘技術や軍事知識を叩き込んで育成するのが常ですから、主の年齢より上というのは考えにくいのです。
このあたり、クトゥズ自身も、その主であったアイバクも、軒並み生年不詳なので推測に推測を重ねることにはなりますが、アイバクの主であるサーリフが1205年頃の生まれということなので、そのいわば「孫マムルーク」にあたるクトゥズが1212年以前の生まれというのは、あり得なくはないですがちょっと考えにくいでしょう。
これはあくまでも私の想像ですが、おそらくは、西カラハン朝滅亡後、ホラズムに連れ戻されたカーン・スルターンがホラズムの王族なり貴族なりと再婚し、そこで生まれた子なのではないでしょうか。
では、奴隷になったのはいつ頃のことだったのでしょうか。
クトゥズの前半生についてははっきりしたことはわかっておらず、様々な伝承が残されている、という状況のようですが、やはりホラズム滅亡時にモンゴルの捕虜となり、奴隷として売られたというのが定説のようです。
だとすると、ホラズム滅亡の過程のどの時点だったのでしょうか。
首都サマルカンド陥落が1220年、首都を逃げ出したアラーウッディーン・ムハンマドがカスピ海の小島で没したのも同年末。最後に残された主要都市・ヘラート(現在のアフガニスタン西部)が陥落したのが1222年。
このあたり、もしくはそのしばらく後くらいに捕虜となって、その頃に十代前半ぐらいだとすると、先述の通り年齢的に若干不自然です(あまり幼い子は奴隷売買には適しません。当時は子供の死亡率も高かったですからね)。
ホラズム=シャー朝という国自体は、前述の通り1222年に滅亡してしまうのですけれども、実はアラーウッディーン・ムハンマドの子のジャラールッディーン・メングベルディー(1199~1231)という人物が、第八代――最後のスルタンとしてこの後もしばらく抵抗を続けます。
まあ、モンゴル軍の追撃を振り払いながら各地を転戦、と言うと聞こえは良いのですが、実際には、行く先々で現地の勢力と衝突、時には征服したりして回っているのですから、現地の人々にとってみたらとんだ迷惑。さながら、ゲルマン民族大移動といった趣です。
ちなみに、彼の妻はインドマムルーク朝(奴隷王朝)第三代スルタンであるシャムスッディーン・イルトゥトゥミシュの娘。後に女性スルタンとなるラズィーヤの姉妹です。
ジャラールッディーンは1221年2月にパルワーンの戦いでモンゴル軍に勝利を収めるも、その後すぐにインダス河畔の戦いで大敗、インドに逃れイルトゥトゥミシュに保護を求めるのですが、丁重にお断りされてしまいます。
ただ、イルトゥトゥミシュとしては、軍事的才能は確かにあるジャラールッディーンに誼を通じておく必要を覚えたのか、彼に娘を嫁がせました。
彼女がその後どうなったのかはわかりませんが、正直、幸せな人生を送れた可能性は低いでしょうね。
結局インドを追い出されたジャラールッディーンは、その後中央アジアから中東の各地を転戦。この過程は非常に煩雑なので割愛します。ご興味のある方は彼のWiki記事をご覧ください。最終的には、1231年8月、現在のトルコ東部でモンゴルの追手に敗北し、現地住民に捕らえられ殺害されます。
ここに至る過程のどこかで、叔父(生年から言って、カーン・スルターンよりも年下でしょう)が率いる軍勢とともに逃亡していたクトゥズは、モンゴルもしくは現地勢力の捕虜となり、奴隷として売られたということでしょうか。
そう考えると、おおよその辻褄は合いますね。
そうそう、ホラズムの残党といえば、例のエルサレムを蹂躙したヒャッハーな連中がいましたね。彼らの素性はどのようなものだったのでしょう。
ジャラールッディーンに最後まで付き従った者たちは、モンゴルの追手によってほとんど討ち果たされてしまったようですが、それ以前に彼と袂を分かった者たちも少なくなかったようですから、その者たちの生き残りがサーリフに臣従した、ということかと思われます。
ただ、おそらくそんな形だったのではないか、という推測だけで、詳細はわかりません。
ホラズム騎兵団を率いていた人物として、サーリフのWiki記事には「フサームッディーン・バラカ・ハーン」という人物の名が記されていますが、彼の出自も全く不明です。ホラズムの王族ないし貴族の血筋なのか、あるいは20年におよぶ流浪と転戦の中から実力でのし上がった人物なのか――。
そして、バイバルスの妻の一人に、「フワーリズミーヤ(中央アジアのホラズム地方出身者から構成される軍)の長ベルケ(バラカ)・ハーンの娘」という女性がいるようなのですが、この「ベルケ(バラカ)・ハーン」とフサームッディーン・バラカ・ハーンは同一人物なのか?
ホラズム騎兵団はラ・フォルビーの戦いの後、サーリフに褒美を誤魔化され、暴発した末に討伐されたのではなかったのか? 一人残らず討ち果たされたというわけではなかったにせよ――。
とまあ、色々と謎だらけなのですが、これらの点についてあれこれ考え、絶対にあり得ないということもないよね、という感じで小説的脚色を加えた末に、拙作『フリードリヒ二世の手紙』ではいささか大胆な仮説(という名の妄想)を立ててみました。
興味がおありでしたら是非お読みください。
あと、女性スルタン・ラズィーヤさんのエッセイもあるよ^^;