決戦、アイン・ジャールート!
モンゴルの人名等の日本語表記については、「ジュチ」、「ジョチ」など、複数存在する場合があります。研究書であれば一定のルールに従って統一すべきなのでしょうが、本稿はお気楽エッセイですので、作者がそれで覚えているとか単に好みとか何となくとかで使っています。ご了承ください。
まあ、アラブ等の固有名詞についても、すでにそんな感じで記載してきましたので、今更ですが。
バイバルス君がシリア方面で苦労している間に、モンゴルの状況について見ておくことにしましょう。
「モンゴルの脅威」と一口に言ってきましたが、この時期のモンゴル帝国はすでに一枚岩ではなくなっています。
チンギス汗(1162?~1227)の正嫡である四兄弟、上から順番にジュチ(ジョチ:諸説あり~1225)、チャガタイ(諸説あり~1242)、オゴタイ(オゴデイ:1186~1241)、トゥルイ(トルイ:1192~1232)。彼らのうち、長男と次男の仲は険悪、それもあって、人当たりの良い三男オゴタイがチンギス汗の後継者となります。
長男ジュチ――チンギス汗の正妻ボルテが、モンゴル高原内で当時敵対していた部族メルキト部に攫われ、奪い返した後に生まれたため、「客人」という意味を持つ名を付けられた、というエピソードは、井上靖氏の小説『蒼き狼』等でご存知の方も多いでしょう。次男チャガタイとの不仲も、このことと絡んでいるようです。
モンゴルの西方侵略を任されたジュチの軍団は、彼の次男バトゥ(1207~1256)に継承され、ロシア、東欧方面を蹂躙します。
モンゴル軍の破壊・残虐行為については、あまり詳述するとR15が外せなくなってしまいますので、深入りはしませんが、いささか誇張されてはいるようです。
その理由としては、一つには被害を受けた側であるヨーロッパの、恐怖と偏見を多分に含んだ記録が額面通りに受け取られてしまったこと、もう一つは、モンゴル側が威嚇のために自ら大げさに吹聴したこと、などが挙げられます。
そもそも、モンゴル帝国はその領域拡大の過程で、征服した都市を帝国のネットワークの中に取り込んでいるわけで、ちょっとでも抵抗したら皆殺し、なんてことをやっていたら成立しません。
とは言え、やはりいくつもの都市において虐殺が行われたことは否定しきれないでしょうし、擁護めいたことはほどほどにしておきましょう。
ちなみに、第一回十字軍の時、シリアのマアッラという都市において、征服した十字軍兵士たちが人肉を喰らった、という話が当の十字軍側の記録に残されていますが、まあこれは余談。
1236年2月、バトゥは皇帝オゴタイから西方遠征軍の総司令官を拝命し、チンギス汗の四兄弟の流れを汲む各王家の長子らも軒並み参加する大規模な遠征部隊が組織されます。
遠征軍はカスピ海北方から黒海北方にかけてのキプチャク草原を席巻。バイバルス君が奴隷となったのもこの時期ですね。
その後遠征軍はロシアの各都市も征服します。
ロシアを征服したバトゥはカルパチア山脈の手前で軍を分け、ポーランド方面をチャガタイの六男バイダルが担当、バトゥはハンガリー方面を目指します。
バイダル率いるポーランド方面軍は、レグニツァの戦い(1241年4月)において、ポーランド・ドイツ連合軍を撃破します。「ワールシュタットの戦い」とも呼ばれるこの戦いにおいて、大将であるポーランド大公ヘンリク二世ら王侯貴族も軒並み戦死、連合軍が被った損害は壊滅的なのもとなりました。
一方、同時期にバトゥ率いるハンガリー方面軍は、モヒの戦い(「シャイオ河畔の戦い」とも)において、ハンガリー王ベーラ四世を敗走させます。
この東方からの侵略者に対し、西欧の反応はいささか鈍いものでした。
ベーラ四世がモヒの戦いに先立ってバトゥから降伏勧告を受け、モンゴルの脅威をローマ教皇や西欧各国に訴えたのですが、当時はローマ教皇と神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世が対立の真っ最中。フリードリヒはヨーロッパ一丸となってモンゴルに対抗することを訴えるも、教皇はそれを拒み、フリードリヒに対する破門も解こうとはしません。
フリードリヒはやむなく、息子のコンラートを救援に派遣するのですが……、意外な形で危機はひとまず去ります。モンゴル帝国第二代皇帝オゴタイが崩御し、後継者争いが勃発したため、バトゥは軍を引いたのです。
オゴタイの次の第三代皇帝を巡っては、色々と悶着があったのですが、簡単に言うと、オゴタイの長子グユク(1206~1248)の即位にバトゥが異を唱える、という格好です。グユクはバトゥの西方遠征に参加していましたが、その時に仲違いをしたようです。
が、結局グユクが即位。バトゥは臣従の誓約を拒み続けます。ついには、グユクはバトゥ討伐に出陣しますが、その途中で崩御。父オゴタイと同様に酒色が過ぎたため、と言われていますが、バトゥによる暗殺説もあるようです。
バトゥは第四代皇帝に、トゥルイの長子で仲の良かったモンケ(1209~1259)を推挙します。この時、バトゥを皇帝に推す動きもあったようですが、彼は陰の実力者に留まる道を選び、自ら征服したロシアの地に、キプチャク汗国(ジョチ・ウルス)を築きます。
このモンゴル帝国第四代皇帝モンケの下、次弟フビライ(クビライ:1215~1294)による南宋攻略、三弟フラグ(フレグ:1218~1265)による中東攻略が企図されます。
日本とも関りが深いフビライですが、本稿ではひとまず措いといて、フラグによる中東侵略を見ていきましょう。
モンケにより1253年、征西軍総司令に任命されたフラグは、1256年にはイスラム教ニザール派の拠点アラムート砦を陥落させます。
このニザール派は、イスラムの二大分派、スンナ派とシーア派のうちのシーア派の更に分派の一つなのですが、一般には「暗殺教団」として有名ですね。大麻を使って暗殺者を作り、政敵のところにじゃんじゃん送り込む、というあれです。
ただし、この教団についてはかなり俗説まみれなようなので、詳しくはwikiとかで調べてみてください。
さらに、1258年にはアッバース朝の首都バクダッドを攻略、イスラム教の最高権威たるカリフ・ムスタアスィム(1213~1258)を殺害して同朝を滅亡させます。
この時、バクダッドにあった大図書館「知恵の館」も焼失、アラビア語に翻訳された膨大な量のギリシャ科学の文献が失われました。そのため、「モンゴル=文明の破壊者」というイメージが定着しているのですが、その一方で、フラグは配下の学者に命じてニザール派の書庫を接収させたり、イランのマラーガに天文台兼図書館を建設させたりと、文明に理解のある一面も見せています。
ところで、モンゴル帝国はどのような宗教を信仰していたのでしょうか。
モンゴル部族本来の信仰としては、天を崇拝する素朴なシャーマニズムですが、周辺の民族の信仰を柔軟に取り入れ、チベット仏教やネストリウス派キリスト教、イスラム教などを信仰する人たちも少なくありませんでした。
ネストリウス派キリスト教は「景教」とも呼ばれ、キリスト教内で異端として排斥されて東方に逃れ、ササーン朝ペルシャを経て中央アジア、モンゴル、中国にまで広がった一派です。当時モンゴル帝国内にもこの信者は多く、それ故ヨーロッパにはモンゴルを対イスラムの同志と見做す考え方も根強くあったのです。
でも、その一方で、正教徒を異端だからという理由でイスラム教徒やユダヤ教徒と同じように虐殺したりもしているわけですから、勝手な話ですよね。
ちなみに、フラグの正妻のドクズ・ハトゥンという女性もこのネストリウス派キリスト教徒で、そのため、バクダッド陥落の際、多くの住民が虐殺される中、キリスト教徒は助命されたといいます。
話は少し遡って、仏王ルイの十字軍遠征途中、キプロス島に滞在している時に、モンゴルからの使者が訪れます。これはグユク任命の征西軍司令官イルジギデイが送った使者で、エジプト攻略の共同作戦を持ち掛けますが、両者ともに相手を対等な交渉相手とは見ていなかったことから話は噛み合わず、またルイがマンスーラで大敗したことから、この話自体は立ち消えとなります。
さていよいよ、モンゴルの侵略がシリアにまで迫り、バイバルス君の出番です。
前話で述べたとおり、この時期バイバルスはエジプトを逐われダマスカスの領主ナースィルの下に身を寄せていたのですが、このナースィル、モンゴルを恐れて降伏しようとします。
それに腹を立てたバイバルス、ナースィルの下を去り、カラクの領主ムギースを頼るも、さらにそこにもいづらくなります。
そうこうしているうちに、モンゴルはアレッポ、ダマスカスを征服。いよいよエジプトにまで侵略の手が伸びようとしたところで、バイバルスはマムルーク朝への帰参を果たします。
この時期のマムルーク朝スルタンはクトゥズ。バフリーヤの長アクターイを討った人物です。
スルタン・アイバクが妻に殺された後、一旦はその息子が後を継ぐのですが、アイバクのマムルーク筆頭だったクトゥズがこれを廃し、自らスルタン位に就いたのです。
このように、同王朝では一部の例外を除き、スルタン位は世襲されず、マムルークの中の有力者が継承するという状況が続きます。「マムルーク朝」と呼ばれる所以ですね。
エジプトを逐われる原因となった張本人との和解――。話を持ち掛けたのはどちらからだったのでしょう。牟田口氏の『物語 中東の歴史』によればバイバルスからだったようですが。
良く言えば、エジプトの、そしてイスラムの危機に際して、これまでの行きがかりを捨てての大同団結です。
悪く言えば、危険視して追い出した張本人と、その後も反抗を続けるも微妙に居場所のない逃亡者の……まあこれくらいにしておきましょう(笑)。
少なくとも、クトゥズの側にも、モンゴルの脅威を打ち払うにはバイバルスの力を借りる必要がある、という認識はあったのでしょう。
最近「なろう」で流行りの追放もので、主人公を追放した元パーティメンバーとかが後になって主人公を呼び戻そうとする展開に対し、「お前らにはプライドってものが無いのか!?」といった批判がしばしば見られますが……。いざとなれば些細なプライドなど捨ててしまえるのが、良くも悪くも人間というものです。なろう作品の人間描写も、中々に正鵠を射ていると言っていいでしょうね。
一方、バイバルスの方も、「もう遅い」などと器の小さいことは言わずに、クトゥズの下で対モンゴル戦に全面協力します。
さて一方のモンゴル。フラグはアッバース朝を滅ぼした後、さらにシリアのアイユーブ一族を追いつめていくのですが、1260年春になって、彼の元に皇帝モンケの訃報がもたらされます。モンケの死は前年8月のことなのですが、シリアの前線まで情報が届くのに、それだけ時間を要したようです。
その結果、またまた起こるお家騒動。今回は、フラグの兄フビライと、弟のアリクブカ(アリクブケ:1219頃~1266)が皇帝位を巡って争います。
フラグは征西を部下達に委ね、東へ向かいます。と言っても、皇位継承戦に介入したりはせず、イラン地方に留まってイル汗国(フレグ・ウルス)を築くのですが。
フラグはシリアを去るにあたり、キトブカという人物を司令官に任命します。このキトブカもネストリウス派キリスト教徒です。
彼はスルタン・クトゥズに対して降伏勧告の使者を送りますが、クトゥズは使者の首を刎ねます。ちなみに、北条時宗が元の使者の首を刎ねるのはその15年後ですね。
フラグがシリアを離れたという情報は、マムルーク朝側も掴んでいたようで、バイバルスはキトブカに陥とされたダマスカスの奪還を提案。さらに、エジプトからの進軍ルート上にある十字軍国家群と交渉し、好意的中立を取り付けます。
エジプトを発ったマムルーク朝軍は、地中海東岸の十字軍国家領内を通過させてもらいながらダマスカスを目指し、その途中、イエスの布教の地として知られるガリラヤの丘陵地帯でモンゴル軍と激突します。
その近くには小さな川が流れており、旧約聖書の英雄ダビデに倒された巨人ゴリアテにちなんで「ゴリアテの泉」と呼ばれていました。そのアラビア語読みが「アイン・ジャールート」。世にいうアイン・ジャールートの戦いです。1260年9月3日のことでした。
両軍の兵力は、文献によって異なるためはっきりしないのですが、フラグの本隊が離れた後のモンゴル軍がマムルーク朝軍を大きく下回っていたことは間違いないようです。
とは言え、各地の戦いで圧倒的戦力差を幾度となく覆してきたモンゴル軍。油断はできません。
クトゥズは軍を分け、バイバルス率いる先遣隊のみをモンゴル軍に当てます。
兵力で劣るバイバルス隊は当然劣勢に立たされ、敗走。それをモンゴル軍は追撃するのですが、そこでクトゥズ率いる本隊が背後を衝き、バイバルス隊も取って返して、モンゴル軍に対して包囲殲滅陣を完成させます。はなから兵力的にはマムルーク朝軍優位ですからね。
元々、わざと劣勢に立ち敗走すると見せかけて、釣られて追撃してきた敵を伏兵や遊撃部隊で包囲殲滅、というのはモンゴルのお家芸なのですが、ここでは完全にしてやられます。
大将キトブカは、戦死とも捕虜になった後斬首されたとも言われています。
アイン・ジャールートの戦いについては、フラグの戦線離脱後に残された小規模な残留部隊に対し、兵力で大きく上回るマムルーク朝軍が順当に勝利を収めただけ、という見方もありますが、モンゴル帝国によるイスラム圏への侵略を阻止し、歴史の転換点となったことは間違いないでしょう。
さて、アイン・ジャールートで勝利を収めた後、マムルーク朝軍は、ダマスカス、アレッポも奪還します。が、ここで事件が起こります。
バイバルスはクトゥズに対し、アレッポの総督に任命してくれるよう請うたのですが、クトゥズはこれを拒みました。バイバルスにシリアで独立されることを恐れたのです。
器が小さいと見るべきか、当然の懸念と見るべきか――。いずれにしても、このことがクトゥズの運命を決します。
一旦、軍をまとめてカイロに帰還しようとしたクトゥズ。カイロまであと3日というところで小休止を取り、狩りに興じたりしていたのですが、そこでバイバルスがクーデターを起こし、自らの手でスルタンを殺害します。
普通なら大逆罪ですが、良くも悪くも実力主義なマムルーク達。元々兵士達の支持も厚かったバイバルスに異議を唱える者も無く、それどころか、新たなスルタンに彼を推します。
かくして、一介の奴隷の身であったバイバルス君は、ついにスルタンとなったのでした。バイバルス君、この時32歳。
なお、クトゥズの名誉のために一言付け加えておくと、色々残念な面もある彼ですが、モンゴルを撃退した英雄の一人として、イスラム世界ではそれなりに人気があるそうです。
こうして、スルタンとしてカイロに凱旋したバイバルス。カイロ市民にはさすがに戸惑いもあったようですが、クトゥズが課していた税の廃止や、兵の綱紀粛正などの施策により、不満も解消されます。
また、各地で反乱を起こす者たちも現れますが、バイバルスはこれらを鎮圧。国内を平定します。
ちなみに、バイバルスによりダマスカスで起きた反乱の鎮圧を命じられ、その後総督に任じられたのは、アイダキーン・アル=ブンドゥクダーリーという人物。そう、他でもない、最初にバイバルスの買い主となった人物です。この時彼はどんな気持ちだったのでしょうね。
奴隷の身からついにスルタンにまで成り上ったバイバルス。その後彼は、軍事面においては地中海東岸地域に残った十字軍国家を一掃します。
これはもちろん彼の軍事手腕もあるのですが、モンゴルの片割れキプチャク汗国が、バトゥの後継者となった弟ベルケの時代にイスラム化し、イル汗国との対立もあって、マムルーク朝の同盟国となったことも大きかったでしょう。
その一方で、政治面においてはマムルーク朝の土台を固めます。シリア・エジプト間を結ぶ駅伝制度を整え、首都カイロをはじめとする国内の整備も行いました。
残念ながら、実力主義の軍事政権から脱却し、子孫にスルタン位を継承させる体制を築くところまでは至りませんでしたが。
ということで、バイバルスの半生を駆け足でまとめてみました。
ちなみに、バイバルスのフルネーム、「アル=マリク・アッ=ザーヒル・ルクヌッディーン・バイバルス・アル=ブンドゥクダーリー」を解説すると、アル=マリク ⇒ 「王、支配者」、アッ=ザーヒル ⇒ 「明らかな、顕著な、勝利者」、ルクヌッディーン ⇒ 「信仰の柱」、バイバルス ⇒ テュルク語で「虎のベイ(指導者、有力者)」、アル=ブンドゥクダーリー ⇒ 「弓兵」の意で、彼の買い主の名、という意味になります。
十字軍撃退にモンゴル軍撃退と、大殊勲を重ねてきた英雄ではありますが、二度にわたる王殺しなど、ヒーローはヒーローでもダーティーヒーローという感じではありますね。
もう一人の対十字軍の英雄サラディンが、捕虜に対する寛大な態度などで聖人君子のイメージが強いのとは好対照です。
でも、そんなところも含めて、バイバルスという人物に興味関心を抱いていただけたら幸いです。
参考文献(敬称略)
・牟田口義郎『物語 中東の歴史』
・アミン=マアルーフ著 牟田口義郎・新川雅子訳『アラブが見た十字軍』
・佐藤次高『マムルーク―異教の世界からきたイスラムの支配者たち』
・伊藤敏樹『モンゴルVS西欧VSイスラム―13世紀の世界大戦』
・塩野七生『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』
・ジャン・ド・ジョワンヴィル著 伊藤敏樹訳『聖王ルイ―西欧十字軍とモンゴル帝国』
・小林 霧野『シャジャラ=ドゥル―真珠の樹という名の女スルタン』
・Wikipedia各項目
というわけで、平井流バイバルス伝をお送りいたしました。
「むしろスルタンになってからの事績こそが重要だろ!?」というご意見もあるかと思いますが、ひとまずここで完結といたします。
正直、バイバルスについては、「十字軍とモンゴルを追い払ってスルタンになったすごい人」という程度の知識のままでずっといたもので、今回あらためて色々調べてみて、大変でしたが非常に面白かったです。
このエッセイが一人でも多くの人の目に触れ、バイバルスおよび彼が生きた時代に興味関心を持っていただけたら幸いです。