十字軍史を手短に(短いとは言ってない)
はい、バイバルス君の活躍を期待してくださった方、ごめんなさい。その前にしばしの回り道をお許しいただき、そこに至るまでの背景に触れておきたいと思います。
面倒くさいとおっしゃる方は流し読みしていただいても結構ですよ。
今日イスラエル国最大の都市であり、古い歴史を持つエルサレムという町は、ご存知の方も多いかと思いますが、ユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教それぞれにとって、聖地としての意味合いを持ちます。
元々はユダヤ人たちの国、古代ヘブライ王国の都であり、イエス処刑の地としてキリスト教徒にとっても聖地となります。
中東のイスラム化以降は彼らの勢力下に置かれ、メッカ、メディナに次ぐ第三の聖地と位置付けられますが、キリスト教徒やユダヤ教徒も追い出されたりはせず、そのまま共存していました。
ところが、1095年、ローマ教皇ウルバヌス二世(1042~1099)の呼びかけを発端に、西欧で「聖地を異教徒の手から取り戻せ」との熱狂が巻き起こります。
そもそものきっかけは、キリスト教国(といっても、カトリックではなくギリシャ正教)である東ローマ帝国の皇帝アレクシオス一世が、イスラム教国であるセルジューク朝との戦いに援軍を求めたことでしたが、アレクシオスは別にエルサレム奪還なんて求めてはいなかったんですけどね。
そして1096年には西欧各地から諸侯の軍隊が出発。この第一回十字軍により、1099年、エルサレムは征服され、多くのイスラム教徒、ユダヤ教徒、さらには東方正教会や東方諸教会のキリスト教徒までも虐殺されて、「膝まで血に浸る」と言われるほどの惨劇が引き起こされます。
この時、シリアからパレスチナにかけての地中海東岸に、エルサレム王国をはじめとする十字軍国家が建設されました。キリスト教徒による植民地国家群ですね。
その後、諸侯同士で足を引っ張り合い十字軍にいいようにやられ続けていたイスラム側も、次第に統一の機運が高まって、ザンギー(1087または88~1146)という英傑の下で勢力を盛り返し、十字軍国家の一つエデサ伯領を陥落させます。
それを受けて第二回の十字軍が派遣されますが、大した成果は上げられずに撤退。
1187年に、ザンギー朝の将軍の立場から独立しアイユーブ朝を建てたサラディンが、現地十字軍国家の主力部隊をヒッティーンの戦いにおいて殲滅、エルサレムを奪い返します。
それに対して催されたのが、獅子心王ことイングランド王リチャード一世、尊厳王ことフランス王フィリップ二世、赤髭王こと神聖ローマ皇帝フリードリヒ一世ら豪華メンバー(ただし、赤髭王は遠征途中、アナトリア半島南部の川で溺死)による第三回十字軍です。
が、サラディンは政戦両略でこれに対抗、苦労の末にエルサレムを守り切ります。
そんなこんなで、幾度もイスラム世界を脅かしてきた十字軍ですが、聖地エルサレム奪還の使命に燃えているかといえば必ずしもそうではなく、第四回などは、宗派は違えど同じキリスト教国である東ローマ帝国の首都コンスタンチノープル(現在のイスタンブール)を攻め落としたりとかもう無茶苦茶。一方のイスラム側も、諸侯同士が足を引っ張り合ったり王族同士で争ったりして、時にサラディンやリチャードのような花形役者の見せ場があったりしつつも、基本的にはグダグダのグダグダ煮といった感じです。巻き添えで犠牲になった人たちはたまったものじゃありません。
しかしそんな中、ある二人の人物が奇跡を起こします。
一人は、先述のアル=サーリフの父親でサラディンの弟の子、アイユーブ朝第五代スルタン・アル=カーミル(1180~1238)。もう一人は、赤髭王の孫、神聖ローマ帝国皇帝・フリードリヒ二世(1194~1250)。
二人とも、当時の人間としてはあり得ないくらい開明的な考え方の持ち主で、特にフリードリヒは異教徒の言葉であるアラビア語を習得、カーミルと親しく文のやり取りを交わしていたのでした。
イスラム教に改宗したりはもちろんしませんでしたが、ペルシャからアラブへと受け継がれ花開き、そしてヨーロッパでは断絶していたオリエントの文明に心酔していたようです。
そして、この二人が起こした奇跡とは、イスラム側からキリスト教側へのエルサレムの返還による和平条約の締結。いわゆる「無血十字軍」です。
事の発端は、1218年から1221年にかけての第五回十字軍。エルサレムを南北から挟撃するための橋頭堡の確保と、地中海の完全な制海権掌握を目的に、ナイル川河口の港湾都市ダミエッタ(ディムヤート)を攻囲します。
この時、アイユーブ朝では、サラディンの弟である第四代スルタン・アル=アーディル(1145~1218)が病死し、息子のカーミルが後を継いだばかり。
彼はダミエッタ救援に駆け付けますが、跡目争いが勃発したため王都カイロ――当時アイユーブ朝は、カイロにスルタンが君臨し、シリアやイラクなど各地に一族を置いて支配するという体制を取っていました――に帰還せざるを得なくなり、そこで持ち出したのがエルサレム譲渡による和睦案でした。
当然、イスラム側からは「異教徒に聖地を売り渡すのか」といった類の非難が湧き起こることは予想されましたが、カーミルはそんなことよりもダミエッタの兵民を救うことを優先したのです。
しかしながら、受け入れてもいいのではないかという声も出かかっていた十字軍内の空気をひっくり返したのが、教皇が派遣していた枢機卿ペラギウス。人呼んで「第五回十字軍の疫病神」。疫病神シリーズの第一弾です。まあ、その前の第四回は存在そのものが疫病神という感じですが。
彼は、異教徒相手に妥協などもっての外と主張し、カーミルの提案を蹴り飛ばします。
結局ダミエッタは陥落。そこで欲をかいてカイロ攻略を目論んだ――誰がそんなことを言い出したのかって? もちろん疫病神です。――十字軍を、カーミルはナイル川の増水も味方につけて撃退、ダミエッタも奪還します。
この時は疫病神のせいで日の目を見なかったエルサレム譲渡ですが、これにがっぷり食らいついてきたのが件のフリードリヒ二世。
元々彼は、道半ばで倒れた祖父の衣鉢を継いで聖地奪還の志を抱いてはいましたが、かと言って、多くの血を流した末に得るところの無かったこれまでの十字軍の轍を踏むつもりはさらさらなく、エルサレムが平和裏に取り戻せるならそれに越したことは無いじゃん、という考え方の持ち主でした。
また、フリードリヒはこの当時、エルサレム王国(と言ってもエルサレムを逐われた亡命政権ですが)の王の娘を妻としており、そういった面での大義名分もありました。それに、先述の通りカーミルとは文通友達ということもあって、話の通じる人間であること、条件さえ合えばエルサレムを手放すのにやぶさかではないことも承知していました。
フリードリヒはその開明的過ぎる考え方のせいでローマ教皇とは対立していました。この時も、さっさと十字軍に行けよとせっつく教皇に対して、国内の安定を優先し、やるやる詐欺でのらりくらりと拒み続けていたために破門を食らっていたのですが、当てつけのように、破門されたまま十字軍に赴きます。これが第六回十字軍です。
そして、モンゴルの脅威や一族の内紛といった諸々の問題を抱えたカーミル相手に粘り強く交渉を行い、無事、エルサレム譲渡(といっても、イスラムにとって聖地に当たる部分の権利は残したままで、ですが)による和平条約、ヤッファ条約の締結に成功します(1229年)。
フリードリヒ二世――「王座上の最初の近代人」とか「世界の驚異」とか「一人ルネサンス」とか、数々の異名を奉られている、このあまりに早く生まれ過ぎた人物に関しては、ここ「なろう」にも、左高例先生の『神聖じゃないよ! 破門皇帝フレデリカさん』という怪作があります。美少女に魔改造されちゃってますが(日本ではよくあること)、フリーダムな美少女フレデリカさんの活躍を通じて、フリードリヒ二世という人物と彼を取り巻く時代背景が学べますので、ご興味のある方は是非ご一読を(ダイマ)。
特に、「これが僕の」「これが我の」「聖戦だ」「十字軍だよ」というシーンは必見です。
なおバイバルス君も、IFエピソードでですがちょこっと登場します。
さて、ヤッファ条約の一方の立役者、アル=カーミルは1238年に没し、スルタン位は息子のアーディル二世、次いでその異母兄弟のアル=サーリフ(母親はスーダン人奴隷だったようです)へと受け継がれます。
父カーミルの路線を継承し、十字軍とは仮初めの和平を保って、国内の平定と対モンゴル戦に注力しようと考えていたサーリフ。父に倣ってフリードリヒとも文通を続けていたりもしたのですが、そんな彼に頭を抱えさせるような出来事が起こります。ホラズム(アラビア語では「フワーリズム」)騎兵団によるエルサレムの奪取とそれに伴うキリスト教徒の虐殺です(1244年7月)。
ホラズムは中央アジアにあったイスラム教国で、現在のウズベキスタンとトルクメニスタンにまたがる地域を版図としていましたが、モンゴル高原を統一し対外征服に着手したチンギス汗に真っ先に滅ぼされた国として有名(?)ですね。
祖国を滅ぼされた(1222年)残党たちははるばる西方に流れてきたのですが、そこで野盗として各地の都市を略奪したかと思えば傭兵として諸侯の争いに介入したりと、エンジョイ&エキサイティングの限りを尽くします。
そして、アイユーブ朝スルタンであるサーリフに一応臣従はするのですが、中々言うことを聞かず、暴走を繰り返します。エルサレム蹂躙はその集大成と言っていいでしょう。
なお、この「エルサレム事件」については、サーリフが主体的に関与していたという見方もあるようです。まあ、一応主ではありますし、そのように見られても仕方ないのですが。
伊藤敏樹氏の『モンゴルVS西欧VSイスラム』では、当時対立していた叔父(カーミルの弟の一人)であるダマスカス領主を牽制するために、ホラズム騎兵団にシリア・パレスチナ各地の都市を略奪するよう唆した結果、という見方のようです。
一方、アミン=マアルーフ氏の『アラブが見た十字軍』では、ホラズム騎兵団が勝手にやらかした、という書き方をされていますね。
本稿は、サーリフ非関与説に立ちたいと思います。やはり、この時期にあえてキリスト教徒相手に事を荒立てるのは、納得しがたい気がしますので。
ということで、ホラズム騎兵団の暴走により心ならずも(多分)エルサレムを奪ってしまったサーリフさん。何やってくれとんじゃこのヴォケッ! と言いたいところだったでしょうが、異母兄弟からスルタン位を奪い取ったばかりで、他の一族たちの動向も予断を許さない状況に置かれていた彼には、手出しも口出しもする余裕はありませんでした。
この、強いことは確かに強いのだけれど始末に負えないホラズム騎兵団。そのこともあって、サーリフは絶対的な忠誠心を持つ子飼いの戦力として、バフリ・マムルークの育成を急いだわけですが、それが十分整う前に、戦端が開かれてしまいます。反サーリフのアイユーブ一族が連合を組み、中東在住の十字軍国家も味方につけて決戦を挑んできたのです。
これに関しては、エルサレム陥落に危機感を覚えた十字軍国家がアイユーブ家の不満分子に接近したのか、逆に不満分子の方がサーリフ打倒のために十字軍国家と手を組んだのか、見方が分かれるところではありますが。
いずれにしても、このピンチにサーリフさん、ホラズム騎兵団を頼るしかありません。
そして両軍は、ガザ近郊のラ・フォルビー(ヒルビヤ,ハルビーヤ)で激突します(1244年10月)。
結果はサーリフ・ホラズム連合の圧勝。こうしてサーリフはアイユーブ朝スルタンとしての地歩を固めることが出来たのでした。
また同時に、中東の十字軍国家群はこの敗戦によって、ヒッティーンでの打撃以来半世紀をかけて回復させてきた戦力を再び壊滅させられてしまい、凋落の道をたどっていきます。
さて、この戦いの後、ホラズム騎兵団はどうなったでしょう。勝利への貢献を感謝され領地を与えられた? 確かに、一応地中海沿岸の一地域を与えられるのですが、彼らはそれに満足できませんでした。
これは単に彼らが強欲だったとばかりは言えないでしょう。おそらくサーリフさん、合戦の前には彼らが納得するだけの良い条件を提示していたはずです。でないと、敵に寝返られるおそれだってありますからね。
にもかかわらず、事が終わればそれを反故にして、シケた領地を押し付けたのではないかと思われます。
そして恩賞に納得せず暴発した彼らは、元の野盗集団に逆戻り。無事地方軍閥の討伐に遭い全滅したのでした。めでたしめでたし。
いやまあ、フリードリヒとの約束を守った父親とはえらい違いですが、そもそも相手が相手ですしね。
と言うか、信頼の置ける相手であれば異教徒とでも友誼を結ぶし、ろくでなしであれば同門だろうが利用するだけ利用して容赦なく切り捨てるというのは、サラディン以来のアイユーブ家伝統の徹底した現実主義精神の発露と言うべきでしょうか。
結果的には、一族内の不満分子と十字軍国家をまとめて打倒し、手に負えないホラズム騎兵団も自滅と、サーリフにとっては万々歳。これを全部計算ずくでやったのだとしたら、サーリフさん、三国志演義の諸葛孔明もびっくりなレベルの智謀ですが、さすがにそれはないでしょう。
アイユーブ一族内の不満分子の勢いがそもそも侮りがたく、またモンゴルの脅威も迫っているにもかかわらず、一応和平を保っているキリスト教徒にちょっかいを掛け、両者が手を組んだところを、忠誠心に不安ありまくりの戦力を当てにして打倒する――。どう考えてもリスクが大きすぎますね。やはり、エルサレム奪取はサーリフの意図したところではなく、偶々全部が上手くいった結果オーライ、と考える方がしっくりきます。
さて、そんなわけでまたしてもイスラム側の手に落ちたエルサレム。和平を望むのであれば、ちゃんとキリスト教徒に返すべきだったのかもしれません。
けれど、仲介役になってくれそうなフリードリヒは教皇との対立が抜き差しならぬ状況になっており、それどころではありませんでした。それ以外のキリスト教徒はといえば、程度の差はあれ、異教徒相手に交渉などできるか、と考えている者がほとんどです。
サーリフがこのまま懐に収めておこうと考えたのもやむを得なかったでしょう。
しかし、このことが引き金となって、第七回の十字軍が催されることになってしまいます。
かくして、バイバルス君の華々しいデビュー戦の舞台は整ったのでした。
手短に、と言いつつ随分なボリュームになってしまいました。
まあ、重要な時代背景ではありますので、ご容赦を。
ちなみに、「ホラズム、ホントろくでもねぇな」とか思われたかもしれませんが、元々は古くから中央アジアのオアシス都市として栄えたところでして。東西交易の拠点の一つでもあり、豊かな文化が花開いた土地でもあるのです。
十字軍より時代を遡って9世紀前半ごろ、バクダッドで活躍した数学者・天文学者フワーリズミーなどの人物を輩出しています。
このフワーリズミーという人、いくつもの著作を残していますが、代数学に関する著作「ヒサーブ・アル=ジャブル・ワル=ムカーバラ(約分と消約の計算の書)」は、世界最古の代数学書のひとつで、英語のアルジェブラ(代数学)の語源となっています(アル=ジャブル ⇒ アルジェブラ)。
ちなみに、彼の名前はずばり「ホラズム(フワーリズム)出身の人」という意味です。「受胎告知」などで知られるエル・グレコ(「ギリシャ出身の人」の意。本名はドミニコス・テオトコプロス)と同じようなケースですね。
チンギス汗を主人公にした話だと単なるやられ役の国ですけど、それだけじゃあないのですよ(と一応フォロー)。