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女性スルタン爆誕

 マンスーラの戦いで劇的な勝利をおさめ、第七回十字軍を粉砕したエジプトアイユーブ朝。亡きサーリフの後継者たるトゥーラーン・シャーもその勝利に一役買い、第八代スルタンに即位してめでたしめでたし、となるはずだったのですが、ここで問題が生じます。


 新たにスルタンとなったトゥーラーン・シャーは、彼の子飼いの側近たちを重要な地位に就ける一方、マンスーラの勝利の立役者であるバイバルスをはじめバフリ・マムルークの面々を冷遇し、さらには罪を(かぶ)せて逮捕・投獄までし始めたのです。


 まあ、君主が代替わりした際に先君の重臣と新君およびその側近との間で軋轢(あつれき)が起きるのはどこでもよくあること。例えば日本でも、徳川家康の死後、家康のお気に入りだった本多正純が、秀忠とその側近たちによって排斥されたりとか、枚挙(まいきょ)(いとま)ありません。


 特にマムルークの場合、その主人との結びつきが強すぎて、王朝や王家に対する忠誠心というものを持ち合わせていないと言っても過言でないというのが、問題を複雑にしています。バイバルス達に言わせれば、その忠誠心は亡きサーリフ様にのみ捧げるもの。たとえサーリフ様のご子息だろうと、これまでろくに顔を合わせたこともない相手など、知ったことかというところ。


 そのことは、当然トゥーラーン・シャーも承知しており、だからこそ危険なバフリーヤ(バフリ・マムルークのこと)達を排斥しようとしたのでしょう。ただ、彼はいささか性急すぎたようです。


 また、彼は継母(ままはは)である真珠(シャジャル・)の木(アッ=ドゥッル)に対しても、彼女が亡き夫サーリフから受け継いだ財産を引き渡すよう命じ、彼女を敵に回します。

 トゥーラーン・シャーにしてみれば、奴隷上がりの継母が王宮で大きな顔をしているなど我慢がならない、というところだったのでしょうが、真珠の木は真珠の木で、サーリフ崩御の危機を支えた自負があります。


 そして、対立が深まる中、バフリーヤと真珠の木が接近します。

 敵の敵は味方、というのは常道(じょうどう)ですし、奴隷上がり同士ということもあったでしょう。そして、それ以上に、真珠の木はバフリーヤに対して親近感を抱いていたようです。これについては後でまた触れます。


 1250年5月2日、事件は起こります。バイバルス達バフリーヤがクーデターを起こし、スルタンを殺害してしまったのです。

 この日、新スルタン(トゥーラーン・シャー)はダミエッタ近郊のファーリスクールという地で祝宴を催していました。ここはダミエッタをめぐる攻防でアイユーブ軍が陣を敷いた所です。

 カイロからナイル川を下って河口の港町までやって来たのは、捕虜にした十字軍将兵を、本国からの身代金と引き換えに解放するため。

 というわけで、またまた登場ジョワンヴィルさん。仏王ルイと共に捕虜となっていた彼は、事件を目撃し、生々しい記録を残してくれています。


 それによると、会食を終えてトゥーラーン・シャーが配下の武将たちと別れ、寝所に向かおうとした時、太刀持ちの中に紛れ込んでいたバイバルスが、彼の手に斬りつけました。

 トゥーラーン・シャーは近くの塔に逃げ込みますが、バフリーヤたちが火を放ち、塔はたちまち激しく燃え上がって、彼はたまらず飛び出してきます。そして河に逃げ込もうをしたところを、バフリーヤに槍を突き立てられ、あわれ命を落とします。


 バフリーヤの隊長アクターイは、主君を斬った血刀をルイ王に突き付け、生かしておけば貴方の命を奪ったであろう男を仕留めて差し上げた、などと(うそぶ)いたといいます。

 実際、トゥーラーン・シャーはルイ達を殺害するつもりだったなどと書かれている文献もありますが……、多額の身代金と引き換える予定の捕虜を、殺そうとしますかね?


 このトゥーラーン・シャーという人物、決して無能ではなかったと思われます。

 元々彼が配属されていたイラク北部は、アイユーブ朝の領地の北の端、つまり辺境であり、モンゴルが攻めてくれば最前線となるはずの場所です。そんなところを無能に任せられるはずがありません。

 また、ナイル川を水軍で封鎖し十字軍の退路を断った手腕も中々のものです。


 一方、逆に有能であるがゆえ、サーリフは彼を恐れて辺境に追いやった、なんて書かれている文献もありますが、これはどうでしょうか。

 叛旗(はんき)を翻すかもしれないと思っている人物を、対モンゴルの最前線に、十分な兵力を持たせて送り込むとか怖すぎる気がしますけどね。


 それに、(さかい)を接する隣国アッバース朝は、首都バクダッドにイスラム教の最高権威者たるカリフを(よう)しているのです。

 アイユーブ朝はサラディン以来アッバース朝カリフの権威を認めており、両国の関係は比較的良好ではあったようですが、それでも、スルタン(サーリフ)後継者(トゥーラーン・シャー)が不仲というような隙を見せれば、何をされるかわかったものではありません。

 それこそ、カリフの権威を後ろ盾にして叛旗を翻すとか独立するとか、唆される恐れもあるわけです。


 そんなところに送り込むからには、やはりサーリフはトゥーラーン・シャーを普通に信頼し、後継者として期待もしていた、と考える方が自然だと思います。


 ただ、やはり彼は焦り過ぎたという他ないでしょう。表向きはバフリーヤを持ち上げておいて、少しずつ実権は取り上げていく、という常道(じょうどう)で行くべきでした。真珠(シャジャル・)の木(アッ=ドゥッル)にしても、子供はいないのですから、本来彼を脅かす存在ではなく、形だけ義理の母として敬っておけばよかったのです。


 とは言え、言うは(やす)し行うは(かた)し。少しずつ実権を削っていくというのも、手足をもいでおいてその後粛清(しゅくせい)するつもりだろう、などと疑いを(いだ)かれたら、反撃を受けてしまいます。

 また、トゥーラーン・シャー自身も子飼いのマムルークを抱えてはいたようですが、あっさりクーデターを許してしまうあたり、バフリーヤに対抗できるレベルにまではまだ育っていなかったのでしょう。彼らを育成する時間も稼ぐ必要がありましたね。


 中々ハードモードですが、万一読者様がトゥーラーン・シャーに逆行転生してしまわれた際には、行動の指針にしていただければと思います。


 さて、極めて荒っぽい形でクーデターを成功させたバフリーヤ達ですが、いきなりスルタン位を奪ってしまうことには抵抗があったのでしょう。宮廷の重臣達も交えて今後のことを話し合った結果、意外な人物がスルタン位に就くことになります。


 先々代スルタン・サーリフの愛妻である真珠(シャジャル・)の木(アッ=ドゥッル)――。イスラム史上極めて(まれ)な(というか、寡聞(かぶん)にして他の例は知りません)、女性スルタンの誕生です。

 彼女は、サーリフとの間に生まれ夭折(ようせつ)したハーリルという子の母親――「ハーリルの母后(ぼこう)」と呼ばれることになります。幼い我が子を後見する摂政的な立ち位置と位置付けられたのでしょうか? とっくに亡くなってるんですけどね。


 ここに、サラディンが(おこ)したアイユーブ朝は事実上滅亡し、新王朝マムルーク朝が誕生します。と言っても、地方にはアイユーブ一族がまだまだ残ってはいるのですが。


 彼女が推戴された理由は、サーリフの縁者を起用することによりクーデター政権に正当性を持たせるということももちろんあったでしょうが、サーリフ崩御の際の彼女の判断と行動が、群臣達から評価されたという面もあったようです。――その効果のほどはともかくとして(実際、サーリフの死は、かなり早い段階で噂になってしまっていたという見方もあるようです。そりゃまあ、スルタンが面会謝絶となれば、みんな察しますよね)。


 しかしながら、女性スルタンの治世は極めて短期間で終わりを告げます。やはり当時の(あえて「当時の」と言っておきます)イスラム社会において、女性君主は受け入れられなかったのか、彼女はサーリフのマムルーク中の最古参であったアイバク(?~1257)という人物と再婚し、彼にスルタン位を譲ります。在位期間はわずかに3か月足らず。

 先ほど、真珠(シャジャル・)の木(アッ=ドゥッル)登極(とうきょく)をもってマムルーク朝成立と書きましたが、同王朝の初代はアイバクである、とする見方もあるようです。


 ちなみに、仏王ルイをはじめとする十字軍捕虜の身代金との交換は、彼女の短い治世の間に行われています。支払われた身代金は、総額40万リーブル。現在の金額に換算すると、いくらくらいだったんでしょうね。


 アイバクは先述の通りサーリフのマムルーク、つまり彼も奴隷上がりではあるのですが、バフリ・マムルークの所属ではありません。最古参ということですから、バフリが編成される以前からサーリフに仕えていたということでしょう。

 そのため、新スルタンとバフリーヤとの関係はあまりうまくいきません。


 真珠(シャジャル・)の木(アッ=ドゥッル)は両者の間に立たされる形になるのですが、彼女は心情的にバフリーヤ寄りだったようです。奴隷上がりという点ではアイバクも同じ、出身民族的にも全員テュルク系(真珠の木はアルメニア人説もあります)なんですけどね。

 おそらく、彼女としては、愛する夫サーリフが手塩にかけて育て上げたバフリーヤに対し、深い思い入れがあったのでしょう。さすがに、ローダ島の兵舎にまで連れて行ってもらうようなことは無かったと思いますが。


 アイバクとバフリーヤとの溝はどんどん深まっていきますが、アイバクは自身のマムルーク部隊を育成し終えたことで、いよいよ実力行使に出ます。

 彼のマムルーク筆頭格のクトゥズ(?~1260)という男が、バフリーヤの長アクターイを殺害するのです(1254年)。

 バイバルスは身の危険を感じ、バフリーヤの残党達とともに、シリアに逃れます。


 えー。「追放」じゃねえじゃん、権力闘争に敗れてトンズラしたんじゃん、というご意見もあるかと思いますが、細かいことは気にしない、気にしない(笑)。


 アイバクは、自身の政治権力の正当性をアピールするため、かつての主サーリフの妻だった女性を(めと)るだけでなく、サーリフの甥に当たるアル=アシュラフ・ムーサーという少年をスルタンに立て、両頭体制を敷いていました。もちろん傀儡(かいらい)であることは言うまでもありません。

 しかし、この気の毒な少年スルタンも、やがてアイバクによって廃され、幽閉されてしまうのですが、それもこのバフリーヤ追放とほぼ同時期。どうやらこの頃に、アイバクは政治軍事両面において、自分の力だけでやっていける自信がついたということなのでしょう。


 それでも、その後しばらくは真珠(シャジャル・)の木(アッ=ドゥッル)を妻として置き続けます。後ろ盾たるバフリーヤ達は追い払われ、彼女にとってはつらい状況だったでしょうが、その3年後には、アイバクは彼女を離縁し、イラク北部のモースルという町の領主(アミール)の娘を妻に迎えようとします。いよいよ彼女も用済みというわけです。


 事ここに至って、真珠(シャジャル・)の木(アッ=ドゥッル)も堪忍袋の緒が切れます。彼女は配下を使って、アイバクを暗殺してしまいました。しかし、彼女が首謀者であることはすぐに露見し、彼女もまたアイバクの配下たちに捕らえられ、殺されてしまいます。


 この一件で、真珠(シャジャル・)の木(アッ=ドゥッル)には夫殺しの悪女という汚名がつきまとうことになるのですが、これは痴情のもつれというより、アイバク一派とバフリーヤとの権力闘争の一環と見るべきでしょう。


 暗殺自体は突発的なものだったのか、それとも暗殺後真珠(シャジャル・)の木(アッ=ドゥッル)は脱出してバフリーヤと合流する計画だったがうまくいかなかったのか。それはわかりませんが、バイバルス視点で小説に仕立てるなら――自身も流浪の身でありながら、かつて忠誠を誓ったサーリフ様の愛妻を、不遇な立場から救い出すため、密かに連絡を取り合っていた両者。しかし、アイバクが彼自身にとっても主であったサーリフを侮辱するような発言をしたため、かっとなった真珠の木が殺してしまい、結果彼女自身も命を落とす。それを伝え聞いて嘆くバイバルス――みたいな感じの、ほろ苦いエピソード、といったところでしょうか。


 それはさておき、アイバク一派の手を逃れシリアに入ったバイバルスとバフリーヤの残党。そこで彼はダマスカスを領有するアイユーブ一族――サラディンの三男の血筋――のナースィルという人物の(もと)に身を寄せます。

 が、彼がモンゴルに降伏しようとしたことから不仲となり、次はヨルダン中部のカラクの領主でやはりアイユーブ一族のムギースを頼ります。

 そこでバイバルスらはカイロのマムルーク朝と対決すべく、出兵を依頼しますが、残念ながらこの時は戦いに敗れ、ムギースにも疎まれることになります。


 バイバルスにとっては苦難の時期でしたが、『バイバルス伝』を著したイブン・アブド・アッ=ザーヒル(?~1292)は、「バイバルスは七年間異郷にあったが、少なきに耐え、けっして仲間(フシュダーシーヤ)を見捨てることはなかった。これこそ彼の男らしさ(ムルッワ)の証明である」と記しています(佐藤次高氏の『マムルーク―異教の世界からきたイスラムの支配者たち』より引用)。

追記


イスラム史上の女性君主に関して、他の例は知らん、などと書いてしまいましたが、他にも何人か存在したようです。

それについて、「悲劇の女性スルタン・ラズィーヤ」という作品にまとめましたので、よろしければそちらもどうぞ。

真珠の木よりも一足先にスルタンとなった女性についてのエッセイです。


それと、「女性スルタン」に「スルタナ」とルビを振っていましたが、スルタナはスルタンの妃ないし王女を指す言葉で、女性スルタンをスルタナと呼ぶのは間違いなのだそうです。

個人的には、本当にそれって間違いなの?という気もするのですが(そもそも女性スルタンの事例自体がごく少ないですし)、一応訂正しておきます。

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― 新着の感想 ―
[良い点] ふむふむ、と拝読していたところで >万一読者様がトゥーラーン・シャーに逆行転生してしまわれた際には で吹き出しました。 絶対いやだなぁ、この時代のこの地域、この人物に逆行転生するのは……
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