禁煙倶楽部
その日、私は社長室に呼ばれていた。
理由ははっきりしてる。来週の大手食品会社で行うプレゼンについてだ。社運がかかっているらしい。
だが、そもそも今回のプレゼンの機会を得ることができたのは、私の大手柄だ。
社長に励まされるのか、それともプレッシャーをかけられるのか。
実のところ、私は社長室に入るのが初めてだった。
緊張を胸に、最上階にある大きな扉をノックした。今から思えば、それは運命の扉をノックしていたのだ。
部屋の中は広く、大きな机と応接セット、そして社長と、天使のような彼女がいた。
社長秘書の彼女はハーフだった。ロングの金髪でモデルのような体型、それとは対照的にあどけなさの残る顔立ちに、私は一発で惚れた。同じ会社にこんなに美人がいたなんて。
私は社長の話もうわの空で、心拍数は急上昇!頭がフラフラするほどだった。
社長が、「ところでアカツキ君、君はタバコは吸うかね?」と聞いてきた。
私は反射的に「はい。吸います」と答えた。
「この部屋は喫煙オッケーだよ」
と、言うが早いか、社長は胸ポケットから煙草を取り出し、火をつけた。
私もお言葉に甘えて、自分の煙草に火をつける。
今時は、こうして堂々と喫煙できることなど、まずない。喫茶店でも禁煙が多くなってきた。
私は<偉くなったら、こういう世界に居られるのか>と高揚感に浸っていた。
「マリア君、コーヒーのお代わりを頼む」
すると、彼女は可愛い声で返事をした。彼女の名前は”マリア”らしい。
いつの間にか、私の頭の中はプレゼンよりもマリアの方が占めるようになっていた。
私は、プレゼンの準備とマリアへのアタックを同時並行で進め、マリアも徐々に心を開き始めた。
プレゼンが見事に採用された時には、彼女の方からデートの条件を出してきた。
「会って欲しい人たちがいます。その人たちが認めてくれるなら付き合ってもいいです」
「えっ、それは親族の方ですか?それとも友人ですか?」
「違います。以前から<気になる男ができたら、一度会わせろ>と言われているんです」
「それは誰ですか?」
「フフッ、会えば分かります」
マリアは意味深な笑みを浮かべ、日時と場所を書いたメモを私に渡した。
「あ、それから、その日は朝から煙草を吸わないで下さい。約束ですよ!」
「えっ?」
私は思わず口を押えた。
彼女には社長室での喫煙を見られていたから、私が喫煙者だと分かっているはずだ。当日禁煙しろとはどういう意味だろう?会わせたい人は、煙草が苦手という事だろうか?
禁煙は何度か挑戦したことがあるが、ずっと続く苦しみに音を上げて、3日と待たず挫折していた。が、今度は1日だけだし、何とかなるかなと、その時は思っていた。
*******
指定されたのはその週の金曜日だった。
その日、私は約束通り朝から煙草を吸わずに出社した。
例の大手食品会社では、いよいよシステム導入の段取りが始まる。
最初は仕事も順調だったが、次第に集中力が落ちてくる。
体内のニコチンが減り始めると、頭がボーッとしてきて、イライラしてくるのだ。
仕事の進み方が明らかに遅い。キーボードの押し間違えも多くなり、私は思わずパソコンを叩いて立ち上がった。
周りの同僚たちはその音に驚いて、一斉にこちらを見る。
私は咳ばらいをしてゴマかし、トイレに逃げ込んだ。
こんなことなら我慢せずに喫煙した方がましだとも考えたが、これもマリアとの約束だと切り替え、愛の力で乗り越えてやると煙草を我慢した。
自分の机に戻ったが、ハアハアと息が荒く、変な汗をかき、落ち着きがなくなる。
更に体内のニコチンが減ると、呼吸が浅くなり、やたらと喉が渇く。煙草以外の事が考えられなくなってくるのだ。
就業時間が長く感じられる。
私は煙草への意識をそらすために、自販機へと行ったり、トイレへ行ったりした。
昼食の後は、更に喫煙への欲望が増し、その苦しみに音を上げそうになる。
「どうした?気分でも悪いのか?」
課長が私を心配して席まで来てくれた。離れた席からでも私の異変に気付いたのだろう。
「いえ、何でもありません」
私はそう言いながら汗ばむ額を手で拭った。
「どう見ても普通じゃないぞ。アカツキ君、今日は帰りなさい」
課長の言葉に救われたように思った。しかし、禁煙で早退なんて恥ずかしいことはできない。
「いえ、大丈夫です。ご心配をおかけしてすいません」
私は気合を入れ直した。
こんな禁煙など、成し遂げてやる!今回の約束は、今日1日だけだし、上手くいけばあのマリアと付き合うことができるのだ。
しかし、一方で、馬鹿正直に禁煙を通さなくても、喫煙していたことを隠し、「禁煙してた」と言えば、それで済むとも思った。どうせマリアには分かりはしないのだ。
心の中の天秤が大きく揺れる。禁煙を通すか。それとも喫煙するか。
迷い続けているうちに時間は経ち、とうとう退社時間となった。
会社を出る頃には、私は精神的に疲れ果て、フラフラになっていた。
約束の18時になるのを待って雑居ビルの地下にあるダイニングバーに行ってみた。
ドアには張り紙があり、「本日 貸し切り」と書いてあった。
恐る恐るドアを開けると、中にはマリアと3人の年配の男性がいた。3人とも背広姿だ。
店内は、テーブル2つにカウンターというこじんまりとした広さで、全体的に地味な造りで、ジャズの名曲が流れていた。
「あっ、アカツキさん。来てくれたのね」
マリアが店中へと私を招き入れた。まだ、みんな来たばかりという感じだった。
私は男性たちに向かって挨拶をしたが、いきなり驚いた。
マリアの隣に立っているのは、ウチの会社の社長じゃないか。
「しゃ、社長」
「マリア君が会って欲しいと言ったのは、アカツキ君、君か」
社長は少し残念そうに言った。
「だが、アカツキ君は今や我が社の期待のエースだからね。認めない訳にはいくまい」
そう言って手を差し出してきたが、握手はすごく力の入ったものだった。
「痛っ」
私は思わず声を上げた。
すると、隣の男性が声をかけてきた。
「ようこそ、禁煙倶楽部へ」
大柄だが締まった体つきのその男性は、ニヒルな笑顔で私を見た。
「えっ、禁煙倶楽部?」
「そうさ、ここに集まっているのは禁煙倶楽部のメンバーさ。君も今朝から禁煙しているんだろう?」
私がマリアを見ると、かわいい笑顔で答えてくれた。マリアがみんなに話していたようだ。
「我々も朝から禁煙しているんだ」
気を取り直して私が名刺を差し出すと、ニヒルな男性も名刺を渡してくれた。彼は弁護士事務所の代表だった。
「実は私たちは大学時代からの親友でね。時々会っては遊んでいたんだけど、だんだんマンネリになってきたから、何か面白い趣向はないかって考えて、禁煙倶楽部を結成したのさ」
「そうなんですか。禁煙を目的に・・・」
そこまで言ってから、疑問が湧いてきた。
友人同士が度々会っていて、禁煙倶楽部の集まりをして、でも未だに喫煙をしているということ?
「禁煙が目的じゃないよ。喫煙が目的なんだよ」
ニヒルな弁護士は笑いながら言った。
「えっ?喫煙が目的?」
「そうさ、煙草を止めたら、禁煙が出来ないじゃないか」
私の頭の中は「?」だらけになった。
「何度も禁煙を楽しむのが、禁煙倶楽部なのさ」
「楽しむ?禁煙は楽しいですか?」
「ああ、楽しいね。禁断症状に打ち勝つ!精神が鍛えられるのさ」
そこで、奥のテーブルに前菜が運ばれてきた。
「さあ、席に着こう」
ニヒルな弁護士は私を誘った。
しかし、テーブルへと向かう前に、私は3人目の小柄な男性に挨拶をした。
小柄な男性は、体をユラユラと左右に揺らしながら、終始ニヤニヤと笑っていた。
名刺を交換すると、総合病院の院長だった。
私は聞いてみた。
「あなたも禁煙倶楽部で禁煙を楽しんでいるんですか?」
医者の身でありながら喫煙者であり、禁煙を楽しむというのが意外だった。
小柄な医者は興奮気味に話し出した。
「ああ、楽しいね。禁煙をした時の、禁断症状が快感だよね!」
「快感?」
「イライラしたり、のどが渇いたり、意識がぼんやりとしたり・・・たまらんね」
「そいつは変態なんだ!いいから早く席につけ!」
テーブルの方から社長の檄が飛んだ。
医者は肩をすくめ、「君の社長は、禁煙が苦しくてイライラしてるね」と笑った。
席の奥には弁護士が座り、左側に医者が、右側に社長とマリアが座った。
全員が席に着くと、グラスに注がれたワインで乾杯した。
ワインを飲み終わると、早速、社長が内ポケットから煙草を取り出した。
マリアが私に小声で、
「もう喫煙してもいいのよ」と言った。
「えっ?禁煙倶楽部じゃ・・・」
「禁煙の苦しみを味わった後、こうして幸福の一服を頂くのさ」
社長はそう言うと、火のついた煙草を思いっきり吸い込んだ。
「いや、禁煙に負けない精神力を確認した後、勝利の一服を頂くのさ」
弁護士も煙草に火をつけ、吸い込んだ。
「そうじゃない。次の快感のために煙草を吸うのさ」
医者も煙草を吸いこんだ。
私も煙草に火をつけ、煙を吸い込んだ。
次の瞬間、私は急激なめまいに襲われて平衡感覚を失い、建物がゆっくりと回っているような錯覚を覚えた。まるで地球の自転がはっきりと分かる感じだ。
「おお~」
だが、私はすぐに正気に戻った。
半日から1日程度の禁煙の後、再び喫煙を始めた時は、めまいや立ち眩みなど、貧血に近い感覚になる。
煙草のせいか、ワインのせいか、まだ頭がフラフラする。
その後、みんなで食事を楽しみながら、時を忘れて語り合った。
話の流れで、いつの間にか私も禁煙倶楽部の一員となっていた。それは、マリアとのお付き合いを認められたという事らしい。
私は次回から、どんな楽しみをもって禁煙するのだろう。
それよりも、マリアとのデートはどこがいいだろう。
<了>