籠釣瓶真景
花魁がひとり、自室で薬師と対峙している。
不惑を数える薬師は聡明で博識であった。振袖新造の頃から時々やってくるこの薬師に、いつもさまざまな話…薬の話や、簡単な学問の話、或いは異国の話など…を聞いている時が、その花魁は一等好きだった。診察をし、薬を出しながら、薬師は問われるまま、ただ淡々と話した。
しかし、今日は違った。いつもは相槌をうつ程度にしか喋らない花魁が、静かに語りだした。
身請けされるのだという。
その遊郭で一番の綺麗首と謳われた彼女には、最初から身請けするつもりで通い詰めている客があった。本田というその男に、自分はこの男に身請けされるのだろうと思っていた。
しかし突然、別の若い男が現れたのだという。その男は、どこで揃えてきたか、馴染みになるや否や千両の大金をあっさり出して身請けを申し出た。
薬師は、彼女の悲しげな顔を見て、本田に惚れていたのかと問うた。
彼女は、確かに本田の元に行くと思っていたし、自分をこんなにも好いてくれているのだから、きっとそれなりに幸せにしてくれるだろうと思っていたが、特に好きでも嫌いでもなかったという。
ならば何故浮かない顔をなさるのか。と薬師は再び問うた。
彼女が微かに笑みを浮かべて答えるには、その男は偽っているが、女房を幾度か変えている。家の者は皆、旦那は病弱な女が好きだから、病で死ぬのだと言っているが、本当は飽いた女を手にかけて次へ移るだけなのだと、風の噂に聞いてしまったと。
そして、太夫という身分や、評判による名声がその価値の多くを占める自分には、すぐに飽いてしまうだろうと。
「この郭にいるうちに、お前さんに…」
そこまで言うと、階下から騒がしい声が聞こえてきた。多くの人の声に、本田様、というのが聞こえた。
花魁はふふっと笑うと、
「ゆきなんし。お渡ししたいものがありんす。ゆきなんしたら、禿をよんできろ」
さあゆきなんし、と促して、薬師を帰らせた。
まもなく、彼女独りになった部屋に、本田が入ってきた。
眉をひそめ、涙を浮かべて、睨むような顔である。
お前のためにいくらかかったと思うのか、と、遊びなれた者にしては情けない言葉を吐いた。
のしかかる様にきつく肩を抱く彼の手をとって、花魁は笑った。
「一緒になると思っておざりんしたに」
「渡さぬ。渡さぬ」
どん、と何かが音を立てて、彼女は倒れた。
艶やかな着物が見る見る染まっていく。
それでも彼女は笑みを浮かべていた。
くく、と笑いながら、恋しやな、と呟いた。
それきり動かなくなった。
翌日、まだ慌しい遊郭に、薬師がやってきた。
太夫を貰いにきた、というので、皆困った顔をした。
実はあれは死にました。お聞き及びでないですか、と誰かが言う。
薬師はまったく動じず、懐から文と簪を取り出した。
美しいびら簪は、太夫の持っていた一番の上物である。ねえさんの形見のお気に入りであった。
彼は文を広げて見せた。美しい文字で、ただ感謝の言葉が綴られていた。
皆がますます困惑すると、彼は指で一番上の文字をなぞっていった。
い、き、も、せ、で、く、す、し、ま、つ
「故に、太夫をお迎えに」
一礼して部屋へ上がる彼を、誰も止めはしなかった。
程なくして、薬師がまだそのまま寝かされていた花魁を抱えて戻ってきた。
少しばかり鉄くさくなったそれは、同時にまだいつもの香も漂わせていて、濃く化粧された顔に笑みをたたえていた。
太夫と薬師のその後は知らぬ。総て一夜の夢である。
太夫が最後に伝えたかった「いきもせでくすしまつ」。
・息もせで、薬師待つ
・嫁きもせで、奇し松
・行きもせで、朽つ始末
…どれだったのかは、ご想像にお任せします。