番外編 彼女の未来に・前
エイプリルが目覚めた、という連絡を如月凌が受け取ったのは今朝のことだった。
如月は仕事の合間を縫って、この週末に少女が眠る病院を訪れたばかりで、そのとき主治医は、彼女の覚醒は数週間後だろうと言っていたのに。
(でも、いいや。嬉しいことは早く起こるほど、いいんだから)
深夜までヨーロッパの田舎町にある大衆食堂で働き、漸く今朝方ベッドに入ったばかりの如月は、自分が雇った彼女専属の看護士からの連絡を受けてまどろみの中から一気に意識を取り戻した。
そして、その足で駅に急ぎ、始発列車を待って少女の待つ病院に急いだのだった。
「……すみません。さっきまで、目を覚ましていたのですが」
病院という場に相応しくないほどの勢いで病室に飛び込んだ如月は、ライアン・ウィンターソン看護士のすまなそうな顔に迎えられた。
ベッドの上の少女は、数日前に訪れたときと全く同じ様子で昏々と眠っていた。息を整えながらそれを確認した如月は、一気に脱力した。
「ミスター、平気ですか?」
慌てて手を貸しその体を支えたライアンは、如月の髪からふわりと漂った食欲をそそる匂いに、目を見張った。
「ミスター……なんか、おいしそうな匂いがしますね」
それはそうだろう。犯罪から足を洗った後、当面の職業として、大勢の客がひっきりなしに訪れる町で唯一つの大衆食堂の見習いコックを選んだ如月は、田舎町の陽気な労働者たちの胃袋を満たすべく昨日の夕方から働きづめだったのだ。
いったい何羽のチキンを焼き、どれだけビーンズのトマトソース煮込みの鍋をかき混ぜ、何キロのジャガイモを揚げたのかわからない。如月自身は麻痺して分からないが、髪や体にその匂いは染み付いているのだろう。
「ライアン……頼む。風呂貸して……」
よろよろとシャワー室に消えていく、この病室で眠り続ける少女の保護者の代理人を名乗る少年の姿を、看護士のライアン青年はそっと見送った。
ライアン・ウィンターソンが、この田舎の病院で特別病室の少女の専属看護士を頼まれたのは、もう何年も前のことだ。
彼が新米看護士として赴任してきた年の冬、明け方に緊急移送された小さな女の子は、転落事故にあったらしく、体が冷えきり呼吸も止まった状態で運び込まれてきた。すぐに緊急手術に踏み切ろうとした医師陣だったが、彼女に付き添ってきた児童福祉施設の職員を名乗る大人たちが拒否をしたため、手術ではなく、できる限りの応急処置と生命維持のための措置という形をとらざるを得なかった。その理由は、手術代などの高い治療費が払えないからだという。
幸い一命を取り留めた少女は、しかし、処置が遅れたため寝たきりの昏睡状態が続いた。
徐々に上がっていく治療費の請求に、施設側は回復の見込みがなければ処置を打ち切って欲しいと遠まわしに頼んできたようだ。良心的な医師がとりあえず支払いを待ち、処置を続けていたある日、彼女にとって救いの主が現れた。
突然、病院を訪れた黒髪の少年は、少女の身内を名乗る人物からの治療を依頼する書面とかなりの額の医療費を置いて立ち去った。その後、送金は定期的に続き、少女の治療は続けられた。けれども、適切な処置を早期に受けられなかった少女の意識はなかなか戻らないまま半年が過ぎた。
幼くして気の毒な事情を抱えるエイプリルという名の少女が気になり、一日一度は病室に姿を見せることがいつしかライアン日課となっていた。そのため、定期的に少女の様子を見に訪れる彼女の保護者の代理人を名乗る少年と顔を合わせることも多くなっていた。
そんなある日、ライアンはその少年から、彼女の保護者の意向を伝えられたのだ。
「病院に籍を置いたまま、彼女専属の看護士として働いてほしい、ですって?」
唐突な申し出に面食らうライアンだったが、少年が提示した破格の報酬と、何より、堂々と少女の世話ができるという理由ができることを思うと、断ることなど考えもしなかった。
それから数年。ライアンは親身に少女、エイプリルの世話をし、彼女の容態を定期的に保護者の代理人である如月少年に伝えてきた。
そのうち、彼女の保護者というのが本当は如月自身なのであろうということは薄々察せられてきた。だが、敢えて問いただすことはないとライアンは思った。如月がエイプリルの実の家族ではなく、何か事情があることは分かっていたが、彼自身が少女に寄せる心配と愛情は本物だと分かっていたから。
如月はその後も彼女の元を定期的に訪れ、必要なときにはかなりの額に上る手術の費用などもエイプリルの保護者名義で病院に入れた。
そして、二月ほど前、如月の知り合いだという高遠という日本人の伝でエイプリルの治療法を探るための検査が行われた。そして数日後には、ライアンにとって医学雑誌などで目にしたことしかない雲の上の存在に思える有名な外科医が来て、数時間に及ぶ大手術が行われたのだった。
手術の翌日、如月はライアンの元に姿を見せたが、なぜか大変疲れた様子で、腕に刺傷も負っており、慌てて怪我の手当てと点滴治療を行うこととなった。
その際、半袖の病院着に着替えた如月少年の肩から胸にかけて大きな古い傷があるのをライアンは見た。きれいに治療されているが、元はかなりの、下手をすると致命傷に近い傷だったのではないかと思ったライアンは、そのとき初めてエイプリルの保護者が普通の少年ではないことに気づいたのだった。だが、疑問を口にする間もなく、その日の如月は、あっという間に病院の仮眠室のベッドを借りて眠ってしまっていた。
その後、しばらく滞在した後すっかり元気になって病院を去った如月は、以前よりも余裕ができたのか、週末の度に病室を訪れるようになった。彼も、少女の目覚めを心待ちにしていたのだろう。ずっと彼女の世話を続けてきたライアンと同様に。
***
その如月は、今、仮眠室に備え付けられたシャワーを使っている。深夜まで仕事をして来て、服は着替えたもののそのままベッドに入ったのだろうと想像がつく。あんな時間に知らせないほうがよかったかな、とライアンは思わず心配になった。
今朝、虫の知らせなのか早くに目が覚め、いつもの習慣で朝一番にエイプリルの元を訪れたとき、彼女のまぶたが震え、ゆっくりと目を開いたのを見て、ライアンは動転した。
そのため常識をすっ飛ばして、まだ外も薄暗い時刻だというのに、自分の雇い主であり、少女の保護者でもある如月に連絡を取ってしまったのだ。
だが、連絡を受けてほとんど不眠不休でそのまま病院にやってきた少年の疲れ切った姿を見ていると、そんなに急がず朝まで待って、少しでも彼を寝かせてやればよかったと反省してしまうライアンだった。
しかも、彼女が目を覚ましたときのことを、彼に告げていいものだろうか……。ライアンは眉間にしわを寄せた。
今朝、目を覚ましたエイプリルは、暗がりに立って自分を心配そうに覗き込む青年の姿を見て、こう言ったのだ。
「凌おにいちゃん……。待っててくれたのね」
そして、ふわっと花が咲いたような笑みをこぼし、あろうことか、彼女の様子を見ようと顔を近づけたライアンに……
ちゅっ
頬に暖かく柔らかい感触を感じて、ライアンは呆然とした。
そのまま固まること、二十秒。せわしく瞬きを繰り返すことさらに二十秒。
その後、ライアンは声にならない叫びを上げてベッドから後ずさった。
(俺を、ミスター・キサラギと間違えてる……んだよな)
十も年下の少女のキスで思わず赤くなってしまった純情な田舎の青年、ライアンは、少女の間違いを正そうと口を開きかけ、そこで漸く彼女がまた目を閉じ、軽い寝息を立てていることに気づいたのだった。
その後、医師に緊急連絡し容態を診てもらう間彼女は眠り続けたが、主治医からの説明ではこの眠りは今までのように半永久的なものではなく、明け方には目を覚ますだろうということだった。
そしてその時、頭を打ってずっと意識不明だった彼女を混乱させるような過度の情報を与えてはならないとの注意を受けた。
(ってことは、彼女の誤解を正すことは、今のところは、やめておいた方がいいのか?)
シャワーを終えて部屋に戻ってきた如月は、ライアンからの説明を聞くと、目に見えてがっくりと肩を落とした。
「俺、せっかく来たのに、名乗っちゃいけないのかよ……」
「……すみません」
少女が待ち望んでいた『凌おにいちゃん』に間違えられてしまい、彼女の容態が安定するまで間違いを正さないように言われているライアン青年は、気の毒そうに謝罪した。
当の『凌おにいちゃん』は、さっきとはうって変わって石鹸のいい匂いをさせながら、再び眠ってしまったエイプリルの顔をのぞきこんだ。
如月が彼女と同じ施設にいた頃――彼に懐き、いつも後をついて回っていた幼い少女の存在が、実は当時の如月にとって心の支えでもあった。
父親の突然の失踪により、一人で生きていくことを余儀なくされた如月少年は、食べるために様々な軽犯罪に手を染めた。
その頃から少しずつ元来の明るい如月の性格は鳴りを潜め、ある時ちょっとしたミスで捕まった後しばらくは、彼には珍しく自暴自棄の状態だったのだ。身寄りがないからと施設に送られてきた頃が自分の精神が人生で一番落ち込んでいたときだな、と如月自身、後になって思ったものだ。
しかし、そこでエイプリルに出会い、少女の笑顔や自分に寄せられる無条件の絶対的な信頼を感じ、だんだん心が癒されていった如月少年だった。
その彼女が、やっと長い昏睡状態から目覚めたというのに。
もうあのときの幼い少女ではないエイプリルが、自分ではない男を『凌おにいちゃん』と呼ぶのかと思うと、如月はショックのあまり眩暈がしそうだった。
本編の後日談。意識不明の少女が目覚めたときのお話です。