フロントガラスで踊るハエ
行くあての無かったドライブが、終わろうとしています。
車影のまばらな夜の四車線に、紺の軽自動車を滑らせ私は真っ直ぐに帰路に向かっていました。
カーオーディオから流れるのは、昨日購入したばかりのシューティングゲームのサウンドトラック。軽快で直情的なメロディに思わずアクセルを踏み込みそうになります。
しかし、頭でリズムを取りながらも、「アクセルを踏み込め」と言わんばかりの曲調に私はかえって安全運転を意識させらてさえいました。
車で聴くのに丁度いい曲だからと持ち込んだCDだったのですが、安全運転を意識を高められるという副次的効果があるとは。
意外に感心しながらも烏がビッシリと止まった電信柱と電線を抜けていきます。
「お父さん。烏がいる」
「うん」
助手席では五歳になる娘が無邪気に笑っていました。
「お父さん。いっぱいいて、怖いね」
「うん。怖いね」
「お父さん、月がある」
「ほんとだ」
「レモンみたいだね」
「うん」
月が雲に隠れても、娘は小さな指を掲げたまま下ろそうとしません。
もしかして、彼女は世界のすべてを指し示すつもりなのでしょうか。
赤信号に捕まっていると、
「お父さん、ハエがいる」
「どこ?」
「右上のとこ」
娘が指したフロントガラスの右上には、確かにやせ細ったハエがいました。
密室に閉じ込められたことに気付いたのか、何度もガラスに体当たりしては脱出を試みています。
ゲームの壁抜けバグを試みるように何度も何度もぶつかり、着地し、そのたびに跳ね返されています。
その動きは悲哀を帯び出したサウンドに合わせてさめざめと踊っているようにも見えました。
「踊ってるの?」
「出ようとしてるんじゃないかな」
「ふーん」
それきり、娘は黙りこくって眠そうにしていましたが、私はハエの事が妙に気になってしまいました。
必死に無為な努力を重ねる様が愛らしくて、どこか残酷なユーモラスも感じます。
ふと、私は夢想していました。
地球最後の生命として、この車だけが地球外生命体に保護されたとしたら……
ハエと私だけが最後の地球生命になったとしたら……
私はきっと今以上にこのハエを愛おしく思うのでしょう。
やがて力尽き最後を迎えたハエの為に、涙すら流す事でしょう。
そうして訪れた孤独に、私はじっくりと慄いていくのでしょう。
気づけば助手席に座っていた娘の姿は影も形もありませんでした。
そういえば、私には娘はいませんでした。
それでもフロントガラスの片隅でハエは確かに存在してずっと踊りを踊っていました。
何もかもがあやふやでしたが、ハエが脱出を試みて踊っているというその一点だけは、誰にも覆しようもない確かな真実のように私には感じられました。
私は通りがかったコンビニに立ち寄り、リアウィンドウを開けていきます。
手の平で優しくハエを誘導し、窓の外に出してやりました。
頼りないハエが、嬉しそうに夜の紺に消えていきます。
残ったのは喪失と清涼。引き換えに涼しい夜風が吹き込んできます。
夜空には少しだけ星がありました。
私はコンビニでコーヒーだけを買い、再びエンジンをかけて走り出します。
フロントミラーにはもうハエの姿はありません。
私は独りぼっちに取り残されてしまったのです。
自分の境界すら曖昧になっていき、確かなことなど何もないような気がしてきます。
コーヒーの甘い香りがエアコンの風に乗って流れてきて、孤独がじっくりと私を満たして行きます。
そして私はカーオーディオをミュートにして、じっとりと鼻歌を口ずさみながら、夜の四車線へと真っ直ぐに登り消えていきました。