9.再会
「ただいま」
鍵を開けて帰宅してみると、昨日と違い、兄の出迎えはなかった。
今朝も忙しそうにしていたから仕事なのだろう。和海が用意していった朝食を食べたようで、食器が洗って伏せてあった。それを棚に片付けようと手を伸ばすと同じテーブルにメモと封筒が置いてあるのに気づいた。
「なになに。……愛しい弟よ? 何考えてんだ、あいつ。……ええと、おいしい朝ごはん、ありがとう。渡し忘れていた教科書代を置いておきます。四時くらいには帰れるから、一緒に買いに行こうな。兄さんより」
読み終わって時計を見るともう五時を過ぎている。時間通りに帰宅できる仕事ではないとわかっていないのか。
「いいよ。一人で行くからさ」
ついでに夕飯の買い物もしておこう。着替えを済ませてメモの裏にメモを残し、封筒をありがたくいただいて和海は家を出た。
鍵をかけようとして、持って出ることを忘れたことに気づいた。
「あ」
慌てて手を伸ばしたが、もう遅い。目の前でゆっくり扉が閉まってゆく。一瞬遅れて、かちゃりとオートロックされた音が小さく聞こえた。
どうしよう、どうしよう。
さっきまでは、五年も前の懐かしい思い出に浸りながら歩いていた道を、今度は締め出されたという焦りでいっぱいになりながらふらふらと歩いている。しかも来たばかりの都会。刑事という職業柄、兄が帰宅する時間なんてわからない。
家を出た目的は教科書だ。家に入れない今、兄が帰るまでほかに行くところもないので、とりあえず本屋に向かうことにする。後のことはそれからだ、と思う先から不安が沸いてくる。
いけない、いけない。このままでは目的地に着く前に迷子になってしまうと頭を振って鍵のことを考えまいとしていた和海だったが、都会で恐ろしいのは、実は締め出しや迷子の危険だけではなかった。
知らぬ間に道を一本間違え繁華街に出てしまった和海に、慌てたような声がかけられた。
「おい、何ぼうっとしてんだよ」
後ろから聞こえた声に、思わず振り向く。しかしそこには仕事帰りのおじさんや友達と喋りながら歩く女子高生の一団、夜の街に繰り出そうとする若者たち。さっきの切羽詰った声を発した人物はいなさそうだ。
きょろきょろする和海の横を風がさっとすり抜けていった。慌てて目で追うと辛うじて、黒いマフラーが歩く人を避けながら雑踏に消えるのが見えただけだった。
そして気がつく。
「あ、教科書代」
あちこち探っても出てくるはずがない。都会の人ごみの中では決して気を抜いて歩いちゃいけません、という声が聞こえてくるようだった。オートロックのことといい、兄の忠告を聞かなかったため、痛い授業料を払うはめになった和海だった。
いや、そうなるはずだったのだが。
佇む和海の前に、ふわりと風が吹いた。いつの間にか、そこに誰か立っている。
はっとする和海の眼前で、黒いマフラーがするりと首から解けて揺れるのが見えた。
走って戻ってきたのだろうに息一つ切らさず、呆れたような表情で立っているのは、今日出会ったばかりのクラスメイトだった。
「如月?」
目まぐるしい展開についていけず目をぱちぱち瞬かせる和海を見て、如月凌は苦笑した。
「そうだよ。まったく、どれだけ田舎もんなんだよ」
掏られたのに気づかなかったのかよ、と言いながら和海の手をとり、ポン、と見覚えのある封筒を渡してくれた。
「あれ。これは……」
「おまえのだろ?」
「うん。さんきゅ」
どうやら、彼が掏りに気づいて追いかけ、取り返してくれたらしいと漸くわかった。
封筒を渡した後、じゃ、と軽く手を振り如月は離れていこうとする。その背中を慌てて呼び止めた。
「おい、待てよ。りょう」
思わず口から出てしまった。まだ彼があの少年だと決まったわけでもないのに。
言った後で焦る和海の前で、如月の動きがぴたっと止まった。
ゆっくり振り返る。
「……なんだって?」
振り返った彼の表情を見て、あ、こいつだと思った。初めて会ったときのようにぽかんとした顔。やっぱり、如月はあの少年だ。
「今気づいた。お前、あのときの、りょうだろ」
もしかして忘れているかもとか、知っててごまかそうとするかもと心配になり、断定的に言ってやった。そして、なんだか困ったような顔になった如月に近づき、とけて首から落ちそうになっているマフラーをくるっと巻きなおしてやった。初めて会ったころから小柄だったが、今でも自分よりわずかに低いから、簡単だ。
マフラーを押さえて、如月はふっと息を吐いた。
「和海、やっぱり覚えてたんだ」
「ああ」
如月の方も覚えてくれていたのだと知って和海は嬉しくなった。
何しろ、五年も前にちょっとの間一緒に過ごしただけだ。和海の方は何でもできる彼のことをすげーと思い印象は強烈だったが、彼から見れば和海はどこにでもいる少年だっただろう。しかも世界中を放浪するという刺激的な毎日を送っていた彼からするとあの夏も大して印象に残っていなくても不思議ではなかった。
(でも、あのころと同じように和海って呼んでくれるんだな……)
一気に時間が戻った気がした。
「なあなあ、凌。せっかくだからうちに来いよ」
ぜひ、いろいろ語り合いたい。いや、むしろいろいろ聞きたい。あれからどこの国に行っていたのか、今でも親父さんと放浪しているのか、前は学校に通っていなかったのになぜ日本の高校に通っているのか、どこに住んでいるのか。
「悪い。バイトがあるんだ。俺もう行かなきゃ」
懐かしさ全開の和海に、申し訳なさそうに如月が言った。そう言えば、誰かが、彼は禁止されているバイトをしていると言っていたっけ。
でも、まさか五年前のようにこれっきり会えなくなるわけではない。明日も学校で会えるのだから。
「そっか。じゃあまた明日」
手を振る和海を、如月がふと心配げな顔になって呼び止めた。
「え、なに」
「和海さあ、一人で大丈夫?」
そう言われて、はたと気づいた。教科書を買いに来たのだが、道を間違えて繁華街の方に出てしまったのだ。正直言って、和海はここがどこかなど全くわからない。
でも、急いでいる相手に言うのも悪い。何より、迷子だなんて格好が悪い。ここは誤魔化そう。
「ああ、大丈夫だって。俺、ここ何回も来てるんだ。本屋くらいすぐわかるから」
「……本屋?」
し、しまった。
如月は、呆れたように半眼になって和海を見た。
「こっち方面にそんな文化的な商店はないけど?」
あるのは如何わしい店や飲み屋だけだ。まだどの店も開店前ではあるが。
「つまり、迷子なわけね。俺の知ってる本屋でいい?」
くすっと笑いながら如月が言った。
「ええと、教科書買うからたぶん指定店じゃないと置いてないと思う」
開き直って言うと、また笑われた。
「おっけー。学校指定の本屋ね。そんなに遠くないからついて来いよ」
くるりと方向を変えると如月は歩き出した。
こいつたしか、バイトで急いでるって言ってなかったっけ。慌てて着いて行きながら和海は心配になった。
歩きながら、如月はポケットから携帯電話を取り出した。昼間授業中にかかってきていたあれだ。如月は横目で和海を見ていたずらっぽく笑った。そして、その表情のまま話し出した。
「……あ、店長ですか? 如月です。すみません。今日ちょっと朝から気分が悪くて。風邪みたいなんですけど……。ええ、大丈夫。ちょっと休んだら行きます。一時間ほど遅れますが……。はい。よろしくお願いします」
ものすごく苦しそうな声だった。全く生彩がない。聴いてるだけだったら、間違いなく病気だと思われるだろう。……顔を見なければ。
澄ました顔でピッと通話を切った如月を今度は和海が呆れ顔で見る。
「お前なあ。この、詐欺師」
「そりゃひどい。まあ、当たってるけど」
ははっと笑って歩調を速める如月を、和海は慌てて小走りで追いかけた。